2007/12/11

映画「記憶の棘」の不思議さ

ニコール・キッドマン主演の映画「記憶の棘 」(2004年公開)を観た。観終わったときに不思議な雰囲気を持った映画だなとまず思った。でもその「不思議さが」どの様なものか、映画のどの部分に感じたのかがよくわからなかった。レンタルDVDだったので気になる箇所を何度か繰り返し観たが皆目見当が付かない。何かブログにでも書いてみれば少しはわかるかもしれない、などと思い軽い気持ちでメモをすることにした。(映画のあらすじはYahoo映画 に詳しく載っている)

主演のニコール・キッドマンは確かに上手い役者だと思うし、この映画でも役所を的確に押さえてもいる。しかし最初に画面に登場した際、僕には彼女がキッドマンだと認識することが出来なかった。短髪で、服装は品があると言えばそれまでだが、今までになく地味で、全体から見ると彼女の存在感は薄い。逆にキッドマン扮するアナの回りを固める出演陣が個性的で、だからこそ演出の意図を感じるのではあるが、存在感の薄さはさらに対照的で際立ってくる。(ちなみにアナの母親役はあのローレン・バコールだ。)

冒頭の雪の中ジョギングする男性の背中を追いかけるカメラワーク。このまま男性が走る姿の映像を流し続けるのではないかという予想を持つほど、それはそれで飽きずに見てしまう僕がいるのだが、このシーンは長く続く。一つ目のトンネルを越え、またしばらく走り、二つ目のトンネルの入り口付近で胸を押さえ倒れ込む男性。その瞬間に、産湯の中から顔を出す赤ん坊。これらの流れは初め何を意味しているのかがまったくわからなかった。

物語はそれら冒頭のシーンの10年後から始まる。そして徐々に冒頭シーンの意味が伝わってくる。アナの婚約パーティに突然に現れる10歳の男の子、彼は自分はアナの亡くなった夫ショーンだと言う。そしてアナとショーンの二人しか知り得ないことを彼は語り出す。その記憶の確かさに徐々に翻弄されゆくアナと男の子(彼の名前もショーンという)の両親たち。

映画の設定上では、男の子とアナの亡き夫との間には二つの共通項がある。一つ目は同じ名前(固有名詞)を持つということ、二つ目はアナの夫であるショーンが亡くなった日と男の子が誕生した日が同じであるということ。それらは冒頭のシーンの繋がり、トンネルの中で亡くなると同時に産道から誕生する、という連続した流れと共に、映画鑑賞者に「輪廻転生」を意識させる。ただこの映画は神秘的な側面を強調しているわけでもなく、男の子がアナの亡夫の個人的な記憶を何故知り得ているのか、映画後半で理由も提示している。

ただ僕にとっては男の子ショーンがアナの個人的なことを知りえた理由は何でも構わない。それが如何に観客が納得できそうな理由であるにせよ、この映画の出発点はその謎解きにあるのではないからだ。例えば、多くのラブロマンス物は、それが悲劇的な結末で終わる場合、愛する一方が亡くなり一旦は絶望の中に陥るが、やがては亡き相手の愛を感じることにより再び生きる力を抱く、という構造を持っているように思う。特にそれはハリウッド映画の、強いて言うとすればキリスト教国が製作する映画に多いように思える。おそらくはキリストの復活をモチーフにしているのかもしれない。では実際に愛する者が復活したらどうだろう、それもまったく違う姿で、長い時間の後で。愛の不滅性はこの場合でも表現できるのだろうか。この映画の出発点はこの問いだと僕は思う。

そうなると幾つかの問題が出てくる。まずは亡き夫がアナに向けられた愛は、亡き夫でしか適うことができないのかと言う問い。亡き夫の生まれ変わりであることをどの様にして証明するかということ。そもそもアナ自身が亡き夫に向けていた愛が変質していないことをどの様にして保障できるのだろう。また男の子が「アナ愛している」といったとき、男の子のアナに向けられた愛が以前の亡き夫の愛と同じことをどのようにして確認できるのだろう。僕は意図的に「保障」とか「確認」と言う言葉を使っている。特定の男女の愛が特殊であるならば、一般論としての愛の言説はそこには意味を成さない。しかし、愛の特殊性を論じるのであれば、時間を経て姿かたちを変えた相手に対しても以前と同じように向けることができるのだろうか。

映画では男の子が亡夫ショーンであることの証明として「記憶」に重きを置いている。仮に男の子が亡き夫であるならば、そして男の子が亡き夫であることを意識し、アナを愛しているとするのであれば、そのほかの記憶も持っているだろうということだろう。それでは同じ人である証明とは、記憶という過去の特定の出来事を共有することなのだろうか。ショーンがショーンであるのは、さまざまな個人的記憶が質問者と同期が取れている確認によってなされるのであろうか。ショーンとは共有する記憶の集積の中から立ち上がっていたともいえる。しかし人間のアイデンティティが過去の出来事とその記憶の総和であるとは僕には思えない。さらに記憶の集積から立ち上がる個人の現在性はどこにいってしまうのだろうか。

それぞれの問いの中で主人公であるアナは混乱する。混乱の中で彼女も彼女自身が持っている記憶、それは彼女自身が保ち続けた彼女自身の記憶の中から男の子を亡き夫の生まれ変りであると認めていくのである。このアナの心情の変化の過程は、当初存在感が薄かったアナが徐々に周囲の反対の中で逆に存在感を強めていく。そして男の子と共に暮らすことを決意したときに破綻が訪れる。結果的にアナの亡き夫はアナとの結婚生活期間中別の愛人がいたのである。アナへの愛が純粋であることを男の子のショーンはその根本存在(自分が元アナの夫であること)においていた。その結果、アナを裏切り続けていた亡き夫はショーンではないことになる。でもアナへの愛情は純粋でなければならない。アナに向けられた不滅の愛の存在が、男の子に矛盾を持たせ、男の子はアナの元を去る。そしてアナは混乱の中にとどまることになる。

結果的にこの映画の不思議さは、愛の不滅性が現実の中で、きわめて個人的な記憶の中で立ち上がるしかなく、しかもそれゆえに愛の不滅の不可能性を前面に出すことになる、その点にある。愛が人間の外部にあるとすれば、時間を経て姿かたちが変ろうとも、その愛を確認することができる。愛に証明とか確認は必要なく、ただ感じるのみとするのもよい、でもその感じる根拠が記憶の中に見出だすしかないのであれば、果たしてそれは愛していると言えるのであろうか。愛は人間の時間の中に存在するしか我々は感じることができないのではないだろうか。さらに記憶とは歴史家が検証し羅列する項目の列挙でもない。個人間の感情の同調がそこには必要だと思う。しかし双方がそれを認め合うには時間が重要な要素となる。
どうも映画の感想としては陳腐なものにしかなっていない。それはやはりこの映画の不思議さを僕なりにでも整理できていない証左だと思う。愛の問題は僕には荷が重たすぎる。もう少し整理してから再度この映画について書くかもしれない。

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