2006/07/30

Flockを使ってみる



Flockを試しに集中的に使っている。
「Flockは、Firefoxのコードをベースにして開発された「ソーシャルブラウザ」であり、ブログ、FlickrやPhotobucketとの写真の共有、del.icio.usやShadowsを使った「お気に入り」などの連携機能が組み込まれている。
昨年11月にFlockのプレビュー版を試したときには、興味深くはあるが少し粗削りな印象を受けた。 Flock関係者の懸命な努力により、今回のFlockベータ版は、ブログ作成や写真の共有、またはdel.icio.usなどのサービスの利用に時間をかけるユーザには必携といえるほど、しっかりと作り込まれている。」
   (OTP  「快心のFlockベータ」から引用)
Flickrdel.icio.usを使う(特にFlickr)僕にとっては最適なブラウザだと思う。
 FirefoxにExtensionを組み込めばFlockと似たような機能を持つことが出来るが、やはり一体型となっている分連携の良さはFlockの方が上を行く。Firefoxで人気が高いExtensionは概ねFlock用のExtensionとしてサイトに載っている。僕などはそれほど利用しない方だが(重たくなるので)、それでもFirefoxで組み込んでいるExtensionの総てはFlockにも組み込むことが出来た。

一部サイトの紹介では、「Google Note」の組み込みが出来なかったと書いてあったが、僕は問題なく組み込むことが出来た。それ以上にFlickrとの連携が素晴らしい。一部、例えば「Group」と「Explore」の一覧表示が出きない、などの不満もあるが、総じて言えば、よりFlickrを楽しむことが出来る。

Flickr利用者にとって、最適なブラウザだと僕は思う。ちなみに「PortableFirefox」と同様に外部メモリーに収納可能な「Flock」もある。(Pocket Flock
以前、ネットと言えばブラウザによる「ネットサーフィン」と「メール」であった。メールと言えば「POP」を指す時代のことだ。その頃、Netscapeなどの「メール」一体型ブラウザが便利だと、僕のまわりで使っている人も多かった。「Flock」をしばらく使っていると、何故だかその頃のブラウザを思い出した。

勿論現在のブラウザが標準装備として一体化するのはメールではない。「ブログ作成」であり「RSSリーダー」であり、様々なネット上で展開するサービスとの連携強化となる。それがネットにおける時代の変化ということなのだろう。「Flock」で気に入った機能,について簡単に説明する。



画像表示ボタンによりFlickrに投稿した写真の一覧を上部に表示する。
設定により、コンタクトを取っている人達の新たな投稿写真を見ることが出来る。
一覧の写真にマウスを持って行けば、大小二つのボックスが現れる。これはブログに投稿する写真の大きさの選択となる。



Flickrのコンタクト画面で、気になる人の画像にマウスを移動すれば、「View Photostream」表示が現れ、その部分をクリックすれば、上部の写真一覧は、その人の投稿写真一覧に切り替わる。



同様に人の写真サイトでも即座に一覧を参照することが出来る。今まで以上に快適に、色々な人の様々な写真を参照することが出来る。



Flockの標準装備機能のブログ作成、ブラウザ上部の写真一覧からドラッグ&ドロップで、写真をブログ作成画面に持ってこれる。ただしパソコン上に保存してある画像を使う場合、一旦Flickrなどに投稿しなければ、ブログに掲載することが出来ない。
Flickrでのブログ投稿機能と較べてみたが、コード生成はFlockでの方が良いと思う。でもFlickrからのブログ投稿と同様に作成時の通知(Ping)機能は行わない。(僕個人としては、通知はどうでもよい機能ではある)



いわゆるRSSリーダーも標準機能としてついている。ネット上で気になる記事を選択し、右クリックで「Blog this」を選択すると、その箇所が引用されブログ作成画面が立ち上がる。しかし、それ以外で簡単に「引用」を設定する事は出来ないので、「引用」を行いたい場合、自分でコードを書き込む必要がある。

ブラウザの「お気に入り」は「del.icio.us」等の連携のためか、他のブラウザと較べ独特で慣れが必要となる。今まで試しに使ってみたが、「試し」ではなくなりつつある。現状においても、僕にとっては最上のブラウザであるのは間違いない。ただ、折角のブログ作成機能ではあるが、ネット上のテクスト再利用の視点だけでなく、もう少し融通性を持たせて欲しかったと思っている。

