2008/01/31

あらたにす

「日本経済新聞、朝日新聞、読売新聞のニュースや社説などを読み比べできる新しいウェブサイト「あらたにす」(http://allatanys.jp)が31日午前7時すぎ、オープンする」
(2008/1/30 朝日新聞)
日経・朝日・読売という新聞購読者数によるシェア3強による連合は、新聞社という企業による最終の目論見のように思える。朝日新聞社説「あらたにす発足―言論の戦いを見てほしい」では新聞と言うメディアを前面に出しているが、実態はそうではなく、あくまでもビジネスとしてのネットにおける企業連合であることは間違いない。

新聞社である限り自社サイトのアクセス数を気にしないわけにはいかない。グーグルニュースの登場、産経新聞のMSNへの統合、毎日がMSNから独立してもアクセスを維持している現状、それらのなかで新聞と言うメディアがネットでどの様に変化せざるを得ないのか。その回答が「あらにたす」であるとすれば、少しお粗末と僕には思える。

「グーグルニュース」は記事をそれ以上分解不可能な単位として分類している。「あらたにす」は分解不可能な単位を新聞社においている。別の言い方をすれば、「あらたにす」は新聞類-朝日新聞種という切り分けである。新聞社を統一された分解不能な主体として見せることは、「グーグルニュース」に対する反論でもあるかもしれない。しかしそれであれば、日経・朝日・読売という3社だけでなく毎日と産経も参加させるべきだろう。

MSN産経は実質紙媒体の新聞紙よりも情報量が多い。産経新聞を読めば、記事の末尾に「詳細はMSN産経」と書かれているくらいだ。特に裁判関係の実録記事は臨場感があり面白い。MSN産経は当初はMSNというポータルサイトにリンクされることでアクセス数を稼いだと思うが、現状もアクセス数を維持しているとすれば、それはその情報の種類と量の豊富さであろう。

さらにMSN産経では記事中のキーワードから簡単に検索も可能となっている。人は発生し流れる「出来事」を知りたいと思う。自分の生に与える影響度合いを計る気持ちもあるかもしれない。でも「出来事」は流れているので、知ることは殆ど不可能である。流れの切り取り方により「出来事」の姿は大きく変わる。その「出来事」を知らせるのが新聞の役目であるのなら、「出来事」を中心に纏めるほうが理にかなっている。

無論「出来事」を多く集めても流れを造り出す事は出来ない。一つに見える「出来事」には無数の「出来事」が重なり合い、それらは一つ一つ個別でまとまることも出来ず、ただ流れていくとするのであれば、それぞれの新聞に書かれた「出来事」と「出来事」の間を読み取ることしか出来ないかもしれない。

僕はこれらのことを考えると「あらたにす」は、とても興味ある試みだと思うが、先行きは難しいように思える。何を持って「成功」とするのかは僕にはわからないし、ニュースサイトの一つとしてみれば、これはこれで便利ではある。ただ朝日新聞社説の心意気とは程遠く、僕としては複数のなかの一つでしかない。

2008/01/29

2008年1月29日 諸々のこと

■マクドナルド訴訟
「判決は、管理監督者を「経営者と一体的な立場にある者」と認定。店長は(1)企業全体の経営方針の決定過程に関与していない(2)権限は店内に限られている-ことなどから、肩書は店長であっても実質的に管理職ではないとした。」(東京新聞から)
上記の解釈であれば、日本の多くの企業の管理職は実質的に管理職ではないとなる。別に判決の批判をするわけではない。「今回の判決が、管理職の範囲をあらためて明示したことで、経営側の拡大解釈論に一定の歯止めをかけることが予想される(東京新聞)」ことから労働者の立場からすれば悪い方向ではない。ただ実際との乖離は深いと感じただけだ。

マクドナルドは様々な面で象徴と見なされる。昨年の日本国内で異なる商品価格の導入は、国ごとによる価格差を持つグローバル企業ならではの発想とも言える。つまりは国内にグローバルを導入したのである。無論、グローバルというか、資本主義は差があることを前提にし、格差を造り出すことで資本の増加が得られる機構でもあるから、その考えを国内だけではなく社内にも適用するのは当然の発想とも言えないことはない。つまり「管理者」という名前の珈琲農園従事者を造るのである。その視点で言えば、判決は拡大化したグローバルという考えに対する反論とも取れる。

