2006/01/27

最近の読書遍歴メモ

僕はこの数ヶ月の間山本七平氏の「現人神の創作者たち」に掛かりきりだった。4回読了を試みて躓いた。5回目で最後まで読み通すことができたが、本当に読めたかは疑わしい限りだ。ずいぶんと前に読んだ記憶はあるが、今を思うと何を読んでいたことかわからない。というのも読んでいる時に、以前の記憶がわずかな断片としてしか蘇ってこなかったからだ。まるで初めて読むような、そんな感覚が伴って僕は読み続けた。

「現人神の創作者たち」を読むそもそもの動機は、竹田青嗣氏の「苦しみの由来」を読み、その文体と内容に心が揺さぶられ感想文を書きたいと思ったからだった。「苦しみの由来」は在日作家金鶴泳氏の自死に際しての追悼文という形をとってはいるものの、それに止まらず人が生きるという一つの側面を的確に捉えているように僕には思えた。評論集「現代批評の遠近法」の冒頭に収められている、ページ数にして10数ページの小編ではあるが、僕はなかなか感想文が書けなかった。

関連する著作も少なからず読んだ。例えば、同じ評論集の中に収められている「沈みゆくものの光景」、竹田青嗣氏の処女評論集「在日という根拠」、金鶴泳作品集の巻末に載っている後書き、勿論金鶴泳の著作も読んだ。
この時期の竹田青嗣氏の著作には色濃くサルトルの実存主義が現れているように思えるが、それだけでもなく、その後に続く竹田氏の思想の流れがわかるように思えた。つまりは「苦しみの由来」を読めば、現在著書「人間的自由の条件」に辿り着いた理由がわかる、そういう面で金鶴泳著作と「苦しみの由来」は竹田氏の明確な出発点だと僕には思えるのだった。

感想文を書けない理由の一つは僕にとって明確である。日本人・日本社会と対抗するために成り立つ在日朝鮮人もしくは在日韓国人と彼等の在日社会、「沈みゆくものの光景」には「日本人化」という言葉が僕には目立ったが、僕にはそれが何を示唆しているのかが不明であった。ここで竹田青嗣氏のテクストを引用するのは適切ではないと思う。その言葉が在る箇所が竹田氏が伝えたいポイントではないと思うからだ。それにこのブログ記事は竹田氏の「苦しみの由来」感想文ではなく、最近の読書遍歴を辿る事が目的で書いている。ここで言いたいことは僕自身が「日本人」は何かという事を知らないのが大きかったということなのである。

僕は学生の頃茶道を習っていた。3年間ほどの期間で、熱心な生徒ではなかったが、それでも時折の茶会では表千家の男手前で客をもてなすこともあった。茶道を習う動機は至極単純であった。その頃友人たちの間で英語を含めた外国語会話の習得を始めるのが多かったので、僕はそれに反発して茶道を始めたという訳だった。外国語と茶道はある意味繋がっている。例えば西洋文化に対応する意味で日本文化が成り立っているように、対応する外の国の存在がなければ自ら成り立つことが出来ない、と僕は思う。実を言えば「西洋文化」「日本文化」という名詞を使ったが、それらが何を意味するのかは僕にはわからない。「日本文化」が「日本」(この意味もよくわからない)で発生した「文化」を指し、歴史の変遷において様々な特徴を持った文化が華開いた、等と教科書には書かれることだろうが、例えば「桃山文化」は時間軸から見た区分として一般には1573年から1600年までを言うが、その時間軸上に他の地方にも全く違った文化が華開いていたと安易に推測が出来るし、作風を主の場合でも現代において利休好みの陶器を造ったとしたらその作品は桃山文化の作品とも言わない。文化とは可算名詞ではないと思う、だからこそ総和としての「日本文化」などはあり得ないとも思う。

つまりは「日本文化」とは日本という近代国家成立において、国語の成立と同様の意味合いで造り出された幻想とも言えるかもしれない。日本文化はそれと対になる欧米各国の文化があって成り立つものであるから、別の見方をすれば西洋に従属した視点を持つとも言える。それはあたかも在日コリアンのオールドカマーが在日の主張を強く言う事で逆に日本社会が濃く浮かび上がるような構図に近い。

歴史が「連続」であるか「非連続」であるかの問いも似たような感じがする。「連続」としたい欲望は誰がどこからどういう理由で要請されるのであろうか。それは「非連続」も同様であろう。僕等は維新以降に整備した学校の授業において国が認めた日本史を習う事により、有史以降面々と続く日本の歴史が擦り込まれる。でもつい百数十年前の江戸時代に書かれた書物を原著で読むことは難しい。それらは外国文学と同様に翻訳が必要なのである。では歴史は「非連続」であると思うかと自分に問えば是との回答を即時出ることもない。矛盾するかもしれないが僕の中では「連続」でもあり「非連続」でもあるのだ。