2006/07/21

映画「ダヴィンチ・コード」を見てトムハンクスの毛髪が気になる



映画「ダヴィンチ・コード」を見た。僕はこのベストセラーになった原作を読んではいない。邦訳される前から何かと物議を醸し出していた作品として注目はしていたが、いざ邦訳されると、やはり同様に注目している方が多く、書店で積まれている書籍を見た瞬間に読む気が全く失せてしまった。

映画はトム・ハンクス主演だというので見に行ったようなものだ。実を言えば彼の以前の出演作「ターミナル」を見て、彼が歳をとった姿に驚いた。それでも「ターミナル」 のあの無国籍風の男はトムハンクスでしか演じられないと納得したのを覚えている。

僕が好きな映画、「ビッグ」で見せた、あの子供っぽい目つきと笑顔、そして大きな鍵盤の上で曲をタップで弾く軽妙な動き、あれらを印象的に覚えている僕にとっては、トム・ハンクスの俳優としての存在感をそこに求めて眺めてしまう傾向がある。勿論「ビッグ」から20年近い年月が経っているのは理解しているし、彼がその年月に俳優として幅を広げてきたのも見ている。それでもトム・ハンクスの役者としての本質、もしくは魅力は、映画「ビッグ」で見せた姿にあると思うのだ。彼から少年ぽい眼差しを無くしてしまったら、彼から軽妙な雰囲気を無くしてしまったら、それは単なる普通の中年男優でしかない。

トム・ハンクスは、存在としての喜劇性を感じさせる役者だと僕は思う。彼が演じる役は、深刻な状況にいても、どこか軽さとおかしみがある。そしてその雰囲気が映画の中で逆説的に現実感をもたらせる。それが今回の「ダヴィンチ・コード」では、彼の良さが現れていない。全くとは言わないが、あれだと誰が演じても同じではないか、そんな感想を持つ。だからか、 妙にトム・ハンクスの頭の禿げ具合が目立ってしょうがなかった。

「ダヴィンチ・コード」のトム・ハンクスは、正直言えば映画興行の担保として担ぎ出されただけで、彼が演じる必然性はそこにはない。だから見終わった後に彼が出演していることを忘れるほどでもあった。また彼が演じる教授が、様々な事物から連想を働かせ、真実へと推理している様は、 CGを多用し見ている方も理解しやすいのだが、妙に現実感が乏しく、何か回答がどこからともなく出てきた、 手品のように種も仕掛けもあるような、そんな気分にさせられた。

だから原作を知らない僕は、映画の半ばまで、トムハンクス演じる教授が黒幕ではないかと疑ってしまったくらいである。 そう、映画途中で僕が密かに願ったこと、悪役としての黒幕トム・ハンクスを僕は見たかった。トム・ハンクスを気にせず、映画としてみればなかなかに面白かった。でもどうも評判はあまり良くないらしい。また話題としてキリストに関することに集中しているかのようだ。

確かに、例えば「南京事件」を背景にサスペンス映画が造られた時、 描き方により、映画として僕は見ていられないかもしれない。解釈はその人が持っている、文化的・歴史的資源によるところが大きいとも思う。 でも映画の感想は、他もそうかもしれないが、自分の立場で行うなうしかない。

僕にとってはこの映画はサスペンス映画ではない。この映画は一人の女性が自分が何者であるかを知る過程を描いた映画だと思う。一見何も関係ない事柄が繋ぎ合わさり、結果的にわかるのは自分のことだった。そしてトム・ハンクス演じる教授も同様である。彼もこの事件を通じて自分を知るのである。だから映画では、二人の過去の記憶が時折挿入されている。

歴史サスペンスとして見たとき、思い出すのはウンベルト・エーコの「薔薇の名前」である。そちらのほうは書籍も映画も何回も見て、または読んだ。それと「ダヴィンチ・コード」を較べるのは何だが、映画を見る限りに置いては、謎は「薔薇の名前」の方が圧倒的に深いように思える。