■【主張】透析患者増加 糖尿病予防の徹底が急務
僕の知り合いに透析患者が一人いた。かなり年配の方だが、透析を受けることの辛さを教えてくれた。透析と言うとまずその方を思い出す。僕に猫の育て方を教えてくれた。しかし後から知れば、その方は猫を飼ったことはなく、おそらく教えてくれた育て方は猫ではなく犬の育て方だったように思う。その猫は今でも一緒に暮らしているが、教えてくれたその方は数年前に亡くなった。透析は辛い。患者は毎年1万人づつ増えているという。
「透析患者を減らすには、まずは徹底した糖尿病予防が必要だ。生活習慣を変え、カロリーの過剰摂取と運動不足による肥満をなくし、血糖値に問題がある場合は、厳格な血糖コントロールが求められる。(産経新聞)」
生活習慣病という名称は好きではない。個体差により発症の程度が違う為、まず自分の肉体の傾向を知る必要がある。しかし、若年のときは個体差は明確的でなく環境に合わせて同様に行動する。その結果が現れるのは青年から中年に達しようとするときだろう。勿論、誰の肉体ではなく自分の肉体であるから、出来うる限り自分が管理するしかないが、ケアとしての医療体制だけではなく、拡大する「自己責任」という概念の歯止めも必要だと思う。

■「社説:ガザ 「強制収容所」を終わらせよう」
「イスラエルはパレスチナ人の居住地域へ食い込む「分離壁」を造っている。
国際司法裁判所は「違法」とみなし、国連総会も壁の撤去を求める決議を採択した。しかし、壁の建設はなお続いている。」

「「屋根のない強制収容所」といわれるガザの惨状を終わらせるにも、国際社会の良識と結束が必要だ。」

(毎日新聞から)
そう思う。そしてその為にも広く情報が行き渡ることを願う。

■Amazonが米国のみで展開しているDRMフリーの音楽配信サービスが2008年中に世界展開するそうだ。DRMについては使い勝手で色々な問題が起こるためAmazonの展開は嬉しい。ただ身近にレンタルCD店がある場合、やはり価格的にレンタルが優位と思う。さらにAmazonの展開が日本の音楽業界に受け入れられるかも未知数である。仮に受け入れられたとして、提供する範囲の限定、もしくは逆の流れを産む可能性、例えば悪名高い複製禁止CDの復活、も有り得るようにも思う。どうなってゆくのだろう、今後の展開が気になる。

■赤福
赤福が2月中に復活する。嬉しい。名古屋・大阪営業所での製造はなくなったが流通拠点としては残っているので、それほどの人員削減はなかったのではないか、などと想像する。製造拠点の縮小は事件の流れから見て致し方ないことだと思うが、逆に地域限定銘菓として市場価値は上がるかもしれない。船場吉兆も赤福も老舗の同族会社であることから同一視しがち。でも赤福好きの僕としては決して同一ではない。赤福にえこひいき宣言をする。

2008/01/28

2008年1月28日 日記

晴れ、6時半頃に一旦眼が覚める。起きようかとちらっと思ったがあと一時間は眠れると思い再び眼を閉じる。起きたのは7時20分ごろ。眠気が尾を引いている。珈琲を飲む。煙草をすう。徐々に眼が覚める。

思いついたことを脈略なく書き綴る。思いついた時点での書き込みとなるので、起承転結などない。逆に言えば起承転結のある文章など最近は仕事以外では書きたくないので、これはこれで面白い。

「産経新聞 主張 道徳教育 心とらえる教材が必要だ」
「人間」が造られた存在であるのなら、「道徳教育を実践せよ」と声を上げる人々はそのことを熟知しているのかもしれない。大雑把に言えば、「道徳教育を実践せよ」は一つの従来教育への「否定」である。論理的に言えば、最初に何かの「肯定」があったはずだと思う。
ただ面白いことに、肯定A、Aの否定B、Bの否定C、と続いたとき、肯定Aと否定Cは同じではなく、逆に否定Cは肯定Aも合わせて否定しているように思う。「道徳教育を実践せよ」と語る人たちは、無論戦前の「修身」を念頭においているわけではないと思うが、言葉は政治的であり歴史を背負っているため、読み手は彼らの言葉を「肯定A」も否定しているとはイメージできない様に思える。
しかし、教育に関する「論」は何故このように「美しい言葉」で語られるのであろう。教育には一つの「こうあって欲しい」という思いがそこには横たわっている。その根幹を明らかにできず上辺だけを語るしかないからこそ、それを補う言葉として「美しい言葉」を使うしかないのかもしれない。

大阪知事選挙については殆ど興味がない。

日経社説「消費者行政は「器」より実質的な議論を」は面白かったが、社説としての中身はない。その中身のなさが、逆に「実質的な議論をせよ」という提言になってる印象を受ける。
「日本の行政は殖産興業の明治以来、業の振興に主眼を置いてきた。業界ごとに細かく法律を作り、それに基づき監督官庁が保護・育成の任を担う「業法行政」だった。その中では消費者保護は二の次だ。相次ぐ消費者被害を受け、消費安全の部署をつくるなど変化は出ているが体質は容易に変わらない。」
日経の社説が言わんとしていることはわかる。で、体質を変えるための何か意見を日経は持ってるのかな・・・

そういえば今朝通勤時、満員電車の中で立ちながら僕にもたれて寝ている女性がいて、それには参った。彼女は完全に熟睡していた。立ったままこれほど熟睡している女性に今までに遭遇したことがない。最初彼女は具合でも悪いのではないかと疑ったほどだ。

