2009/09/26

映画「毛皮のエロス」感想ではなく迷宮で彷徨った記録

映画「毛皮のエロス」(2006年)をDVDで観たのだがどうもしっくりと来ない。「毛皮のエロス」はダイアン・アーバスをモデルにしたフィクションだと映画の冒頭で語っている。でもダイアン・アーバスが名前だけではなく、主人公の生い立ちまで参考にしている以上、現実のアーバスと重ね合わせてしまうのは無理からぬ話だろう。

「毛皮のエロス」は簡単に言えば、夫に従うだけの主婦が芸術家へと目覚めていく過程を描いた映画のように思う。アーバスが芸術家へと目覚めたことは、映画冒頭でのシーンと映画最後のシーンとを状況的に同じにし、それへの対応の仕方が違うことで明らかにしている。そしてその差異がしっくりとこないのだ。

主人公であるダイアン・アーバスを演じているのはニコール・キッドマン。彼女の演技力と美しさには毎度のことながら眼を見張るものがある。
映画の中で彼女はダイアン・アーバスを演じきっていた。しかしそれは僕がイメージするところの現実のアーバス個人では勿論無い。でもそれはそれで一向に構わない。映画であれば映画の中でリアリティを出せばそれでよいと思う。

このしっくりこなさは、映画と実際のアーバスを較べてしまうことに発するにせよ、観客に共感を得やすいように、アーバスが変っているのは彼女が芸術家だからだ、といういわばステレオタイプに包括させてしまっていることにある。また、ダイアン・アーバスが写真家であり、カメラ及び写真がアーバスに与えた重みも全く描かれてはいない。

「カメラは道具であり、写真は単に表現者が選んだ素材にしかすぎない」
、という、おそらく一般に浸透するこの考えは確かなことなのだろうか。
でも実際のアーバスは違っていた。彼女はカメラを特別な機械と考えていたし、写真に写るものの中にこそ、自分が現したいことがあると考えていたと思える。アーバスをモデルにする場合、少なくとも、この視点を外すことは出来ないと僕は思うのだ。

映画に現れる数々の映像と言葉はこの映画のメッセージを露骨と言えるほど声高に語る。例えば、原題「fur」は毛皮を意味する、アーバスは高級毛皮商人の子供、映画の冒頭の毛皮ファッションショー、熊と呼ばれた多毛症の男性、その全身長毛に覆われた男の毛を剃るシーン、毛を剃ると現れる気品ある男性の顔、ヌーディストキャンプでの撮影時に言われる「服を脱げば撮影可能です」の言葉、などなど。

芸術家とは自分自身の欲望の発露に忠実であること、そのために内側からくる情熱を受け入れ開放すること、その当時に好奇の眼に晒された人々こそ貴族的であること、など上記の映像から受けるメッセージは現代においては受け入れやすい。

映画は観客のことを考えなくてはならない。だからこそ、観客に受け入れやすいように、様々な操作が行われる。これも僕らにとっては何を今更と言う話だろう。それによって、実際のアーバスとの乖離は修復不可能となる。僕は二人のアーバス、この映画のアーバスと僕が知りえたアーバスの間で揺れる。ただ勝者はほぼ決まっているのだ。

結論から言えば、この映画でダイアン・アーバスをモデルにするフィクションであれば、設定を大幅にかえるべきである。また、ダイアン・アーバスの名前さえ使わないほうが良かった。アーバスを多少知る者がこの映画を観たとき、混乱を与え映画を楽しめることが適わなくなる。

・・・・・・・

OK!! 僕の進め方はフェアじゃないのを認めよう。確かに僕はアーバスを、僕なりのイメージとして持っている。アーバスの生い立ちを含めた記録も知っている。そこから映画へ逆にたどり評価するのはアンフェアなのを認める。その行為は、「映画であれば映画の中でリアリティを出せばそれでよい」という自分の考えにも反するのも認める。