原作を読んでいない僕が言うのは何だが、「ダヴィンチ・コード」が流行った理由の一つとして、そのわかりやすさが挙げられる様に思える。で、僕の結論で言えば、わかりやすさは真実からほど遠い。勿論、一つの出来事に対し様々な物語があると思うし、原案ではその中の幾つかをつなぎ合わせて出来たのだと思う。物語作家としての才能には敬服するが、これほど売れたのは、その伝説を逆手にとっての、巧みな商業主義があってこそだと思うのである。

トム・ハンクスのことを語るつもりで脱線をしてしまった。

2006/07/20

友人との会話で思うこと

友人と電話で久しぶりに話をした。話は最近の状況から仕事の話になった。すると友人は何かわだかまりを持っているようで、自然に彼の話を僕が聞く格好になった。

友人は建築関係の仕事をしている。また最近は石綿(アスベスト)除去も行っているとのことだった。ある時彼が追加工事の一環として玄関扉の拡張を請け負ったときの話をしてくれた。追加工事とは主となる本工事があり、別途必要に応じ発生する工事のことを追加工事と称するようなのだが、この追加工事で彼は玄関枠を広げるために壁を切り取って欲しいと言われたそうである。

彼に指示したのは工務店で、工務店側はコンクリートの壁だと説明していた。そこで友人はコンクリートの壁を切り取るべく電動工具で作業に入った。友人は今まで何度もコンクリートの壁を切り取ったことがある。その彼が壁の外枠から、内部のコンクリートへと電動ドリルが入ったとき、今までだとそれなりの手応えがあるのに、今回は何の手応えもなくドリルが中に入っていったそうである。おかしいと思った友人が壁の内側を確認すると、そこにはアスベストの耐火材があり、実際はコンクリートの壁ではなかった。

早速その事を工務店担当者に彼は言いに行った。そうすると担当者は、彼を凝視し、断言口調で、「いえ、あれはコンクリートです」と言い返したそうである。

「そんなことがない、確認した」と、友人は何回か言ったそうだが、帰ってくる答えは「あれはコンクリートです」、の一点張りだったらしい。埒がない言葉のやりとりに、友人もうんざりしていたが、最後に担当者が「コンクリートです」と言い終えたとき、彼は薄ら笑いを浮かべていたそうだ。その表情を見たときに友人は、「あぁ確信犯なんだ」と思ったという。

その笑いは、「もういい加減に空気を読めよ」、と言っているような、そんな笑いの様にも見えたと彼は言う。アスベストが人体に影響を与えるのは、それが飛散し口から体内に入る時である。だから吹きつけ石綿などと違い、成型しているアスベストは劣化しない限り、危険性は薄いかもしれない。それでも工事を行うくらいであるから、ある程度の年数は経過し劣化している可能性は高い、しかも壁と共に切ることで、そこからアスベストが飛散することにもなる。友人はあわてて最低限の防御を行うべく、車載しているマスク等を取りに行き、それらを装着して作業を始めたのである。

本工事では事前に申請書を提出し、アスベストの調査を行い、その調査結果に見合った体制と設備で除去作業を行う。また管理者の立ち会いもあり、チェックも厳しいとのことだが、それが追加工事申請となると、事前調査なども行わず、かなりチェックも甘くなるらしい。そこで彼が請け負った玄関枠拡張などの細かな工事は、追加工事として、アスベスト除去の申請などしないで行うのが多いと聞いた。つまりアスベスト除去工事は手続きを含め流れが面倒なのであり、それにあわせて工事日程を組むと、工程そのものが成り立たなくなる恐れがある。よってそういう箇所は追加工事として別途申請するのが、現実には多いそうである。

また別の作業で、オフィスビルの床の撤去を請け負ったとき、その工事も追加工事だったらしいが、床を外したらアスベストが耐火材として敷き詰められていた。それも工務店側は申請もしていないらしい。その撤去工事の中で、アルバイト学生達がほうきで掃除をしているのを見たとも言っていた。確証は持てないが彼はおそらく事実を話しているのだろう。

