2006/01/09
ただそこに在るものを撮す
7日の東京は風が強かったがすこぶる快晴だった。この3連休の天候は荒れると人から聞いていたので、連休二日目の快晴は正月休み最後のプレゼントに思え、僕はカメラを抱え表に飛び出した。写真を撮ると言っても何も大袈裟な出来事を記録するということでもない。どんな写真でも、その人の、おそらくは審美的な価値観より発する、写真を撮るだけの価値が対象にあるのは事実だと思うのだが、それ以前に写真に収める対象は、ただ 「そこに在る」何かであるのは間違いない。
そこに在るものを、そこに在るがままに撮す。ただそれだけ。それなのに何故これだけ熱中できるのだろう。でも今回写真を撮りながら一つだけ、些末なことだけど、気がついたことがある。それは、そこに在るものを撮すにしろ、カメラを構えるとき、対象がそのままでいることを強く願うことである。風よ少しの間止まれ、と僕は願った。猫が愛らしい表情を見せたとき、その表情のままでいて欲しい、と祈ったりもした。
普段では、つまりカメラを構えていないときは、意識しないような感覚。仮に意識するにしても、例えば風になびく草花の姿を見るとき、爽やかな風を肌に感じ、風音を聞き、ほのかに甘く漂う花の香りを嗅ぐ、それら人間の五感から受ける感動は花の姿だけからではない。
まして風に対し止めと願うこともない。対象と僕の間にカメラを置くだけで、僕の感覚は少し変わる。それは良いか悪いかの価値判断などでは無論ない。
そして良い写真を撮りたいと望む。良い写真とは何かを知ることはない、でも僕はそれを知っているかのように、 写真を判別する
写真は、誰かが言ったように中毒性があると思う。その中毒性は、一つには対象を選択し、撮影のイメージを造り、そのイメージに合わせ機械を設定し、シャッターを押す、それら一連の流れが自己完結することにある。それでいて対象との関係を構築し、その関係に参加する、幻想とはいえ繋がりをそこに感じるのである。自己への引きこもりと他者への繋がり、
それらの両感覚が写真を撮る際に持ち、ひいては中毒性が生じるのではないか、と僕は思う。
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