上記の茶道からの文章は現代思想の潮流の中で幾度も聞いた話を大雑把に書いているにすぎない。僕自身が「日本」を模索しようと思ったとき、用意されたテクストはポストモダニズムの流れをくむものばかりだった。それらは年月と共に僕らの生活に強く入り込んでいる。僕らは時代の思想の中に取り込まれその中で生きている。山本七平が忘れられていく過程とその流れは奇しくも一致している、と僕は思う。

先だって渋谷の巨大書店に山本七平の書籍を求めに行ったとき驚いたことに日本思想(これも訳がわからないジャンルだと思う)の棚には彼の書籍がおいてなかった。店員に聞いたところ通常の作家と同じ扱いだという。さらに彼の代表作とも言える「現人神の創作者たち」は既に絶版となっていて、amazonの古書店では倍以上の高値で取引されているのである。

日本を模索する案内図として僕は山本七平を選んだのは、その歴史観が僕の感覚に合っていたと思えることが大きい。彼は歴史を基本的に「連続」と捉えていると思う。しかし意図的に歴史は消される。近年では維新と敗戦の二度にわたり歴史は消されているという。山本七平は「現人神の創作者たち」序文でベルツの日記に書かれた日本人の言葉(我々には歴史がありません)を引用し次のように書いている。

この抹殺は無知を生ずる。そして無知は呪縛を決定的にするだけで、これから脱却する道ではない。明治は徳川時代を消した。と同時に明治を招来した徳川時代の尊皇思想を形成の歴史も消した。そのため、尊皇思想は思想として精算されず、正体不明の呪縛として残った。そして戦後は、戦前の日本人が「尊皇思想史」を正確に把握していれば、その呪縛から脱して自らを自由な位置に置き得たのに、それができなかったことが悲劇であったという把握はなく、さらにこれをも「恥ずべき歴史」として消し、「一握りの軍国主義者が云々」といった「まやかし」を押し通したことは逆に、裏返しの呪縛を決定的にしてしまった。
(「現人神の創作者たち」から引用)

山本七平の歴史観は現在僕らが考え一般的に流通している者とは多少違うと思う。歴史とは相対的でありかつ政治的な選択の問題でもある。また維新から敗戦までの日本の歴史は、その歴史観が西洋に従属されている事の暴露の元、従来の国民的歴史からの脱却が強まっているし、統計データ等の数量化によるより客観的な手法が活用されることが多くなっている。その潮流の中で山本七平の「現人神の創作者たち」における歴史観は「呪縛」という言葉が多く使われる様に、歴史書・思索書というより限りなく文学に近いと受け取られているのかもしれない。それであったとしても、僕にとっては無視できない視点であることは間違いなく、それに読めば腑に落ちることも多い。

「現人神の創作者たち」を読むにあたり、平行して関連する彼の著作も読んだ。「ある異常体験者の偏見」、「洪思翊中将の処刑」、「日本的革命の哲学」などである。イザヤベンダサン名義の著作「日本教徒」と「日本人とユダヤ人」の再読もした。ネットで「現人神の創作者たち」の感想の検索も行ったが、これに関してはまったく成果がなかった。「松岡正剛の千夜千冊」で紹介してはいるが内容は単なるあらすじでしかない。確かにこの本は読みづらいと思う。原文のままの引用が多く、それを読むだけでも根気が必要となる。特に浅見絅斎の「靖献遺言」、安積澹泊を編集長とする「大日本史」、栗山潜鋒の「保建大記」の引用が多かった。「靖献遺言」については近藤啓吾氏の「靖献遺言講義」が参考なった。

なぜ山本氏は原文の引用を多くしたのであろうか。彼にとっては必要だったとしか言いようがないが、でも何故だろうという疑問もある。山本氏が選択した文体が理由の一つとして挙げられるとは思うが、僕がこの本を読んで思うのは、山本氏自身が「現人神」探索過程と思考の道程をつぶさに現すことが必要だと彼が考えたということだ。過程を記述することで当然に原文の引用も多くなる。さらには読者が追体験をすることで内容だけでなく山本氏が「現人神の創作者たち」を書くに至った動機も理解してもらうことにも繋がってくる。ではその先にはいったい何が在るのだろう。

竹田青嗣「苦しみの由来」の感想文を書きたいと思ったのが出発点だったが、「現人神の創作者たち」は参照レベルを超えていた。今の僕に「現人神の創作者たち」の感想を書けるかと問えば、難しいと答えざるを得ない。今僕は6回目の再読を目論んでいる。6回目は5回目より深く読めるのかもしれない、いやそう思うこと自体が誤りなのだろう。

「苦しみの由来」について話を立ち戻る。僕は竹田青嗣氏で初めて在日作家金鶴泳を知った。その姿はあくまでも竹田氏が翻訳した金鶴泳であったし、僕はそれに感銘を受けた。逆に言えば、僕は強く竹田氏の言葉に囚われ続けているのも事実だと思う。感想を書くというのは僕にとってそこからの脱却を意味することに近い。一端離れなくては感想を書くことは出来ない、と僕は思う。その要請が山本七平氏の著作を再読することになったが、それはさらなる迷路に繋がっていたようだ。いましばらく僕の中でこの2作品を使っての遊びは続くことだろう。

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