でも停車するごとに出入りする人の流れに逆らうことがなく、それでいて眠ったままなのだ、動いているさまを見て、具合が悪くないとわかった。正直言ってその動きには驚いた。慣れていると思った。もたれられたのは二駅なので10分は経ってないと思う。でも僕としては動くわけにも行かないのでちょっと疲れたと言うわけだ。まぁ別に良いけど。

最近携帯のフィルタリングサービスが話題になっている。未成年向け有害サイトフィルタサービスの話だ。ドコモがフィルタリング設定を保護者側で出来るようにするとのこと。もっともな話だと思っているが、僕としては「未成年向け有害サイトフィルタリング」自体に反対なので、仮に提供するのなら保護者側での設定は最低限必要だと思っていた。

フィルタリングに反対なのは、「有害サイト」の定義が曖昧なことと、フィルタリングをすることで何の効果が得られるのかがわからないこと等、要するに何かしらまず管理が先にあるように思えるのだ。フィルタリングは対象者がサイトを知らないときに有効だと思うが、対象者が有害サイトとされたサイトを知りえたときは逆の効果を生むと思うし、それ以前におそらく対象者はそのサイトを何らかの手法をとって参照するだろう。だれも人がしたいと思うことを止めることはできない。

2008/01/25

2008年1月24日、東急田園都市線

朝日新聞によると以下のような顛末だったらしい。
「田園都市線では同日午後5時半ごろ、川崎市高津区二子の高津駅で人が通過中の電車に飛び込む事故があり、午後7時15分まで救助や復旧作業が続いた。(asahi.comより)」
最初の事故は人身事故だった。この事故で電車は二時間近く止まった。
二度目の事故は用賀駅で線路に亀裂が発見されたことによるものだった。最初の人身事故との関連性は全くない。
「レールの継ぎ目の溶接部分が何らかの原因で切れたとみられ、レールを流れる信号用の電流が途切れて近辺の信号が赤になったという。鉄道関係者によると、冬は寒さでレールが縮みやすく、溶接部分や傷のある部分でレールが切れることがあるという。(asahi.comより)」
この事故で途中の10分間の再開を除き約1時間40分電車は止まった。二度目の事故の発覚は午後8時頃だったので、人身事故からの復旧からまだ間のないことがわかる。

田園都市線は渋谷から神奈川の中央林間まで通じている。しかも田園都市線は地下鉄半蔵門線と東武電鉄に直結しているため、両線にも影響を与えた。田園都市線が不通の間、東武押上から渋谷までの折り返し運転となり、電車は乗客を次々に澁谷に送っていた。当然に半蔵門線渋谷駅のホームは人であふれた。勿論渋谷から田園都市線を利用する人も多い。故に一時は渋谷駅で乗客の入場を制限する処置まで行われたほどである。何人かが体調不調を訴え救急車で運ばれた。

人々は不確かな情報を伝えるアナウンスと再開時期が不明な状況にうんざりした面持ちで、それでも殆どの人は無言で電車が動くのを待ち続けた。僕は半蔵門線を利用している。丁度帰宅のため駅に着いたのが午後8時あたりだと思う。ホームに降りると電車が停車していたので、これはついていると迷わず電車に乗り込んだ。でもいつまで待っても出発しない。不思議に思い始めたとき駅のアナウンスが流れた。

アナウンスは、その時点での状況を伝えようとしているのは声の調子で感じるが、全く要領を得なかった。僕が理解できたのは、東急田園都市線で人身事故があったこと、電車の点検のためその電車を回送すること、回送が終わるまで駅に停車している電車は出発できないこと、この電車は渋谷までで田園都市線には乗り入れないこと、などであった。

後から新聞情報を知れば、半分はその通りだが線路の亀裂のことなどは知らされなかった。でも乗客にとって一番に知りたいことは、駅に停車している電車がいつ動き出すのかと言うことだ。でもそれを想像することさえできない内容だった。これも後から知り得たことだが、この一連の事故で約16万7千人の足が大きく乱れたとのことだった。

しばらく電車の中で待っていると東急線が開通したとのアナウンスがあり、電車も渋谷行きからさらに先の中央林間行きに切り替わった。それで帰ってこれたのだが、後から知れば、その稼働も10分間だけの一時的なことだったらしい。

この事故を都市の脆弱性に結びつけて話をするのは簡単なことだ。しかしその様なことは誰もが承知の話である。我々はまるでカミソリのエッジの上を危ういバランスを保ちながら歩いているようだ。でもそれを告げて何かが変わるわけでもない。

影響を大きくしたのは線路の亀裂の発覚の方だろう。その事故を振り返ってみれば、停車時間は、体調不良になられた方には大変に申し訳ないが、たったの1時間40分である。人に言わせれば、その1時間40分で個人的・社会的に致命的な状況に陥る人もいるかも知れないし、体調不良を訴え最悪の場合亡くなる方もでるかもしれない、でもそれでもたった1時間40分なのである。

