2006/07/13

癌について少し考える

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僕は「末期の癌患者になった従兄弟」という話の中で、「それこそ生死をかけ、彼の持っている力の全てをもって戦うのである」、と書いた。
その眼差しで従兄弟のことをみれば、なすすべもなく崩れていった彼の姿しか思い浮かばない。癌との戦いは消耗戦であり、少しずつだが確実に彼の肉体を侵略し、ついには完全に屈服させられる。彼は癌との戦いに負けたのだ。

上記の眼差しは、 僕は知らぬ間に従兄弟が癌に罹った聞いた時点から、自分の気持ちの中にあったのだろう。そしてその癌への見方が、 「戦う」という文章になったと僕は思う。しかし今ではその見方が違うのではないかと思っている。

「癌との戦い」、癌治療に対し軍事用語が頻繁に使われる。癌は肉体を地図としたとき、まず人知れず橋頭堡を確保し、そこを起点として勢力を徐々に拡大していく。目立たずに侵攻する様は見事としか言いようがない。それに対応するには、進行(侵攻)を止めるべく行う化学療法、もしくは癌が在る部分(橋頭堡)自体の切除となる。

「戦い」と言うからには、双方に戦う相手が必要となる。片方は病気としての癌と言うことになろうが、もう一方は誰なのであろう。

おそらく患者自身は、癌との戦いに参戦している意識は薄いのではないかと僕は思う。人は誰でも重い軽いの隔てなく病に罹る。その時、例えば単なる風邪であっても高熱であれば、病人はただ朦朧とした意識の中で横たわるしかなく、後は自分自身の免疫力と、周囲の介護に身を委ねるしかない。意識の上での病人はただ無力である。

ただ、病としての癌のイメージとして、そこに戦争が在る限り、患者は突然の医師の宣告により戦場に投げ出されることになる。ただ実際に戦う意識を持つのは医療関係者と患者の家族かもしれない。そして双方の狭間で、患者は「癌との戦い」の兵士ではなく、単に戦場としての地図であることを意識し、人として無力感を持つに至るように思える。

従兄弟が腸閉塞と患部切除の手術を受けた後、医者は彼に対し食事と運動を強く促した。おそらく具体的に「戦い」に参戦せよとの要請であったに違いない。しかし彼は両者とも出来なかった。食事と運動、それが程度の問題に関係なく、その行為自体においても人間は力を必要とする。気力の問題以前に彼にはその力がなくなっていた、おそらく手術がその力を奪った、僕にはそう見えた。

癌以外にも人間はそれこそ多くの病気に罹る。でも「戦い」と公然に呼ばれる病は意外に少ないと思う。例えば「老人性痴呆症」は病であるが、だれもそれを「戦争」とは言わない。もしかすれば介護はそれこそ「戦い」に近いと思う。ただ仮に「戦争」と呼ばれたとき、戦うべき「敵」とは一体何を示すことになるのだろう。病としての「癌」のイメージは「戦争」に結びつく。そして誰も好きこのんで「戦争」に飛び込みたくはない。

だから検診などで癌マーカーが出ていない事を祈り、癌予防に効くと云われればそれを試し、発癌性物質があると言われる製品からその身を遠ざける。 でも企業などが行う定期検診の殆どは、法令で定められた最低限のことしか行っていず、そこでわかる病もあるが、
それ以上に見逃してしまう病のほうが圧倒的に多いのではないか、そう思っている。

実際は「癌」は人間が罹る病の一つでしかなく、重大ではあるが特別な病気ではない。
しかも早期発見をすれば完治する率が高い病気でもある。 しかし何故未だに多くの遅れてくる癌患者の多いことか。問題は病理学的な癌以上に、 癌という病いのイメージそのものにあるように思える。 そしてそのイメージが社会に蔓延することで、人は癌検診を受けるのを避けるようになるのではないだろうか。

社会に蔓延している癌のイメージとは、一つは上記に述べた悲惨な戦争のイメージであり、一つは長期入院を余儀なくされることから、競争社会の中でそれまで築き上げてきたキャリアをなくす恐れであり、一つは患者として社会から隔絶した病院の管理下に入るということである。 しかし癌と言えども全てが同じ症状になるとも限らない。癌の部位と程度、または肉体的な個体差により症状はまちまちだと僕は思う。

もしかすれば自分の身体を顧みて癌かもしれないと一人戦々恐々としている人が多いかもしれない。人は不調を続けて感じたとき、まず癌ではないかと疑う。しかし癌のイメージが病院に行くことを押しとどめる。そしてもうすこし様子を見ようと言うことになる。その不安感は、人を健康へと目覚めさせる。身体によいと聞けば様々なことを試し、暴飲暴食を慎み、生活態度を改めさせ、適度な運動を心がける。もしくは色々とある健康器具類をそろえる方もいるかもしれない。しかし、自分の健康への目覚めは良いことではあるが、それ以前にまずは病院での検診こそが必要だと僕は思う。

また病気に罹るということ自体で、患者は罪悪感に囚われる場合もある。まずは多くの場合、病院で医者から言われる 「何故もっと早くこなかったのですか」という一言が患者に罪があることを意識させる。そうでなくても患者は、「何故自分が」という不公平感に囚われているのである。そして過去を振り返り、生活が乱れていたとか、暴飲暴食をしたこととか、家系のこととか、様々な要因を自分から引き出し、気持ちを納得させようとする。でもそれは本当のところ難しい。癌の発生理由の根本的なところは、様々なことを言われているが全ては仮説であり、本当のところは誰もわからない。

癌は罪でも、ましてやその人の罰ではない。 癌に罹った理由を自分自身に求めることは、
病いに対して社会が造りあげた虚妄に乗るということだと僕は思う。また癌は外来的な原因によることも十分に考えられる。いずれにせよ患者に罪は全くない。ここで患者が自分に罪をかぶせると、それは先々医者とのコミュニケーションが、医者からの一方通行になる恐れがでてくる。自分の命(人生)を判断するのは、医者ではなく最終的には自分でありたい、
僕はそう思っている。

病いとは人間の肉体に及ぼす物理的な作用であり、だからこそ本来は癌への対応は技術的側面を持ってすべきだと僕は思う。よって病いに関しては、心理学的、 社会学的見地からの意見は必要ないのかもしれない。技術的側面とは、定期検診による自分の肉体の現状を知ること、癌に罹った時のために医療保険に検討加入すること、また信頼のおける病院を幾つか知っておくこと、医者とのコミュニケーションを円滑に行うべくノウハウを知っておくこと、自分の身体を守る為に時として疑問は残さないこと、また時として自己主張すべきであること、等のいわばハウトゥーである。

上記の事柄は当たり前のように聞こえるかもしれない。でも癌への様々なイメージは、隠喩として使われ、感動的な美談として映像化され、ロマンチックな悲恋物語の結末として小説化され、その他様々な状況・メディアにより再生産され続けている。現在では、癌を死と結びつけて考える人は少なくなったと思うが、それでも昔のイメージとしての癌はしぶとく生き残っている、と僕は思う。だからこそ、それらに付随する商業化した健康ビジネスの中で僕等は消費活動を続けているのである。

実を言えば僕も医者・病院嫌いで、滅多なことでなければ病院には行かない。だから上記の話題を書く資格はないのは自覚している。でも今回従兄弟のことを通じて僕が感じたことを少し書きたいと思った。まだ書き足りないのであるが、それらはまた別の機会に書こうと思う。

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