(覆された宝石)のやうな朝西脇順三郎の「天気」という詩を始めて読んだ時、そこに地中海の強い日差しの中で、光と影の明確なコントラストによる白いギリシャ的世界のイメージが浮かび、そして固定された。おそらく言葉では言い尽くせないほどの天気だったに違いない。その天気は詩人の感性に直感を与えた。逆に言えば、その日、その朝、詩人の感性はその天気を受け入れる準備ができていた。溌剌として意気揚々、何かその日に素晴らしい出来事があるような予兆を感じる、そんな朝。
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日
(西脇順三郎 「天気」)
戸口で誰かが何をささやこうが、どの神の生誕の日なのか、それらに意味はない。ただ詩人はそのように感じた、そのことが重要なのだ。
僕はと言えば、寝不足でまぶたが腫れ、眼は充血し、手足はだるい。早く今日が終わればと明日からの休みを願っている。一体、詩人が迎えたような朝を僕も迎えることができるのだろうかと、涙目でぼやけた視界を再び空に向ける。そこにはひとつの青だけではない無数の青の世界。ひとつため息をついて冷めかけたコーヒーを勢いよく飲み干す。
昼休みの時間がわずかになったのだろうか、人々が無言で足早に通り過ぎる。僕は座りながら彼らを眺めている。
突然に雨が降ればよいと願った。雨は歩道を濡らし、僕が座っているテラスの椅子とテーブルを濡らす。できれば天気雨がいい。この無数の青の空から降る雨。それはきっと青色の雨だろう。西脇順三郎に直感を与えた天気は晴天とは限らないのだ。そう思うと何故か少しだけ元気が出てきた。
帰りに図書館に寄った。新倉俊一氏の労作「西脇順三郎全詩引喩集成」(筑摩書房)が近所の図書館に置いてあるとネット検索でわかったのだ。「天気」の一行目(覆された宝石)は英国詩人キーツの作品からの引用だと知ってから、そのキーツの詩を読んでみたいと思っていた。きっとその辺の情報が載っているに違いない。
でもあると思われた書籍はその図書館で無くなっていた。昔の情報が更新されず残り続けているのだと図書館士が申し訳なさそうに告げる。その恐縮具合に逆に申し訳なく思う。
変わりに新刊の「西脇順三郎コレクション」(全六巻)のうち二巻を借りてきた。今年は西脇順三郎が亡くなってから25年たったのだそうだ。編者は新倉俊一氏。今日、師走の晴天の下で西脇順三郎の詩「天気」を思い出したのは、もしかすれば何かの兆しなのかもしれない、などと少し思う。そしてそう思った自分を少し笑う。
明日はきっとよい日だろう。朝早く眼を覚ますのだ。
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