普段では何も問題のなかった交通システムが、1時間40分間停止しただけでこのような混乱状態になったということは、逆に言えばそれだけのボリュームを交通システムが日常処理していたということになる。これはある意味凄いことだと僕は思う。そして都市交通システムを維持し運営する人の社会的使命の意識の高さで、復旧を短時間(人によって考えは違うとは思うが)で行えたのも素晴らしいことかも知れない。渋谷駅で殆どの利用者が我慢できたのも、都市システムの脆弱の中でそれを復旧しようとする彼らの姿に、わが身の日常を重ねていたからだと思うのだ。

つい少し前まで、ネットが普及の兆しを見せ始めた頃、会社の業務は在宅化するのではないかとの予想が多かった。フレックスタイムを多くの会社が採り入れたころだ。その傾向は、現在では、個人情報保護及び情報セキュリティのかけ声のもと吹き飛んでしまったかのようである。今、多くの人たちは会社でまるで図書館の閲覧室にて仕事をしている感覚に囚われているかもしれない。在宅勤務の夢は遠のき、今でも都市交通システムに依存してそれぞれの仕事は成り立っている。

身体的にはネットのインフラよりも交通システムの方が社会的に重要なライフラインなのである。現代では、過去の民族大移動のように毎日人は肉体を動かしている。そしておそらく人はそのような習慣の中で肉体を動かすこと、つまりは行動(反応)することが重要だとする価値観を身体性にまで落とし込んでいることだろう。今回の一連の事故も、自らその肉体を粉砕するという人身事故に始まり、線路の亀裂を最初に発見したのも利用者の眼であったし、それらの事故の復旧の為に関係者は駆け回り、利用者は立ち続けた、という風に、一連の流れは肉体的なレベルに均しても説明がつくし、新聞などの報道もそれに準じている。

新聞でインタビューに答える人たち。彼ら・彼女らの言葉は心の有り様を素直に表現している。心は身体の反応に連動する。それぞれの肉体の状態において心の有り様は、個々に様々とはいえ、反応の仕方では同じ方向を向いていたと思う。勿論それが人間の常態であるかもしれない。無論人はそれぞれに違う。ただ、反応に対しては僕も含め何かしら人々は似ているように見える。

だからか、この様な事故があり大勢の人々が一カ所に群れのように集まると、僕は自分の存在の薄さを多少なりとも感じるのである。電車は途中で減速・停車しながら通常の約倍の時間で下車駅に着いた。無言で改札を出る人々に混じりながら僕は周囲の安堵した様な表情の顔を眺める。帰りは散歩がてら遠回りをして家まで歩いた。家について最初の人身事故が自殺(25歳独身女性)である可能性が高いことを知った。少しだけ彼女の人生と家族のことを思った。

2008/01/17

MacBook Air、それは足りなさの成功

「MacBook Air」は美しい。パソコンという道具に「美しい」という感覚がふさわしいかどうかは疑問があるところだ。でも僕が「MacBook Air」の写真を見た時に最初に感じたのは「美しさ」だった。美しさを数値で表すことは難しい。確かに「MacBook Air」は薄く軽い、でも厚さと重さの数値を述べたところで、僕が「MacBook Air」を見て美しいと溜息をついた気持ちを伝えることは出来まい。そこには確かに僕の主観があるのがわかるからだ。

おそらくMacWorldの基調講演でジョブズが封筒からMacBook Airを取り出した時に息を呑んだ者、AppleのホームページでMacBook Airの写真をしばし眺め続けた者、彼らには僕のこの気持ちは多少なりとも伝わるとは思う。

「MacBook Air」は目に見える欠点、つまり「足りない物」が明確にわかるパソコンだ。誰でも「MacBook Air」の足りない物を幾つもあげることができる。僕は複数の友人に「MacBook Air」のデザイン上の感想を求めた。すると彼らは即座に何々が足りないと口にした。面白いことにその足りない何かはそれぞれによって違った。ある者はUSBポートが一つでは足りないと言ったし、ある者はイーサネットの口がないと告げた、またある者はDVD等の読み取り装置が無いと残念がった。おそらく彼らが告げた物は、彼らにとって一番の足りない何かだったのだろう。

逆に言えば、常に人にとって一番足りない物は一つしかないのである。人間は複数の痛みを同時に感じることができない。その一番足りない物が、仮に「MacBook Air」にあれば、二番目の足りない物を見つけるのかも知れない。でも、仮にそうだとしても、彼らが語る「足りない物」は少なくとも何かの代替案が存在するのである。つまりは「MacBook Air」が成功するか否かのハードルは意外に低いと言うことだ。

僕は「MacBook Air」の写真を見た時、何故か「Macintosh SE/30」を思い出した。あの1989年に発売した一体型の系譜の一台である。僕が最初に購入したMacでもあった。本当は前機種であるSEから欲しかったが、何せ価格が高すぎた。僕には、Macの歴史を飾る一体型はアラン・ケイが提唱するダイナブック構想が実体化する種子の様に思えたのである。

