2009/09/26

映画「毛皮のエロス」感想ではなく迷宮で彷徨った記録

映画「毛皮のエロス」(2006年)をDVDで観たのだがどうもしっくりと来ない。「毛皮のエロス」はダイアン・アーバスをモデルにしたフィクションだと映画の冒頭で語っている。でもダイアン・アーバスが名前だけではなく、主人公の生い立ちまで参考にしている以上、現実のアーバスと重ね合わせてしまうのは無理からぬ話だろう。

「毛皮のエロス」は簡単に言えば、夫に従うだけの主婦が芸術家へと目覚めていく過程を描いた映画のように思う。アーバスが芸術家へと目覚めたことは、映画冒頭でのシーンと映画最後のシーンとを状況的に同じにし、それへの対応の仕方が違うことで明らかにしている。そしてその差異がしっくりとこないのだ。

主人公であるダイアン・アーバスを演じているのはニコール・キッドマン。彼女の演技力と美しさには毎度のことながら眼を見張るものがある。
映画の中で彼女はダイアン・アーバスを演じきっていた。しかしそれは僕がイメージするところの現実のアーバス個人では勿論無い。でもそれはそれで一向に構わない。映画であれば映画の中でリアリティを出せばそれでよいと思う。

このしっくりこなさは、映画と実際のアーバスを較べてしまうことに発するにせよ、観客に共感を得やすいように、アーバスが変っているのは彼女が芸術家だからだ、といういわばステレオタイプに包括させてしまっていることにある。また、ダイアン・アーバスが写真家であり、カメラ及び写真がアーバスに与えた重みも全く描かれてはいない。

「カメラは道具であり、写真は単に表現者が選んだ素材にしかすぎない」
、という、おそらく一般に浸透するこの考えは確かなことなのだろうか。
でも実際のアーバスは違っていた。彼女はカメラを特別な機械と考えていたし、写真に写るものの中にこそ、自分が現したいことがあると考えていたと思える。アーバスをモデルにする場合、少なくとも、この視点を外すことは出来ないと僕は思うのだ。

映画に現れる数々の映像と言葉はこの映画のメッセージを露骨と言えるほど声高に語る。例えば、原題「fur」は毛皮を意味する、アーバスは高級毛皮商人の子供、映画の冒頭の毛皮ファッションショー、熊と呼ばれた多毛症の男性、その全身長毛に覆われた男の毛を剃るシーン、毛を剃ると現れる気品ある男性の顔、ヌーディストキャンプでの撮影時に言われる「服を脱げば撮影可能です」の言葉、などなど。

芸術家とは自分自身の欲望の発露に忠実であること、そのために内側からくる情熱を受け入れ開放すること、その当時に好奇の眼に晒された人々こそ貴族的であること、など上記の映像から受けるメッセージは現代においては受け入れやすい。

映画は観客のことを考えなくてはならない。だからこそ、観客に受け入れやすいように、様々な操作が行われる。これも僕らにとっては何を今更と言う話だろう。それによって、実際のアーバスとの乖離は修復不可能となる。僕は二人のアーバス、この映画のアーバスと僕が知りえたアーバスの間で揺れる。ただ勝者はほぼ決まっているのだ。

結論から言えば、この映画でダイアン・アーバスをモデルにするフィクションであれば、設定を大幅にかえるべきである。また、ダイアン・アーバスの名前さえ使わないほうが良かった。アーバスを多少知る者がこの映画を観たとき、混乱を与え映画を楽しめることが適わなくなる。

・・・・・・・

OK!! 僕の進め方はフェアじゃないのを認めよう。確かに僕はアーバスを、僕なりのイメージとして持っている。アーバスの生い立ちを含めた記録も知っている。そこから映画へ逆にたどり評価するのはアンフェアなのを認める。その行為は、「映画であれば映画の中でリアリティを出せばそれでよい」という自分の考えにも反するのも認める。

このカルト的な映画は、映画だけでなく観客との相互作用により何かを創造するべく組み立てられているように思う。この映画を観る人は多少のアーバスの知識を持ち合わせていることだろう。アーバスのことを知らずにこの映画を観る人はある意味幸福なのだ。その人は葛藤を知らずにこの映画に没頭できる。

実際のアーバスは語る。映像は虚構で写真は現実だと。ここでアーバスの言葉を引き出すことはルール違反なのは分かる。ただこの映画の姿を知るためには必要不可欠な言葉だと僕には思える。
文脈を提示せずに言葉のみ提示するのもフェアではない。僕が受けるアーバスのこの言葉は、補助線をつけることで分かりやすい。

「映像は虚構のように見え、写真は現実のように見える」

この映画は、映画冒頭で語るようにフィクションである。だから僕が考え書いていること自体、殆ど意味はないかもしれない。ただ僕はこの映画を通じて、あらためてアーバスを見直しているのも事実なのだ。そしてそれは、この文章がそうであるように、新たな迷宮へ歩むことだと僕は感じている。

それにこの映画の制作者は実際のアーバスのこの言葉を当然に知っているはずだ。だからこそ、あえてアーバスをモデルとしたフィクションを製作したのだと思う。それを根底にすることで、僕はこの映画の意図・姿を、おぼろげながら、言葉として伝えられないが、垣間見れるように思う。

垣間見れるのは、アーバスにおけるブレなのだ。逸話は殆どフィクションであるが、人としてのアーバスとは微妙に重なるのである。アーバスの逸話を全て載せるのは不可能だ。だからこそ、その象徴として多毛症の男性を登場させる。幾重にも張られた伏線は、映像を飛び出し、実際のアーバスとも絡まるようになる。逆に言えば、写真では全く見えないアーバスを、映画の虚構に取り込み、虚構の中で虚構と宣言し、実際にはない多毛症の男との絡みのなかで、アーバスの現実をあぶり出しているようにも思える。

虚構と現実の両方のアーバスを観客の中で化学反応させることで、よりアーバスという人間を知ることが出来る。それを目的とした映画のように僕には思える。

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