2006/01/19
映画「笑の大学」における一つの序説としての感想
三谷幸喜の「笑の大学」をレンタルで見た。この映画は公開前から期待していたが、機会を逸してしまい見ることが出来なかった。一度機会を逃すと、気持ちも冷めるものだ。
随分前にビデオがレンタル店に並んでいたことも知っていたが、手に取ることさえしなかった。見たい洋画があり、 それを借りるついでに一緒に何気なく借りただけなのである。でもそれは正解だった。とても面白かった。
展開も早く、 セリフ回しも巧みで主要登場人物が二人だけで、しかも殆どが閉じられた部屋の中が舞台だというのに、飽きることなく鑑賞することが出来た。
監督・脚本・演出の良さもさることながら、二人の演技が良い。 特に役所広司の演技は素晴らしかった。
「笑の大学」で気になる場面があった。それは最後の場面だ。検閲官・向坂睦男(役所広司) が軍隊に入隊する脚本家椿一(稲垣吾郎)を励ました後、何故、再び検閲室からでてさらに励ましたのだろう。 部屋の中の会話で十分でなかったのか、でも少なくとも検閲官・向坂睦男にとっては十分でなかったのだろう。
抑えがたい衝動が部屋から飛び出させ、そして検閲官の立場では言ってはいけない言葉を語る。その時の向坂の心情はどういうものだったのだろう。 映画を観ている最中は、その時の向坂の行動は自然で僕は納得した。
この素朴な問いかけは映画を見終わった後に徐々に沸き上がってきたのである。
何故、どこに僕は納得したのだろう。 その点が今回の感想の出発点だった。 この映画の設定が戦中であることとか、椿一の仕事が一枚の赤紙によって中断されることとか、 それらのことは僕にとっては大きな意味を持たない。大事なことは「笑の大学」は主要登場人物が二人であるということ、 そしてこの二人の立場と目的は対立しているということであり、その状況を創り出すために戦中という時代設定が必要だったと思うのである。
映画冒頭は向坂が検閲官として数名の脚本家と対応してい場面から始まる。向坂の仕事に対する姿勢が出ていた。そこでは検閲台本の作者たちは、初めから検閲官・向坂と敵対する者として登場する。そして向坂の目的は自分とは相容れないとの立場を崩すことがない。それは互いに了解し合う可能性を否定するということに繋がる。
また向坂にとって意に合わない舞台を不能にすることは、台本に大きく干渉することと同義であった。しかし椿一の場合、台本への干渉は致命的ではなく、彼の目的は上質の喜劇を上演するということであった。それが二人の行動の奇妙な一致を見ることになる。
向坂は坊主のカツラをかぶってまで台本に関わりを持った理由は、向坂の仕事と矛盾する行動ではなかった、と僕は思う。彼は職務に忠実であったが故に、業務範囲を超えて、あくまで台本に干渉し続けたのである。ただ、 この二人の奇妙な共同作業による新たな脚本の創造は、互いの立場を超えた人としての了解へと繋がっていくことになる。それは向坂にとって椿の世界観、笑いの世界、を知り了解することになっていく。
ただ椿自身は幾分向坂のそうした対応を過大に評価してしまうことになる。それが自分の思いを吐露する場面になるのであるが、その結果向坂自身の職務、それは相手を了解する以上の重みを持ったもの、を喚起させてしまうのである。
向坂の最後通告である 「笑いの要素を全てなくすこと」は、彼自身が椿の世界観を了解しているからこそ出る、椿にとって致命的な要求であると僕は思う。
「やってみなければわからない、僕は自分を信じている」と言い残した椿が、翌日に向坂に渡した台本は今まで浅草で学んだ笑いの全てが入った完璧な脚本だった。向坂はもう自分の笑いを抑えることが出来ない。
しかし椿は赤紙が来たことで台本の上演をあきらめていた。逆に、向坂の中に育った脚本への思いは捨て去ることが出来なかった。
上記の流れの中で僕が向坂の行動に自然な気持ちを持ったのは、語ることが相手にきちんと伝達され了解しあう事で、互いの世界の中に構築された共有する思い、それを自分の中にあることを認識し、その事を椿に伝えたいという強い気持ちを向坂が持ったのが理解できたからだった。
椿を励ます向坂は、前日に「自分を信じている」 といった椿の気持ちに近かったと思う。部屋の中での語りだけでは、向坂の語ることが椿には伝わらなかった。そう感じたのだろう。 伝わるというのは、単なる言葉の伝達ではない。逆に言葉に頼ると、その人が本当に伝えたいことは伝わらないとさえ思う。 向坂が部屋から飛び出したのは、その現れだと僕は思う。
そしてその行為に椿は自分の思いが向坂にしっかりと伝わったことを知るのである。
人が人を理解することの一つの可能性、それも対立する間柄であろうが了解しあえる一つの可能性をこの映画は提示してくれたと僕には思えたのだった。
実を言えば、 この映画を観て僕は別の一つの映画を思い出していた。それは「ロスト・イン・トランスレーション」という映画だった。
タイトルがそのまま主題となっているこの映画では、主人公についた通訳の拙い翻訳が象徴的に登場する。異言語空間でのコミュニケーション・モデルの不在と、そこからくる孤独感の中で、人はやはり人を求めるのである。
ロストしたのは拙い翻訳のことではない。それは語ることを相手に伝達する気持ちの喪失であり、それを異言語空間の中で象徴的に表しているのだと僕は思う。
少なくとも、向坂と椿は「ロスト・イン・トランスレーション」 の登場人物と同様の孤独感もしくはその麻痺を味わってはいない。椿にとっては、 検閲室よりは劇団のなかでこそ孤独感を味わったことだろう。それは一度も笑ったことのない向坂にとっても同じだった。
それは同一言語だからという理由では勿論ないと思う。
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