その当時、マンマシンインターフェースを含め、パソコンの将来像を語るにはMacをおいて他にはなかった。しかし今回「MacBook Air」が発表された現在は、Web上に様々なASPが存在し、逆にMacである必然性は何もない。

逆にだからこそ、モバイルのデザインをラディカルに考えた結果「MacBook Air」のフォルムが誕生したのかもしれない。一台のパソコンだけで全てを行うためのラディカルな発想がMacの歴史に一体型の系譜を産み出したように、パソコンは何でも構わない時代にラディカルな発想で「MacBook Air」のフォルムが誕生した様に僕には思える。

「MacBook Air」はパソコンの形をした「iPod Touch」かもしれない。「MacBook Air」
の神髄はワイヤレスとしてのシステムにあるより、やはり新たな操作性にあるように思える。ある意味、マウスとウィンドウシステムの登場により、パソコンのインターフェースは新たな段階を創造するのは難しいと思っていた。しかし、「iPod Touch」が新たな地平を垣間見せてくれたし、それをパソコンで実現するには「MacBook Air」の形が必要なのだと思えたのである。逆に言えば、「MacBook Air」からの発展系が、進化するWebの端末としてのマンマシン・インターフェースでありフォルムになり得る、そんな期待感を僕は直感的に抱いたのだ。

しかし残念なことが一つだけある。それは日本での販売価格に他ならない。少なくとも10万円台での販売であれば、おそらくビジネス的にマックフリーク以外にも訴求力が出たことだろう。「MacBook Air」の予想販売台数がどのくらいなのか僕は知らない。おそらくそれなりに売れるだろうが、爆発的に売れることはないだろう。しかし「MacBook Air」はMacの歴史に名を残すことは間違いないと思うし、継続的な発展を行うことで、ビジネスにおいても素晴らしい成功になり得ると信じている。

2008/01/16

「内部統制」という気持ち悪さ

「内部統制」が2008年度から開始される。おそらく現時点では多くの会社員は「内部統制」についてそれぞれに思うところがあるように思う。僕もその一人だが、実を言えば考えるたびに少し気持ち悪くなるので、「内部統制」については出来るだけ考えないようにしていた。気持ち悪さの原因は僕の中に二つの思いがあり、それを仕事の現場において意識して使い分けていることにある。ただどうにも我慢が出来なくなってきているので、ガス抜きのつもりでブログに書くことにした。

「内部統制」についての基本的な考えである「4つの目的」(*1)と「6つの構成要素」
(*2)についてはある程度周知のことだと思うのでここでは書かないが、それらの目的・要因の説明をするまでもなく、簡潔に「内部統制」を語れば読んで字のごとく「内部を統制」する一言で足りる。株主総会が会社を外部から統制することであれば、「内部統制」は経営者が会社を内部から統制することにある。会社を内部から統制するとは具体的に何かといえば、それが「6つの構成要素」に関わり合うのだが、誰がその要素を現実化するかといえば従業員に他ならず、そこから経営者が従業員の行動を統制する、つまりは悪事が働ける能力と立場にある者が実際にその行動に至らないように管理する、ということに繋がってゆく。

だから経営者側から「積極的に「内部統制」に参加せよ」と言われても、従業員の立場から言えばその行動は論理的ではないのである。しかもいわゆる「JSOX法」と呼ばれる関係諸法の成立が、米国からの影響(*3)を強く受けているにせよ、日本側の成立動機に「大和銀行事件」 (*4)があるのは事実だと思う。一人の行員による巨額損失が発見できなかった責任を問われ、経営者側に約800億円という損害賠償責任を認めた大阪地裁の判決は衝撃的だった。確かに「大和銀行事件」以降、「内部統制」がらみの事件が起きているのは事実である。でもそれらの事件の何件かは経営者自らが主体的に係りあってもいるし、特に昨年の偽証事件の殆どは経営者側が確信犯的な主犯格でもある。何が言いたいかといえば、立法の宿命かもしれないが、常に現実の方が動きは早く、既に「内部統制」の仕組みでは対応不能な状況下にあるのではないか、と思うのである(*5)。

「内部統制」は定めた業務プロセスの遵守が要となる。業務プロセスはプロセスオーナー(役職としては取締役クラス)が統制し、業務プロセスの承認はプロセスオーナーが行うことになる。また業務プロセスはPDCAサイクル(*6)という原理的にトップダウン手法により維持管理される。業務プロセスどおりに業務が遂行されているかをPDCA手法により確認するのである。しかし、業務プロセスをプロセスオーナーが統制するということは、逆に言えばプロセスオーナーは業務プロセスを好きなように変更可能だとも言える。そしてそれに対するチェック機能は監査役もしくは株主に委ねられることになる。しかし昨年の事件を考えたとき、果たして機能がどのくらい果たせるか疑問が残る。(*7)