このカルト的な映画は、映画だけでなく観客との相互作用により何かを創造するべく組み立てられているように思う。この映画を観る人は多少のアーバスの知識を持ち合わせていることだろう。アーバスのことを知らずにこの映画を観る人はある意味幸福なのだ。その人は葛藤を知らずにこの映画に没頭できる。

実際のアーバスは語る。映像は虚構で写真は現実だと。ここでアーバスの言葉を引き出すことはルール違反なのは分かる。ただこの映画の姿を知るためには必要不可欠な言葉だと僕には思える。
文脈を提示せずに言葉のみ提示するのもフェアではない。僕が受けるアーバスのこの言葉は、補助線をつけることで分かりやすい。

「映像は虚構のように見え、写真は現実のように見える」

この映画は、映画冒頭で語るようにフィクションである。だから僕が考え書いていること自体、殆ど意味はないかもしれない。ただ僕はこの映画を通じて、あらためてアーバスを見直しているのも事実なのだ。そしてそれは、この文章がそうであるように、新たな迷宮へ歩むことだと僕は感じている。

それにこの映画の制作者は実際のアーバスのこの言葉を当然に知っているはずだ。だからこそ、あえてアーバスをモデルとしたフィクションを製作したのだと思う。それを根底にすることで、僕はこの映画の意図・姿を、おぼろげながら、言葉として伝えられないが、垣間見れるように思う。

垣間見れるのは、アーバスにおけるブレなのだ。逸話は殆どフィクションであるが、人としてのアーバスとは微妙に重なるのである。アーバスの逸話を全て載せるのは不可能だ。だからこそ、その象徴として多毛症の男性を登場させる。幾重にも張られた伏線は、映像を飛び出し、実際のアーバスとも絡まるようになる。逆に言えば、写真では全く見えないアーバスを、映画の虚構に取り込み、虚構の中で虚構と宣言し、実際にはない多毛症の男との絡みのなかで、アーバスの現実をあぶり出しているようにも思える。

虚構と現実の両方のアーバスを観客の中で化学反応させることで、よりアーバスという人間を知ることが出来る。それを目的とした映画のように僕には思える。

2009/09/21

敬老の日に思うこと、そして再びゴーギャン

以前にある女性から「歳をとりすぎて生きるのは悲しいことだ」という趣旨の言葉を聞いたことがある。その女性は僕の親戚の一人で、夫を亡くしてから年老い体が不自由になった義母の面倒を見ていた。僕は彼女の現状とか経緯を知っていたので、その彼女の言葉の持つ意味を理解したし、それについて何も言うことは出来なかった。しかし、もう一つの面では彼女のその言葉に対し、「そうではないんだ」と言いたい気持ちも同時にあった。

僕は彼女の言葉についてここで語ろうとは思わない。問題なのは、僕が彼女の語ることに同意したことと、同時にそうではないと思ったことにある。この二つが僕の心の中に同じくらいの重みを持ってあることが、僕にとっての問題だと思うのだ。さらに言えば、僕の心の中の二面性は、大げさに言えばこの国の問題でもあると思う。

敬老の日は祝日法では「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」とされている。地域によっては一定の年齢の方にお祝いをされている所もあるだろう。またはご家庭でお祝いをされる場合もあるだろう。長寿を祝う気持ちは自然な感情だと僕には思える。その反面で、高齢化は少子と結びつき、医療費や介護や、はたまた年金保険問題などにも絡み、あまりよい文脈で語られることがない。

日本は、特に女性の場合は、長年平均寿命は世界一を保ち続けている。新聞などでそれが記事になったとき、大方のニュースキャスターは「おめでたい事」ではなく「高齢化社会」の文脈で語る。世界に誇るべき事だと思うのだが、何故か社会は白けているように見受けられるのは、僕のうがった見方なのだろうか。

ゴーギャン展でのあの絵の感想を既に2回ほど書いてきた。でも未だ書いていないこともある。あの絵「我々はどこから来たのか~」は、美術展の説明に寄れば三つの構成によって分けられている。絵の右側から女性二人の部分までが「我々はどこから来たのか」、中央のイヴ付近が「我々は何者か」、そして左側が「我々はどこに行くのか」となっている。