「君には関係ないのはわかるけど、これらの話をすれば俺は怒りの気持ちが抑えられなくなるんだ。これ以上話すと君に怒りをぶつけるかもしれない。」

おそらく些末な工事であるから、その工事に微量のアスベスト除去が存在したとしても、無視できると現場は考えるのだろう。でもそれらを押し通すとき、現場で働く者たちを、付近に住む人達を、おそらく全く考えてはいない。それと同時に、「これが現実だと」、したり顔で話す人の欺瞞さに、友人は腹が立つのかもしれない。

丁度この話と似たような事件がつい最近にあった。「男前豆腐」の大豆がら消却事件である。産業廃棄物である大豆がら125Kgを会社敷地内で消却したことについて、担当者は「産業廃棄物とは知らなかった」と答えているが、主業務から出る廃棄物の種類が不明であるとは考えづらい。別の新聞記事では、「量が少ないから問題ないと思った」とあったが、
その方が正確なのだと思う。

「量が少ないから問題ない」と思ったのは担当者個人の感想であり、それは友人が話した追加工事におけるアスベスト除去の話に繋がる。事の有無を量の多少に単位をすり替えるたのは、自分がしている行為の社会的位置づけが、個人としても組織としても把握が出来ていない証左だと僕は思う。しかしそれ以上に、僕が友人の話から最初に思ったことは、友人の怒りの気持ちを僕にぶつければよいと言うことだった。僕には、「君には関係ないけど」という発想自体が、これらの行為の根本にあるのではないかと、思うのである。

もしかすれば僕自身が、消費者の一人として、これらの事を助長しているのかもしれない。具体的にどう繋がるのかは、想像力乏しい僕はすぐには思いつかない。でもこの社会で起きる様々な問題に、僕は外部にいたいと願うが、多くの問題はそうではない。友人とは今度会おう、会ってこの話をしよう、と告げた。でも話を終えた後に、なんとなく寂しいような、そんな気持ちを味わった。

2006/07/18

犬の散歩、それは恐ろしい体験

on fence

公園に行くと犬連れの人が目立つ。犬を飼うというくらいだから、連れて歩いている人は皆犬好きなんだろう、などと愚にもつかぬ事を思う。

犬好きは、公園の散歩などで、お互いに犬好きであることがわかる。猫好きの場合はそういうわけにはいかない。自ら「私は猫が好きです」、と宣言をしなければ、互いに知るよしもない。だからといって、そんな宣言をする人もいない。

一度だけだが、家で飼っている猫を公園散歩レビューさせようと思ったことがある。冗談ではなく真面目にそう思った。そして猫の散歩用の紐(ちゃんと売っている)を買ってきた。でも試みる以前に、しばらく猫と過ごし、それは叶わぬ夢であると思った。

でも今では、猫が犬の様に散歩をしなくても良いことが何よりも嬉しい。猫との生活は、必要以上に干渉しないこと。干渉せずとも、見ているだけで、側にいるだけで楽しい。

一度友人宅に行ったとき、その家で飼っている犬の散歩を頼まれた。何で僕がと思ったが、夫妻はそろって用事があるという。お互いに気心が知れた仲だし、別に頼まれたことで嫌な気分になることもない。外では黒くて大きな犬が、「キャンキャン」と散歩に連れて行けと吠え続けている。聞けばここ2・3日散歩をしていないらしい。

「ストレスが溜まっているんだなぁ」、などと友人が他人事のように言う。

「おいおい、それを僕に連れ出せと言うのか」、少しだけ怖じ気づき僕は言う。

友人はにやにやと笑っている。その顔で僕は苦笑し、なんて奴だと友人を見る。

一応歩くコースを教えてもらったが、見知らぬ土地で具体的に言われても、言われた方が困る。まぁ犬が帰り道くらい覚えているだろうと高を括る。僕はその時まで一度も「犬の散歩」なるものを経験したことがない。公園などで見かける姿は結構優雅である。しかしこの犬は凄かった。今までの僕の犬の概念が根底から覆されたのである。

犬の散歩があれほど力を必要とするとは知らなかった。おそらく犬にとっては見知らぬ人間、つまり僕などは初めから眼中になかったのだろう。静止の言葉も聞かず、逆に俺に続けとばかりに、僕を引っ張り、自分の行動を譲らない。これじゃあ犬の散歩か僕の散歩か区別が付かない。しかも友人宅からどんどんと離れていく。そんな時、不意に犬は立ち止まり、
鼻を地面にこすり臭いを嗅ぎ始めた。そしてその後の小便。そしてまた僕を引っ張り歩き始める。そして止まり臭いを嗅ぎ小便。その組み合わせを5回以上は繰り返したと思う。僕はただ呆れるばかりである。