会社を人間の身体の部位に例える話は矛盾が噴出するが、不定形な有機体の例えは身体の例えよりはましかもしれない。つまり独立して勝手に動いているように見えても全体としては一つの目的(生命維持)に向かって動いているという例えである。システム論的な見方かもしれないが、僕が会社をイメージする時に最初に浮かぶ姿である。それからしてみれば、「内部統制」は不定形な姿を四角形とかの姿に切り替えるだけでなく、勝手に動けないようにすることのように思える。不定形であろうが四角形であろうが、「内部統制」の根にシステム論的視点があれば個人の価値が薄くなるのは変わりはない。ただ僕としてはさらに勝手に動けない様にすることで、その傾向が強まると思えるのである。

もともとシステム畑で育った人間だから、標準化とか、見える化とか、システム化に沿った効率の良い業務プロセス化とかへの指向は強かった。さらにシステム部門は「内部統制」の運用の要でもあることから、「内部統制」は追い風ともいえないこともない。これが相反する二つ目の点である。仕事をラディカルに考えれば生活の糧なのであるから、定められたことを粛々とこなしていけばよい。労務規約を遵守し、勤務時間中は誠実に自分の能力とスキルを行使することは当然のことだと思っている。追い風と前記の仕事に対する基本的な考えであれば、内部統制の運用に対しても違和感は持つことはないのだろう。でも最初に述べた思いもあるのだから、僕としてはとても気持ちが悪いのである。

結局トップダウン的な手法が気に食わないだけじゃないか、と思ったこともあるが、どうもそれでも釈然としない。それに仮に手法がボトムアップであったとしても、自分ひとりで何かが出来るわけでは決してなく、それ以上にトップダウンとボトムアップという二項択一の問題設定で気持ち悪さが解決できるとも思えない。

ポストモダン的解釈で「内部統制」を誰かが語れば、「環境管理」とか「生・権力」とかの言葉を使うのだろう。それはそれで構わないが、そういう語りにリアリティを感じるかと言えば、現時点ではそうではないから始末に悪い。当分この気持ち悪さは続くのであろう、そんな感じがする。しばらくすれば忘れるのかもしれないし(やることは同じだから)、気持ち悪さの原因がつかめるかも知れない。でも今は、というか当分は、この状況に身をおくしかない。

こうやって解決できない問題が増え、しかも時間と共に、その問題は変質していくのだろう。そして「ポジティブ」という訳のわからぬ言葉で自分を納得させ、その都度状況に応じて複数の思いを使い分け続けるのだろう。

補足
*1:「4つの目的」とは、(1)業務の有効性と効率性、(2)財務報告の信頼性、(3)関連法規の遵守、(4)資産の保全、を言う
*2:「6つの構成要素」とは、(1)統制環境、(2)リスクの評価と対応、(3)統制活動、(4)情報と伝達、(5)モニタリング、(6)ITへの対応、を言う
*3:具体的には、「COSOモデル」(1992年に米国のトレッドウェイ委員会組織委員会(COSO:the Committee of Sponsoring Organization of the Treadway Commission)が公表した「内部統制」のフレームワーク)とCOSOモデルに準拠すべきと明示している米国「SOX法」
*4:詳細はWikipedia「大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件 」参照
*5:企業犯罪は経済と社会状況によりその犯罪傾向が顕れるように思う。時系列で経済動向を見れば詳細な傾向が見えるかもしれないが、大雑把な区分けをすれば、バブル崩壊前と後でとは違う。バブル崩壊前は、経営者の親族に対する金銭などの便宜供与、総会屋に対する利益供与など。バブル崩壊後は、損失補填、インサイダー取引、巨額融資の焦げ付きなど。
現在はバブル崩壊前後とは違う状況を呈しているように見える。ここで言いたかったのは、「内部統制」成立において中心となったリスク(脅威)分析には「大和銀行事件」が大きくあったように思えるが、現在の脅威はそれだけとは思えない、と言うことである。
*6:詳細はWikipedia「PDCAサイクル 」参照
*7:「公益通報者保護法」で内部告発できる環境はあるが、僕としては、それ以前に「告発すべきか否か」などというハムレット的立場になる不幸は願い下げである。また、新「会社法」及び「金融商品取引法」の成立が2006年だから、問題を起こした企業の理解度が不足していたという可能性も否定できない。