僕がこの絵の中で一番に不明な点が「我々はどこに行くのか」の部分である。それはゴーギャンの絵の全体にも言えることなのかもしれないが、彼の絵にお年寄りは描かれているのは少ない。しかも、あの絵に関して言えば、お年寄りは「我々はどこに行くのか」の部分の左端に死のイメージで描かれているのみである。

左端に描かれた老婆は、ペルーのミイラの姿を模して描かれている。それはゴーギャンが死のイメージとして他の絵にも描いているモチーフでもある。それは勿論、お年寄りイコール死、という短絡的なものではないとは思う。一つの象徴的な記号なのだろう。それでも、その記号に老婆を使い、その他にはお年寄りは登場しないのも事実である。

僕は思うのだが、僕らはあの絵のタイトルとゴーギャンというブランドと、そしてそのゴーギャンが遺書の代わりに描いたという背景によって、騙されているところもあるのではないだろうか。何を騙すというのか。それはあの絵のタイトルに示された問いかけの答えがそこにあるのではないかという思いだ。無論、それはゴーギャンの責任ではない。そしてあの絵が素晴らしいことに何の異論も持ってはいない。

ただ一つそのことで僕が思うのは、ゴーギャンの死生観でもある「我々はどこに行くのか」の部分は、あまりにも思想的に底が浅すぎるのではないかということだ。
そこには「歳月が重なるにつれて、人生は私にとっていっそう豊かな、好ましい、神秘に満ちたものと感じられてくる」という考え方は微塵もない。

これは想像でしかないが、仮にゴーギャンが55歳で死ぬことはなく80歳を越えて生きたとき、おそらくゴーギャンはあの絵を再度描き直すように僕には思える。あの絵は、素晴らしい絵なのだが、それでも49歳のゴーギャンの考えでもあるのは事実だと思うのだ。ただ、その時点でのゴーギャンの身に降りかかったことを考えれば、それはそれであの絵が描かれたのは一つの奇跡でもあるだろう。だからこそ、80歳のゴーギャンがまた新たな奇跡を持ってあの絵を書き直したとき、どのような世界があの絵に宿るのかが知りたいと思うのだ。それが叶わぬ夢であるとしても。

2009/09/07

9.11と写真

評論家であり翻訳家でもある近藤耕人は、「今日あらためて写真を論じようとすれば、01.9.11のテレビ映像から出発しないわけにはいかない」と語る。
その理由として、ある編集者が 知人の電話でWTCから煙が上がっていると聞かされるが信じられない、そしてテレビのスイッチを入れ映像を見て初めて現実となったエピソードをあげている。

「映像が現実認識に取って代わったという事態が、人間の現実感の喪失と転位を含意しており・・・」

確かに9.11は21世紀で語られるニュースの先頭を飾る。僕もその時、家のテレビに釘付けになりその映像を見続けた。家人は横に座り僕と一緒にテレビを見ていた。

誰もが思うように僕もこれから何かが変わると思った。隣の彼女は疑いを持った眼差しで映像を見ていた。そして僕に言った。

「これって本当の出来事なの?」

「もちろんだよ。疑う必然性は何処にもないよ」

あれから8年経ち、毎年9.11がきて、過去の映像をどこかのニュース番組で流すたびに、彼女から同じ質問が繰り返される。

「これって本当の出来事なの?」

9.11以降の世界に幾つもの争いが起きたように、家にも様々な出来事が起きた。
それは「テロへの戦い」という名の覇権・利権争いの一方に日本が組み込まれざるを得ない状況の中で、争いから来る悲惨さのどれ一つとっても我々に関係ないことはないという事への、いわばさざ波のような余波が家を襲っていたのかもしれない。

今から思えば、仕事をコントロールしているようで実は流され、愛すべき人達を守ろうと逆に傷つけていた。それは何処にもある極めて平凡な一つの時代でもあった。

9.11から世界は変わったわけではなく、仮に変わったとしても、それは9.11が変化し続ける人間社会の中で大きな変化に至る過渡期の一つの現象でしかないと今の僕は思う。
変わると認識した僕も含めた多くの人達は、何かが起きるという潜在した意識を9.11の出来事で解放しただけなのだ。

