従兄弟が末期ガンの宣告を受けた。実はこういう話をブログに書くこと自体気がとがめる。勿論「僕の従兄弟」と書くことで、この記事を読む方が誰かと判明出来るとも思えないし、記事に特定の情報を書くつもりもない。また親戚の誰も僕のブログを読んでいるわけでもないので、僕が従兄弟のことを少し書くのを知るよしもない。でも彼のことを書いているということを、他でもない僕が知っている。そして僕は従兄弟のことを題材にしてブログを書く自分に幾ばくかの責めを課しているのである。さらに言えば、本当に書きたいことは従兄弟のことでもない。末期ガンの宣告を受けたと知ったときの自分の気持ちを書きたいと思うのである。
従兄弟は僕と二回りほど年が離れている。といってもまだまだ若いと僕は思う。彼は僕が幼い頃とても面倒を見てくれた。映画に連れて行ってくれた。遊園地にも一緒に行った。彼は優しく大きくそして豊かな感性と知性を持っていた。従兄弟が結婚し二人の娘を授かり、彼女たちに溺愛している姿を見たとき、僕は彼の娘達に軽い嫉妬心を持ったのを覚えている。
それまでは僕の方に目を向けていてくれた彼の変貌に子供ながらとまどいを持ったのだった。そのくらい僕は彼の事が好きだったし、彼への愛情は今も変わることがない。
従兄弟は医者嫌いで滅多なことでは病院には行かなかった。その彼が最近の不調に耐えかねて病院に行ったのはつい最近のことだ。そして2週間の検査を経て医者が対応しきれないほどガンが進行しているのが判明したのだった。まずは大腸ガン、そして患部に腸閉塞の恐れがあった。ガンはリンパ腺を通じ全身に転移していた。肝臓が侵されていた。水も腹膜に溜まっているらしい。
さらに問題は狭心症で心臓が弱く、手術と抗ガン剤に耐えられないとも言われたそうだ。つまりなすすべがないのである。従兄弟の今の状態では腸閉塞が始まればそこで終わり。医者の経験で言えば、早くても九ヶ月、過去の事例でもっても2年以内と言われたらしい。
宣告を受ける前に僕は彼の所に見舞いに行った。彼は普段と変わらぬ、穏やかな姿で僕に対応してくれた。「病院は退屈で死にそうだ」と笑いながら僕に話してくれた。宣告を受けてから僕は彼に会いにいっていない。彼は今どのような気持ちで過ごしているのだろうか、
よく眠れているのだろうか。考えるだけでも心が重たい。
その時、見舞いに行った帰り、僕は彼の家に足を向けた。そこには彼の奥さんと娘さんがいて、彼女たちと僕は従兄弟のことについて話をした。奥さんによれば従兄弟は昨年から自分の病気が重大なことを知っていたそうだ。そして医者から「診断書」を渡されていたが、それっきり病院に行かなかったそうである。その出来事に奥さんは「怖がったんじゃないか」
と言い、娘さんは「お父さんは現実逃避するタイプだから」と言っていた。現実を逃避する性癖は僕を含め一族男性の特徴でもあるらしい。
でも僕は二人の女性の話をすぐに頷くことも出来なかった。それにその時点で仮に検査に行ったとしても、現状が大幅に変わっていたとも思えなかったのもある。また奥さんは、従兄弟が検査入院をする前に医者から受け取った診断書を見せてくれた。大きく「診断書」と書かれた紙にはワープロ文字で従兄弟の病気について概略が書かれてあった。その中には「重大な状態(死)」という文字もあった。
その紙を従兄弟に渡し医者は「さぁどうしますか?」と聞いたそうである。それに対し彼は何も答えなかった。そして検査入院が決まる一悶着までの間、従兄弟はその紙を無視したのである。
「さぁどうしますか?とこの紙をいきなり見せられてもねぇ」と奥さんが言う。僕はその言葉に頷き、彼が医者から診断書を受け取ったときの状況を想像する。「さぁどうしますか?」の一言は医者として自分の敗北を認める言葉でもある。
でもこの際医者を責めても何の意味もない。この診断書を見つけた奥さんはすぐに病院に行ったそうである。そして検査入院の段取りを決めた。診断書には「進行性」と書かれてあったにもかかわらず、病院側が最初に指定してきた日は一ヶ月ほど後の日であった。それを何とか二週間先に交渉した奥さんは、その話し合いの後で医者からこう言われたそうだ。
「ガンと言ってもすぐに死ぬわけではないですし」
つまりこの時点で担当医は従兄弟がガンの末期であり回復は難しい事を知っていた。医者の言葉は従兄弟にガン患者の属性を付与し、ついで生者でありながら「死者」の属性も付け加えようとしていた。僕にとって大きくて優しい従兄弟は、いきなり今まで培ってきた個性、社会的位置、父親、夫、等々の様々なアイデンティティが単一で無個性な「末期のガン患者」に上書きされる、そんな気持ちを僕に抱かせた。
おそらく医者自身はそんな気持ちを見も知らぬ患者の親戚に抱かせたとは知るよしもないだろう。従兄弟は上書きされた自分の属性に抵抗したのだろうか。多分彼のことだ、無視という態度を装うことで自分自身を保っていたのかもしれない。そしてその姿が娘さんからは「現実逃避」、奥さんからは 「怖がっている」というふうに見られたのかもしれない。
属性の上書きはある意味正しいともいえる。それこそ生死をかけ、彼の持っている力の全てをもって戦うのである。その事実を誰彼とも忘れられないように、ガン患者の周りの人達はすすんで属性を上書きしていく。また、医者の言った言葉は多くの方が語る言葉でもある。ガン患者の体験記的な書物の題名にもなったことがある。
母が以前に膵臓ガンになったとき、実際僕自身も医者から言われた。つまり十分にお別れをし、気持ちの整理を付ける時間が持てるというわけである。交通事故で亡くなる場合はそう言うわけにはいかない。交通事故、脳卒中、脳梗塞などなどと較べて、確かに時間はあるかのようだ。
しかし「気持ちの整理」とは誰に向けての言葉であろうか。例えば従兄弟には明治生まれの老母が健在である。母にとってはいくつになったも息子は子供であろう。この年まで長らえ、人生の最後の時期に息子を見送る、彼女にとっては耐えられない事ではないだろうか。その母に向かって、医者の言葉は届かない。
さらにガン患者が幾つもの沸き上がる気持ちを乗り越え、自分を正しく見つめる中で、何かを得る事が出来、その結果において言葉として、医者が語った言葉を述べるとしたら、それは多くの人が聞くべき言葉になることだろう。医者といえども、外部の人間が内部に向かって語るべき言葉とも思えない。僕は経験者でしかその経験した事がわからない、などとここで言うつもりはないし、その様な考えを持っているわけでもない。ただ公共的な事項に抽出できない個人の問題に関しては、やはり言えるべき事と言えないことがあると思うのである。
つい先日、従兄弟の奥さんから電話があった。何も出来ないで手をこまねいて腸閉塞が起きて終わりでは良くない。出来れば腸閉塞の改善にむけての手術をリスクは高いが行う、とした医者の話があったとの事だった。開腹して腸閉塞の対処の他、状況次第では大腸ガン患部の切除も行うそうだ、あくまでも開腹して中を見ての判断だと医者は言っているが、従兄弟と奥さんにとっては一筋の光明が差し込んだ思いのことだろう。勿論僕も強く彼の奇跡的な回復を願っているし、出来るだけ長生きして欲しい。そして従兄弟がやりたいことをやり遂げられる事を願う。たとえそれが老母より一分でも長く生きることであっても。
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