2008/01/04

翻訳について、リセット

僕は「翻訳について」以下の五つの条件をあげようと思う。「条件」を示す場合、「何の」という目的が必要と思われるが、必ずしも同一目的下でまとめられてはいない。「翻訳について」という命題に思いつくまま羅列したに過ぎないと思う。でも強いて言えば、「翻訳とは一つの形式」というベンヤミンの言葉、そして翻訳の政治的側面からの視点が羅列の背景にあると意識はしている。
  1. 翻訳の原本(翻訳される側)は文書であること。つまり書かれている言葉である。そして、翻訳本は原本の前に現れることは決してない。
  2. 原本は現時点における共時性をもった書かれた言葉ではなく、かつその書かれた言葉の意味が判読難しい状況にある。
  3. 原本は翻訳本となるラングとは別のラングで書かれている。さらに原本の文体は翻訳の文体を保証するものではない。
  4. 翻訳する理由、もしくは市場性がある。また市場の大小および対象は翻訳の技術面に影響を与える。
  5. 翻訳とは受容ではなく変容である。すなわち翻訳とは一つの解釈の形式であり、それは語と1文の構成の選択に現れる。
日本では、例えば琉球語の様に話し言葉としては、行政範囲内である場合、標準語と対比する方言としてその位置づけが定められているが、僕の視点からは日本は多言語国家としてある。ただ、「書き言葉」としての日本語は、先住民族・移民・外国人労働者・難民・旅行者および在日という日本人社会と対比により成立した各社会を除き、といっても多くの前記の人々も共に地域という意味で「日本」に長期間暮らすなかで「書き言葉」としての日本語を習得している割合は高いと思われるが、「話し言葉」と較べれば「単一言語」となっているように思える。それは中央集権国家として成り立った頃より培われたかもしれない。

でも僕がここで語りたいことはそのようなことではない。翻訳とは産業翻訳を実質中心に行われながら、イメージとしては文芸翻訳が中心であった。でも本来翻訳はまずは人間の生命・生活に重点をおいて行われるべきと僕は思う。

渋谷などの駅名表示そして街路地表示、トイレなどの生理面に関する案内表示などは既に概ね翻訳されている様に思うが、例えば行政サービスに関しての翻訳はどの程度進められているのであろうか。また言語間の翻訳は在住する別ラングの人々の割合に応じて為されるべきであるにも関わらず、英語中心に行われている傾向にないだろうか。

統計的な数値を知らないので無責任な言動になってしまいかねなないが、仮に僕の想像通りである時、もしくはその翻訳行為を各自治体の予算に任されている実態にある時、そこに政治的な意図はないのだろうか。

全く別の視点で見て、例えばフランス語から日本語にある文書を翻訳する時、そのフランス語とか日本語は一つの統一され固定した静的な言語であることを前提にしている様な印象を受ける。

でも常に言語は流動的で止まることはないし、一国家・一民族・一言語が等号で結ばれることもない。その中で翻訳文は書かれた瞬間から陳腐になる傾向となるが、それでも「日本語」として完成された単一言語として取り扱う傾向にある。それは翻訳の実務面としては致し方ないことではあるが、その結果、ある面では日本の政治システムを維持強化することにつながる様にも思える。

文藝翻訳に関する一つの例としてミラン・クンデラ(1929年4月1日-)をあげたい。ミラン・クンデラはチェコからフランスに亡命した。フランスに亡命した時点で既にクンデラは著名な作家であったが、それはチェコ時代に書いたクンデラの作品のフランス語訳の小説が高い評価を得ていたことによる。しかし、その翻訳はクンデラ自身から見た時、書き直されていたと思わせるほどの誤訳であった。誤訳はその文体にあった。逆に言えば、クンデラにとって文体は対応する語の適切さと同等に翻訳において重要な位置を示していた。それによりクンデラのフランス亡命生活の初め約10年は、精緻なフランス語を鍛えることと彼自身の小説の再翻訳に追われることになる。

クンデラの作品がフランス語に翻訳された時、東西冷戦の終結間際と言いながら、そこに依然として冷戦構造の枠組みの中でフランス側がチェコを捉えていた視線があるのは事実であろう。クンデラが 「チェコのソルジェニーツィン」と評されていたことが、ある意味、それを端的に示している。つまりクンデラの作品は、その当時フランス側が望む様に彼の作品を訳していたことになる。そしてそのことは、政治的に東西冷戦構造の中で西側体制強化につながると見てもあながち不自然ではないように思える。

ここで一つの疑問が浮かぶ。クンデラがチェコ時代にチェコ語で書かれた小説と、フランス亡命後に彼自身がフランス語に再翻訳した小説、その両者を並べたとき、両翻訳の内容は全く同じであろうか、またどちらが原本なのであろうか。僕の答えは簡単だ。あくまでクンデラ自身が翻訳を行おうが、チェコ語版が原本であり、両者は同じではない。ただ、両者を並べ考える意味はないとは思う。それは両作品が原作者を担保とするからではなく、原本と翻訳本を並べ較べることに意味が無いことを示していると、僕は思う。

さらに重訳についても考えてみる。村上春樹と柴田元幸の対談『翻訳夜話』(文春新書)で、村上氏はテキストが重要と語ったうえで重訳について以下のように語る。
僕の小説がそういうふうに重訳されているということから、書いた本人として思うのは、べつにいいんじゃない、 とまでは言わないけど、もっと大事なものはありますよね。僕は細かい表現レベルのことよりは、もっと大きな物語レベルのものさえ伝わってくれればそれでいいやっていう部分はあります。
(『翻訳夜話』 文春新書)
重訳における原本との誤差が直接翻訳と較べ多いとする根拠は僕にはない。『翻訳夜話』のなかで柴田氏は重訳について、コピーのコピーだからノイズが増える、と言っているが翻訳はコピーではないと思うので、その例えは僕には成り立たない。また言語構造(文法)が全く違う言語間の翻訳が間に入る場合、ノイズが大きくなる様に思えるとも言われていたが、例えば漢文と日本語文の言語構造は全く違うが、ノイズは少ないように思える。日本は漢字文化圏に属しているが故にノイズが少ないとすれば、翻訳時のノイズ混入の多少は言語構造に拠らず、言語間の歴史的関係にあることを示す結果になりはしないか。