冒頭の近藤耕人の言葉は次への続く。
「その錯誤のために、過去160年にわたって人間の現実感覚を深め、研ぎ澄ましてきた写真が、ついに自ら墓穴を掘って墜落したのである。」

彼の言うところの「人間の現実感覚」とは一体何を示すのか僕には正直わからない。ただ、「写真が現実を撮してきたのか」と言う問いに対しては、「現実とは何か」という問いと共に相殺される問いだと僕には思える。それを「人間の現実感覚」の根底においてあるのなら、その言葉自体が無意味に陥りかねない。

カメラは、写真は、常に僕らの現実とは無関係に存在している。さらに、写真が写っている「何か」に僕らにとっての現実を見たとしても、その写っている「何か」を指し示す「何か」は、僕らにとって経験がなければ、単に表象でしかない。僕らにとっての現実とは、そこに痛みを伴う内実そのものなのだ、と僕は思う。

9.11以降多くの内紛、虐殺、紛争、戦争があった。それらは映像として僕らの前に提示されたものもあったが、殆どは隠された。しかし隠されてもなお、それらは僕らの日常を写す幾多の表象の中に姿を変えて現れる。そして僕はそれらに囲まれて軽い苛立ちを覚えるのだ。

今年もまた9.11がまた巡ってくる。人類がその歩みを止めない限り、時間は止まることは無い、9.11が追憶の彼方に消え去ったとしても、名前を変えてそれは現れることだろう。

今年もまたニューヨークの空に巨大な二本の光の柱が登場するのだろうか。そしてそれを美しく写真に収める人もいるのだろうか。写真はどのような情景も美しくさせる力がある。光の二本の柱は、夜空を確かに美しく、9.11とそれ以降の悲惨を感傷的に彩ることだろう。

8年の年月は僕に何をもたらせたのか。営みの中で僕が感じ確信として得てきたものは何だったのか。おそらくそれは家人のこの言葉に集約されている。

「これって本当の出来事なの?」と。

2009/09/04

映画「窯焚-KAMATAKI-」の長い感想

正直に言えば、映画「窯焚-KAMATAKI-」(2008年日本公開)の事をどこまで書こうかと迷っている。思っていることをそのまま書けばよいのだろう。普段であれば臆面もなくそうしている事が、今回は出来ないでいる。おそらくそのこと自体が、この映画への最大の感想ともいえるかもしれない。

「自殺未遂をした日系カナダ人のケン(マット・スマイリー)は、死亡した父の兄の住む滋賀県信楽へと降り立つ。彼は叔父で陶芸家の琢磨(藤竜也)にも心を開こうとせず、初めは女性に奔放な琢磨に嫌悪感を抱いていた。しかし、琢磨の作品を見つめ、窯焚の10日間をともに過ごすうちに、その人間的な魅力に心を開いていく。(Yahoo!映画より) 」

映画「窯焚-KAMATAKI-」の公式サイトには映画の予備知識として「窯焚」の説明が載っていた。
「劇中使用される穴窯(あながま)は日本最古の窯として広く使用された窯のひとつである。(中略)この工程上、作品は生地(素焼きをしていない作品)のまま窯に詰められる。窯焚き中、燃えた薪から生じた灰が炎によって窯中に行き渡る。そして温度が高温になり炎の色が赤色から白色に変じる頃、生地が溶け、作品に粘り気ができ、それに灰が付着し溶けて自然釉となる。このような状態になるには、かなりの温度ーおよそ1300度以上ーを保つことが必要になるため、通常穴窯での窯焚は8~10日間もの日数を費やし、その期間は日夜約7~8分ごとに薪をいれる。」
性的暗喩が散りばめられたこの映画で「窯」が何を象徴しているのかをイメージするのは容易い。ただそれだけでもない。そして主人公であるケン(マット・スマイリー)が自殺未遂者として登場するにも理由がある。ケンの叔父である琢磨(藤竜也)は映画の中程で彼に向かって語る。
「健康な者は飛び降りようなどとは考えない、健康じゃない者はSEXしたいとは思わない」
琢磨の言葉には、人間の三つの状態、「健康」「健康でない状態:病気」「死」が描かれている。病気「飛び降りると言うこと」によって死につながり、「SEX」は健康な状態を表している。琢磨はこの言葉を気の利いた冗句の様にケンに向かって語る。しかし琢磨の行動自体は、特に女性に対する積極性は、この言葉を裏付けているように描かれる。