まずは、よくもまぁこんなに小便が出るものだという驚き。この犬は必要な時に小便を出す特技でも会得しているのだろうか。もしくは出すと止るを自分の意志でコントロールできるのだろうか。それともこれが犬の特性なのかもしれない。もしそうだったらこいつは凄い。

犬の行動は、多分、自分の縄張りを小便で宣言していると思う。しかし公園での見かける犬の散歩で、同じ仕草を見かけたことがなかった。

逆に動物として縄張りを宣言するのは必要なことなのかもしれない、などとあらためて僕の前で臭いを嗅いでいる犬を見てそう思う。そうすると今まで僕が公園で見てきた犬たちは、あれは一体なんだったのだろう。見知らぬ土地で、犬に引っ張られ、どんどんと友人宅から離れ、しかもあたりは夕闇が近づいている。そんな中で僕は、そんなことくらいしか考えられないほど、この犬の従者になりつつあった。

この話の結末はどうなったのか。それはありきたりの話だが、友人がいつまでも戻らぬ僕等を気にして、犬が行きそうな場所に来てくれて僕は解放される。

二度と犬と散歩はしたくない・・・

2006/07/16

写真と遺影

従兄弟の遺影をじっと見つめていると、彼の娘さんが僕の側に来てささやく。

「良い写真でしょ」

僕は黙って頷く。一人で写っている写真が見あたらなくて、孫のお宮参りの記念写真を引き伸ばしたのだそうだ。どうりで少しはにかんだ嬉しそうな表情をしている。その時の従兄弟のことを想像し少しだけ微笑む。

遺影として生前の写真を飾るようになったのはいつの頃からだろうか。写真の普及と共にそれは広まったにせよ、そこには身体の中で特に顔を重視する眼差しと、写真が持つ何かが結びついたと僕には思える。
「いまはまさに郷愁の時代であり、写真はすすんで郷愁をかきたてる。写真術は挽歌の芸術、たそがれの芸術なのである。写真に撮られたものはたいがい、写真に撮られたということで哀愁を帯びる。醜悪な被写体もグロテストなものも、写真家の注意で威厳を与えられたために感動を呼ぶものになる。美しい被写体も年とり、朽ちて、いまは存在しないがために、哀愁の対象となるのである。写真はすべて死を連想させるものである。写真を撮ることは他人の(あるいは物の)死の運命、はかなさや無常に参入するということである。まさにこの瞬間を薄切りにして凍らせることによって、
すべての写真は時間の容赦ない溶解を証言しているのである。」

(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 から引用)

写真に撮られたものはすべて今は存在しないものであるが故に哀愁を帯びる、というソンタグの言葉が特に具体性を持つのは遺影が最たると思う。逆に言えば、人物のポートレイトというのはどこかで遺影に繋がっているのかもしれない。

無論ソンタグは亡き人の写真を特定して述べているわけではない。でも僕が従兄弟の遺影をみて感じたことは、もう時を刻むことがない彼と、写真に撮された彼が、同質であるような、そんな奇妙な感覚であった。

人は遺影を見て、今は亡き人の面影を偲ぶと同時に、 凍結された写真の時間から喪失感を感じるのだと思う。遺影を見る人が、亡き人と関係が近ければ近いほど、 自身の記憶を呼び起こすことにもなり、浮かび上がった喪失感を感傷へと変質させていく。それは喪失によってぽっかりと空いた穴を埋めるというのでなく、逆に穴を日常の状態に置いたままにする、ということのように思える。

遺影として使われる写真は、多くの場合、初めは斎場に飾られることを目的にして撮影されたものではないだろう。例えばそれは様々なイベントの一つの記念であったり、旅行などの記録であったり、に違いない。でも一度遺影として使われると、その写真の意味と、向けられる眼差しは変わることになる。

