Flickrは英文サイトで世界中の人が利用している。だからそこで使われている言語は英語が中心となる。最初写真一枚毎に英語で短いコメントを綴ろうかなと思ったが、馴れない英語だと自分の思いが正確に伝えられない様に感じ、結局コメントなしで写真を掲載していたが、最近になって日本語でコメントを書き記すようになった。
日本語で書くと言うことは、写真の宛先が日本語を理解出来る人だと受け取られてしまう可能性が高いと思う。それは写真が持つ伝達の幅を自ずから限定してしまうかもしれないと躊躇したが、やはりコメントを付与したいという気持ちには勝てなかったのだ。
僕が撮る写真は素人そのものだと思う、それでも一つだけ心がけていることがある。それは「日本人以外」の気持ちと立場になって様々なものを観るということだ。簡単に言えば外国人観光客の視点に近い。その見方を持てば僕の周辺には珍しいものばかりである。美しい物を、意識的に、技術的に駆使して、僕は写真で追い求めるようなことはしない。ただ身近にある多くの何気ない面白さを写し取りたいと願っている。
外国語を話している時でなくても、自分の言語の中で外国人になること。方言やパトワさえ用いずに、一つの同じ言語の中でバイリンガル、マルチリンガルになることバイリンガルであるということは、日本で最も多いバイリンガル集団が在日の方であることが示すように、バイリンガルにならざるを得ない切実な状況がそこにあると僕は思う。モロッコでは、正則アラビア、口語アラビア、ベルベル語、フランス語、の4つが現実的にあると聞く。これら4つの言語を並べてみるだけでもモロッコの歴史が見えてくる。
(ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「千のプラトー」から引用)
日本語においても最近クレオールタミル語説が登場し批判も含め色々と話題を提供している。一つの言語が他の言語と交わらずに成立することなど想像することが出来ない。全ての言語は雑種性があるのだと思う。つまりは一つの言語を使うときにでも、その中に様々な言語が在るということなのだろう。
ドゥルーズとガタリが語る「自分の言語の中で外国人になること」とは、僕にとっては、言語を含めこの雑種性を感受する力を持つことだと受け取っている。
「自分の言語の中で外国人になること」を意識したのは、僕が文章を書けなくなってからだった、そして写真を撮る際に外国人の立場でと思い始めたのも丁度そのころだった。だからつい最近の話だ。一見思いもしないこの二つは僕の中で繋がっている。
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