無論僕にとっては容認しがたい言葉だ。健康な者と病人の境界が明瞭だとは思わないし、病気の状態でのSEXも日常にありふれていると思うからだ。おそらくケンにとっても、違う意味で同様だったのだろう。彼は琢磨に反発する。琢磨の言葉はケンの心を揺さぶるし、別面ではそれが目的の言葉だったのかもしれない。つまりは無茶な言葉であることは琢磨も承知の話だったと僕には思えるのだ。

映画の最後に琢磨はケンに、もう自殺は考えないだろう、という趣旨の言葉をかける。それを聞いてケンはうなずく。この映画はケンを通して、病気からの恢復を描いていると言っても良いかもしれない。逆に言えばそれまでの間、と言うことは映画本編の殆ど、彼は病気であったことを示している。つまりはこの映画は恢復を題材にするがゆえに、病気の状態(病人)を描いているともいえる。

ここで素朴な疑問がわいてくる。ケンは一体いつから病人になったのであろうか。彼が自殺未遂を試みたその瞬間だろうか。それとも父親が亡くなった瞬間だろうか。ケンは父親の死の前からだと語っている。しかしその時期は彼にもわからない。病気は徐々に彼を浸食していったに違いない。そしてその始まりはとても曖昧でぼやけているのだろう。

では逆に病気が治ったと誰がわかるのであろうか。病気の始まりが曖昧で徐々に進みゆくように、病気からの恢復も同様なのではないだろうか。確かに発熱状態から平熱に戻ったとき人は恢復を意識する。それに対して僕は異論を言うつもりはない。でも状況として熱が平熱に戻ったとして、それで病気が治ったと誰がいえるのであろうか。私の肉体を構成する細胞の一部が、内臓の機能が、血管を流れる様々なものたちが、病気によって損なわれ、病気の浸食に対して抵抗を続けているかもしれない。

ケンは確かに自殺は考えないと琢磨の言葉に頷いた。でも健康な状態に戻ったとは言ってはいない。健康と病気は明瞭に分け難く、そしてその中で病気でもある自分の生を受け入れたのではないだろうか。ケンにとって恢復とは、病気から健康へと肉体の状態が単純な推移を意味するものではなく、病気も生の一つの姿であること、つまりはその中で生きるという気持ちを持つことであると、考えたように僕には思える。

自殺は死への自由な選択の結果の元で行われるわけではない。選択とは可能性のことであり、自殺が不可能性であることから、自殺を考える場合それが唯一の解決と思えるのである。だから自殺は何もかもを否定する。自由を否定し、個人を否定し、愛する者たちを否定し、健康と病気を否定し、希望と絶望を否定し、生を否定し、そして死さえも否定する。

ケンの自殺未遂が病気の現れだとしても、しかし他の道を歩む病気の生き方もあるのだ。おそらくケンはそういう道を見つけたのではないだろうか。

穴窯では釉薬は使わない、高温で長時間焚き続けることで灰による自然釉となるのである。監督は穴窯の技法と恢復を重ねている。ケンは病院に通うことなく、琢磨の親密圏の中で刺激を受け、徐々に自分自身を形作っていく。自分を取り戻すとは僕は語らない。取り戻す為には、前の状態が静止されていて記憶されていなければならない。でも人は静止することなどなく流れてゆく。親密圏の中の刺激とは、琢磨との語らいであり、信楽焼の魅力であり、窯焚であり、女性たちとのSEXである。

