2007/12/17

佐世保の事件

僕は時事問題を扱うのは苦手だ。例えば今回の痛ましい佐世保の事件に対しても具体的に事件そのものを取り扱うことはしない。それはあたかも激しい雷雨を狭い穴倉でじっと息を潜め過ぎ去るのを待つ小動物に近いかもしれない。無論佐世保の事件は天災ではない。でも事件報道と本件に絡み様々に湧き上がる風評への対応の仕方としては変ることはない。

何か自分の世界を正そうと、違和感を感じる報道および言動に批判を行うのも良い。ただ僕は自分の世界において、いまだに確信を持って他者に語る正義を持たない。これらの出来事は人間の行動の可能性として繰り返し上書きされ続けるのだ。ただ穴倉で雷雨が過ぎ去るのを待とうが、積極的に雷雨の中に飛び込もうが、両者とも雷雨を気にしていることに変わりはない。 僕のこういう消極的な性分を世の中ではなんと言うのだろう?「負け犬根性」とでも言うのだろうか?だったらそれも受け入れるしかない。

誤解をされそうなので当たり前のことを述べるが、この日本で理不尽に横腹を散弾銃で撃ちぬくことは悪であるのは言うまでもない。被害者の方々には哀悼を捧げるし、ご家族と関係者はさぞかし無念なことだと思う。そして容疑者の母親のこと。彼女が消え入れそうな声で、取材の応答に「申し訳ありません」と答えたと新聞に載っていたが、おそらく地元で母親がこれまでと同様に暮らせるとは思えない。でも無念さでは被害者の関係者と変わることはないのでなかろうか。

本事件の初期の報道では一部のメディアが犯行手口から外国人説をとっていた様に思える。犯行手口の内容によって日本人的とか外国人的というのがあるのかと、その報道を聞いて思ったが、すぐに教会で自殺をしている日本人の容疑者がみつかり、外国人説報道は何もなかったかのように消えていった。これらの外国人犯人説をとったメディアは一体どこからそのような説を取り入れたのであろうか。このような銃犯罪を起こす人は日本人であるはずがない、という根拠なき願望がそこにあるように思えて致し方ない。

さらに初期段階での専門家と称するコメントもひどかった。無論それは結果論から見ての話ではあるが、外国人説にせよ初期の情報不足の中での無責任なコメントは、それらを聞くものをあらぬ方向に誘導する。情報不足でコメントできません、という勇気がなぜもてないのだろう。おそらく別面では、医者と患者の関係、つまり患者は医者の望む答えをするように、同様の作用がメディアと専門家の間にも一部あるようにも思える。

なぜ容疑者のような人間に銃所持許可を出したのか、という意見もあると思うが、現行の日本では正義とはある意味正規な手続きを言う。言い過ぎかもしれないが、誰であろうと銃所持者は銃犯罪を起こす可能性はある。それに正規の手続きの中に、銃を所持しても良い人と悪い人の区別をどのような判断でどの様に組み込むのか、僕にはまったく想像さえできない。それらは自動車教習所で初めに行う性格判断テスト以上でも以下でもないのでなかろうか。集中力散漫と判断された人でも安全運転を続ける人は存在すると僕には思える。それであれば銃所持を全面的に禁止する方向となるだろうが、それはそれで難しいのでなかろうか。

ここまで書いて銃所持に問題解決をおいて書いていると誤解しないでほしい。僕にとって今回の問題は、解決が極めて難しい問題のひとつにおいている。
 
今年は銃犯罪が多い年でもあった。病院で一般入院患者がやくざと間違われて射殺された。そしてそれ以上に多かったのは、警官の銃による自殺であった。その多くは二十代の男女だと記憶しているが、事件として騒がれたのはストーカー警官の無理心中だった。銃所持の適正テストを考慮するとしたとき、一般人だけにとどまらず警官に対しても同様に行うべきだと思う。

つらずらと本事件とはあまり関係ないことを話してしまった。表層に見えることのみを勢いで書いてしまったようで少し恥ずかしいが、一応日記として載せておく。

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