2006/05/06
おそらく
生命には多くの反復と少しの逸脱があるように思える。それが端的に表れるのが植物であり、特に葉なのではないだろうか。その姿には心地よい反復と色彩がある。だから見続けても僕は飽きることがない。
この植物はマダガスカル島南部に自生するハイビスカスの一種と聞いている。何故葉がこのような姿になったのか僕にはわからないが、必ずそこには理由があるとも思う。「進化の過程」という文脈で語ることは僕は好きではない。今の形は今の環境に適している、そう考える方が良いと思うのだ。想像で木の葉の形を言えば、葉で全天を覆っても必ず日が差し込む隙間が出そうだと言うこと。それは雨水に対しても同様だと思う。
実はこの葉の姿で最初にイメージしたのは雪の結晶だった。緑の結晶、それは僕にとって悪くないイメージだった。
同じ事の繰り返しは人を退屈にさせる。それは反復により意味が減少するのも理由の一つだと思う。例えば流行語が繰り返し使われることで意味が喪失し、そして無意味な場所で無意味に消費されるに至る。最期は苦笑と共に言葉が語られることで、かつては新鮮な言葉だった流行語は退屈な言葉となり、次第に使われなくなる。それは反復により飽きられる過程でもあると思う。
しかし葉の造形に僕は飽きることがなかった。ただおそらく上のように写真に撮り、それをパソコンのデスクトップ画像にすれば、僕は1ヶ月もすれば飽きてしまうだろう。実際の葉と写真画像の葉と何が違うのだろう。それは画像の葉は意味を含め固定されてしまったが故だと僕は思う。それに較べ、実際の葉は環境の変化で新たな意味を創り出していく。
勿論、同じような反復は人間も創り出すことが出来る。ラヴェロの「ボレロ」は僕の好きな音楽の一つでもある。
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