この映画でのSEX描写は都合4回ある。それらは琢磨とケンの交互に繰り返す。面白いことにこの4回の描写は連続した流れとも受け取れるし、それぞれの描写は対をなしているとも受け取れる。

1回目の描写は琢磨とバーのママであるが、その描写はポルノのように生々しく描かれる。2回目はケンと琢磨の弟子であり留学生のリタ(リーソル・ウィルカーソン)で、若い二人がお互いを求める姿に激しさはあるが、琢磨とバーのママとの絡みのように肉体が全面に出てはいない。

リタとのSEXは窯焚の期間にある。それまでケンは女性に対して、特に性に関して嫌悪感を持っているかのようであった。琢磨とバーのママとの関係を知り、ケンは琢磨をモラルを口実に罵倒する。しかしそのケンはその後飲酒運転で警察に捕まる。ケンの琢磨への怒りは、目の前に差し出された動物的で圧倒的な生への戸惑いと逃避から発せられたのだろう。直後の酩酊状態での運転がそれを表している様に僕には思える。

そのケンがリタに女性に対する欲望を感じる。窯焚の燃えさかる炎をみつめ、二人は交じり合う。生きる情熱を確認するかのような描写が2回目となる。

3回目は琢磨と、彼の亡き師匠の妻である刈谷先生(吉行和子)との描写である。踏み入れてはならない部屋があり、好奇心に駆られたケンはその部屋へと入る。その中でケンは琢磨と刈谷先生との関係を覗き見てしまう。その行為は1回目のバーのママに通じるが、ケンは二人の行為に嫌悪感は示さない。それはまるで何かの儀式のような印象を受けるのだ。

4回目の描写へと移る前に、急遽琢磨は窯焚を行うとケンに告げる。それは予定ではない突然の窯焚であった。突然の窯焚の最中に琢磨は突然に病気を患う。不安となり琢磨の元へと行くケン。しかし琢磨は病気だと姿さえ見せない。

琢磨の病気に関しては、いろいろな事が想像できる。そもそも突然の窯焚は何を目的として行われたのか。おそらくケンに捧げるためのものだったに違いない。つまり突然の窯焚における、不意の琢磨の不在は、ケンの成長を促すために、琢磨が意図的に仕組んだと考えることも出来る。そうかもしれない。ただ、琢磨の病気が計画的であろうがなかろうが、それは映画にとって些末なことでしかない。

この琢磨の不在は、ケンにとっては過去にさかのぼる事でもあったに違いない。ケンが病になったきっかけは父親の死去だった。それはケンにとって、多感な時期における父の不在でもある。窯焚の最中の琢磨の不在がそれと重なる。僕は、琢磨の不在は、父親の不在に対応する、「死」を現しているように思えて仕方がない。

窯焚を「誕生」「創造」の象徴とするならば、やはり「死」のイメージがそこになくてはならないのだ。そしてケンは「誕生」と「死」の狭間の中で、混沌とする「生」を生きなければならない。僕は琢磨の突然の不在こそ、この映画のメッセージそのものの様に思える。

4回目の描写は、ケンと刈谷先生の関係となる。刈谷先生はこの映画では謎の人物として現れる。彼女は「生」のイメージが強いこの映画の中で、逆に「生」を感じさせない。それが対比となり、彼女の存在感を際立たせるが、それでも台詞が少なく影が薄い存在であることには変わりはない。その存在は、琢磨の対極にあるようにさえ思える。

ケンと刈谷先生の描写は、「癒し」のイメージだと僕は思う。それはケンに「自殺」をする事を止めさせる力を持っている。ケンとの行為の中で刈谷先生は静かな涙をこぼす。あたかもケンの苦しみを受け入れたかのように。それはこの映画の、幸福とは言えないまでも、静かなエンディングでもある。