翻訳文化でもある日本は、明治以前、翻訳は中国からの様々な文書に訓点を付けることと同義だったと思う。諸外国の文書は中国に渡り漢文に翻訳される、日本はそれを輸入し訓読した。ある面、日本は漢文経由の重訳文化だったのかもしれない。例えば、Wikipedia「仏典 」によれば、古代マガダ語、バリー語、サンスクリット語で書かれ、文字は「悉曇」(しったん)が多く使われたとある。つまり仏典は日本語に翻訳される以前からして重訳を重ねていることになる。

しかし日本において仏典の重訳の問題はなかったように思える。たとえば解釈の違いから、もしくは仏典の選択から日本では諍いがあったが、重訳からの疑義による信仰心の揺らぎは起っていない。

重訳の問題は、畢竟直接翻訳の問題以上とはなりえない、と僕は思う。僕は本記事において、逐語訳、意訳などについて語るつもりはない。それらは原本の意味と内容(書かれた言葉)のどちらを重視するかの重みにより変わり、その判断は原本が何のために書かれているかに拠ると思われるからだ。ただ原則的には原本の 「書き言葉」に現時点での言語をもって、出来うる限り正確に合わせるべきとは思っている。

追記:世界で最も他言語への翻訳が多いのはキリスト教の聖書だと思う。翻訳の歴史を考えるとき聖書抜きでは考えることはできないだろうし、翻訳の問題も聖書から派生したとも言える。でもここではそこまで踏み込むつもりはない。(Wikipedia 「聖書翻訳 」参照)

2008/01/01

十人十色への拙い覚書

十人十色ということは、世界に64億人いるとしたとき64億色あるということになる。それだけではない、人類が誕生からそれぞれがユニークな存在であるのなら、その色は膨大になる。そのように考えた時、僕の思考は止まる。無論、僕がユニークな存在であることは一つの推論である。僕自身が対面し話をした人とは違いが実感できた。確かに僕と彼とは違っていた。

確かに僕と彼女は違っていた。でも彼と彼女が違うのを何故僕は知っているのだろう。
それはあくまでも自分から推測した仮定ではないのだろうか。逆に言えば、彼もしくは彼女を仮想的に自分に置き換えている。でもその置き換えは、そもそも彼と彼女が僕とは違うことから、置き換え不能という点で出発点からして矛盾を抱えているのだ。

十人十色と確信を持って信じている人たちは、「日本人」という一つ共同体は一切信じることはないのだろう。企業内で「人それぞれ」と唱える人は、生活のために信念を一時的にでも変えることが出来ると信じているのであろうか。人がそれぞれに違うことを植物に例えて歌う人たち。植物に例えて歌うのは適切だ。なぜなら植物が育つにはそれなりの環境が必要だから。逆に言えば、環境により特定植物だけを生存可能にすることさえ出来る。

無論、十人十色と言いながら、人はその中にある程度の許容出来る範囲があることを前提にしている。「俺は日本人らしくない」と語る人と、「私は古い日本人なんです」と語る人は、同じ「日本人らしさ」の要素を共有している様に思える点で同一面上に位置している。

企業内で十人十色と称している人も、同じ組織内にイスラム原理主義者を受け入れることが可能とは信じてはいるまい。そして、許容できる範囲を超えてのブレがある時、十人十色と呼ばれる前にその人は病と診断され社会から隔離されることになるのだから。

「十人十色」と語る人はその前提を意識しているのだろうか。多くの場合は自分の願望を満足できない時のあきらめと共に使われる言葉の一つとしてあるのでないだろうか。確かに僕はユニークである。それはハンナ・アーレントが言うように「活動」によって顕れる以前からしてユニークである。そして僕は他者との差異により現れる違い以前にして違う。そして僕は孤独を愛している。僕の行動に、意見に、「人それぞれだから」と答える人の意見は、その中に自分という主客が確固と存在している。そして彼・彼女の主格に僕はその中で従属されている。その従属の中で、僕は彼らの世界の中に組み込まれ、そして「人それぞれ」という言葉の内にある特定のカテゴリの中に組み込まれる。その動きの中に、「十人十色」という言葉は背後に押し込まれる。ただ表層的に、対面的に、言葉としてそれは為される。

まだ「人はわからない」と率直に語られることが、そしてそれを出発点にすることが、おそらく人を承認する初めなのだ、と僕は信じる。