日本では、この映画はR18指定だった。ただ、この映画にとって4回のSEX描写は不可欠だと思える。それはケンの恢復の過程を示していると僕は思うからだ。

無論、この映画で、僕が馴染めないメッセージを感じる箇所もある。そしてその馴染めにくさが、この映画の見え方を大きく変える場合もあるだろう。だとしても、この映画がもつ様々な隠語が指し示すものが、「誕生」「性」「生」「死」と思われることから、「恢復」がテーマと思うことに、それほどの誤りはないように思えてくる。


追記:この映画の概略を下記に示す。

製作年:2005年(日本での公開は2008/2/23)
製作国:カナダ=日本
配給:ティ・ジョイ
監督・脚本・編集:クロード・ガニオン
第29回モントリオール世界映画祭
最優秀監督賞。
国際批評家連盟賞
観客大賞
エキュメニック賞
エアカナダ賞
第56回ベルリン国際映画祭のキンダー部門において審査員特別賞

さらに補足:
この映画は2005年にカナダ・米国で公開され、日本での公開はそれから3年後の2008年、そのときに映画館で観て、その感想がこの文章、書き上げるのに1年半かかったというわけです。笑

2009/09/01

稲越功一の写真「心の眼」

本年2009年2月25日に亡くなられた稲越功一氏の写真展が恵比寿にある東京写真美術館であったので行ってきた。本写真展は生前稲越氏が自ら構成を慎重に準備を進めてきた。亡くなられた時、写真展をどうするか話し合われたそうで、稲越氏の奥様を含めほぼ全員が開催の意向を示したと聞いている。また、その時に本写真展は没後の初めての写真展ではなく、稲越功一最後の写真展として開催するとも決まったそうだ。

稲越功一氏は雑誌カタログなどの書籍をデザイン的に美しく、かつ読みやすくするための、エディトリアルの写真家として活躍されてきた。つまりはその活躍の場の多くを商業的な場で行ってきたことになる。それでも、プライベートに自分が好きな写真も撮り続けてきた。今回の写真展はそのプライベートな写真、特にモノクロームの写真を中心に集めている。

僕が写真展に行った際に、鑑賞する仕方はいつも決まっている。まずは少し早めに全体を鑑賞する。次に写真展会場に大抵部屋のほぼ中央にある長椅子にすわり、そこから全体を見回す。そして写真展の雰囲気というか空気感を感じ取るように心がける。写真展は大抵は薄明で静かなので、椅子に座りながら、ぼんやりと考えることには最適なのだ。それから、また最初から今度は少し丁寧に鑑賞する。そしてまた長椅子に座りぼんやりする。そういうことを3サイクルくらいやっている。そうするとなんだかこの写真展会場と一体感みたいなものを感じるときがある。

だからといって写真展の何か真実が見えてくるというわけじゃない。そんな大それた事は少しも考えない。おそらく僕は、美術館、写真館、の会場独特のひんやりとした空気感が好きなのだ。作品にスポットライトが浴び、そこに人が立ち鑑賞している、そういう姿をぼんやりと眺めているのが好きなのだ。

稲越功一氏の作品はどれも良かったし面白かった。中央の椅子に座り、モノクロームの写真が飾られている壁を見る。作品の一つ一つにはタイトルはないことに気がつく。これは稲越氏のプライベートな写真へのこだわりなのだろう。タイトルがないことで、写真そのものへの回帰を促しているように思えてくる。

写真は記号論でみたとき、表象が無く指向性のみの特殊な記号だという言説に、僕は一般論として賛同する。つまり、僕らが愛する人が写っている写真を見るとき、その写真を見ているのではなく、実際はその写真が指し示す愛する人を見ているのだ、ということだ。それであれば、この写真に写っている愛する人は何なのかということになる。ロランバルトはそれを「それはかつてあった」と呼んだ。

稲越功一氏の写真集に「meet again」(1973年)があり、今回の写真展にも作品が飾られていた。その作品群はどれも一見したところ焦点があっていない、しかも写っている対象の多くは人の部位となっている。例えば、腕時計を触る手、ポケットに入れている手、ボール、などだ。写真家にとって、カメラを向ける先の何に焦点をあてるのかは、何を写真で表現するかの要となる。逆に言えば、稲越功一氏の焦点がぼやけているかのような写真群は、表現自体を焦点をぼかすスタイルをとることで、なおかつ人の部位のみ載せることで、写真が指し示す対象を曖昧にさせ、その写真自体に指向性が留まる効果を与えているのではないかと思う。

ただ「meet again」の写真群はそれだけでもない。あらためて見ると、写真のそれぞれに、写真を引き裂く亀裂が撮し込まれている。その亀裂の幅は太いものもあれば、線のように細いものもある。また色も黒だったり白だったりする。おそらく現像時に稲越氏が意図的に挿入させたものだろう。

もしかすれば、焦点が定まっていないと思ったのは誤りだったのかもしれない。ふとそんな気がしてくる。仮に、「meet again」の写真一枚一枚が、何らかの写真の一部の拡大とした場合、極限まで拡大すれば、あたかも焦点がぼけているように見えることだろう。そしてこれ以上拡大すれば写真として成立しない点、つまり写真としてぎりぎりの写真、それらがこれらの写真なのではないだろうか。

写真として成立するぎりぎりの写真、写真を分断するかのような亀裂、それらのスタイルは、見る者を戸惑わせる。焦点が定まらぬ写真は観客の焦点に影響を与えるのだ。そして観客自身が、自らの中の記憶の断片に焦点をあてなくてはならなくなる。写真の対象として、どこにでもあるもの、どこにでもある風景、が選ばれているため、その傾向は強まることだろう。観客の中でその写真は再構築される。それは写真の本質への反抗のようにさえ思えてくる。

「meet again」の次の写真集である「記憶都市 東京」(1987年)も印象に残る。その写真集に載る写真は全て建物となっている。そして人は写っていない。建物の多くは木造で、建てられてから相当の年数が経っていると思われる風情がある。それらの建物に人が住んでいるかはわからないが、当然に人が住んでいた時期もあったのは間違いない。記憶都市と古い木造建築の繋がりを想像するのは容易いし、それは正しいとも思える。しかし僕がこれらの写真群をみて考えさせられたのは、写真の対象物ではない。

それらの写真の共通するスタイルは、焦点が明瞭であること、全体的にグローがかり薄いもやのような幕がおりていること、モノクロームでコントラストが強いこと、などだ。また対象となっている木造建築も、確かに古いが、だからといって特別な建築物ではない。かつてどこにでもあり、見慣れているようなそんな建物なのだ。それらの写真は、見る者がかつてその建物を知っていたかのような錯覚を持たせると思う。

2009年の今となってはどうかはわからないが、写真集が出版された1987年は、かつて知っていたと今より思わせることだろう。つまり「記憶都市 東京」も前作である「meet again」と写真家の表現の方向性は同じだと僕は思うのだ。

稲越功一氏の写真とは、写真の記号としての指向性を曖昧にすることではなく、逆に指向性を強めること、それは写真を見る者が自らの記憶の一片に向かわせること、のように僕は思う。だからこそ、あえて写真家は写真の一枚一枚にタイトルをつけてはいない。その写真の指向性を具体的に写真家が設けることは避けなければならないからだ。

しかし、それにしても稲越功一氏のモノクローム写真は美しい。全て銀塩写真だという。デジタルとの差異を述べるつもりはない。問題はそう言うことではないと僕は思うからだ。稲越氏はプライベートでエディトリアルの現場では撮すことが出来ない写真を撮ってきた。しかし、その技術の殆どはエディトリアルの現場で培われたものだ。特に現像の技術が素晴らしいと思う。「meet again」「記憶都市 東京」を含む全ての写真にそれは当てはまる。

僕はもう少しこの写真展の中に留まりたかった。モノクロームの写真に囲まれた静かな空間で、もう少し自由な想像の世界に浸っていたかった。でも閉館時間が迫っていた。外は台風が近づいている。またこの場に来るかもしれないと僕は思った。この写真展は10月12日まで続く。こういう場合、僕の予感は外れることがない。