遺影は家のどこかに常時飾られ、訪れた人は、撮された人物を見知っているか否かに係わらず、興味深く眺めることだろう。それは遺影に写った人がかつては確かに存在したという証でもあるが故に、凍結された写真の時間と今実際に眺めている時間の大きな隔たりを見いだすことでもある。

かつて彼はここにいた。そして今はもういない。

人が重大で悲惨な病気だと感じるとき、患者の容姿の、特に顔の変貌の強さに驚くときだと僕は思う。かつてのふくよかな生気に満ちた顔が、青白く、頬が痩せこけ、目は落ち込み、別人の様相を呈しているのを見たとき、人は声を失い、患者が抱え込んでいる病いが重大であることを意識する。

また愛する者に死が訪れるとき、その死が苦痛も恐怖もない、「安らかな死」 であることを祈る。実際はその死が安らかであるか否かを他者は知ることが出来ない。でも「死に顔」がまるで「眠っている」 かのような顔であれば、人は悲しみの中で僅かな救いをそこに見いだすのだと僕は思う。

近代で身体にどれほど考察を加えようと、未だに顔は別格となっている。主に遺影として現れる姿は、顔が全体のほとんどを占める。遺影とは顔の写真ということであり、それは顔がその人の総てを現しているという認識でもある。

遺影に使われる写真は元気だった頃の写真を使う。誰も死に瀕した状態の姿を遺影にはしない。穏やかな表情、もしくは楽しげに笑っている表情、どれもが良い表情をしている。しかし送葬の式場に集まる中で、それぞれの時間の中で過ごす人達の中で、遺影に撮された人の時間だけが既に刻むことはないのである。それを遺影という以前に、写真そのものが、それを見る人達に意識させるのだと僕は思う。

遺影が広まったのは写真技術の普及と共にだが、これはある意味自然なことだった、と僕は思う。今では、遺影に写真以外の技術を使うことも可能ではあるが、しかし写真以上に繋がりと喪失を感じさせるとも思えないのである。

2006/07/13

癌について少し考える

green

僕は「末期の癌患者になった従兄弟」という話の中で、「それこそ生死をかけ、彼の持っている力の全てをもって戦うのである」、と書いた。
その眼差しで従兄弟のことをみれば、なすすべもなく崩れていった彼の姿しか思い浮かばない。癌との戦いは消耗戦であり、少しずつだが確実に彼の肉体を侵略し、ついには完全に屈服させられる。彼は癌との戦いに負けたのだ。

上記の眼差しは、 僕は知らぬ間に従兄弟が癌に罹った聞いた時点から、自分の気持ちの中にあったのだろう。そしてその癌への見方が、 「戦う」という文章になったと僕は思う。しかし今ではその見方が違うのではないかと思っている。

「癌との戦い」、癌治療に対し軍事用語が頻繁に使われる。癌は肉体を地図としたとき、まず人知れず橋頭堡を確保し、そこを起点として勢力を徐々に拡大していく。目立たずに侵攻する様は見事としか言いようがない。それに対応するには、進行(侵攻)を止めるべく行う化学療法、もしくは癌が在る部分(橋頭堡)自体の切除となる。

「戦い」と言うからには、双方に戦う相手が必要となる。片方は病気としての癌と言うことになろうが、もう一方は誰なのであろう。

おそらく患者自身は、癌との戦いに参戦している意識は薄いのではないかと僕は思う。人は誰でも重い軽いの隔てなく病に罹る。その時、例えば単なる風邪であっても高熱であれば、病人はただ朦朧とした意識の中で横たわるしかなく、後は自分自身の免疫力と、周囲の介護に身を委ねるしかない。意識の上での病人はただ無力である。

ただ、病としての癌のイメージとして、そこに戦争が在る限り、患者は突然の医師の宣告により戦場に投げ出されることになる。ただ実際に戦う意識を持つのは医療関係者と患者の家族かもしれない。そして双方の狭間で、患者は「癌との戦い」の兵士ではなく、単に戦場としての地図であることを意識し、人として無力感を持つに至るように思える。

従兄弟が腸閉塞と患部切除の手術を受けた後、医者は彼に対し食事と運動を強く促した。おそらく具体的に「戦い」に参戦せよとの要請であったに違いない。しかし彼は両者とも出来なかった。食事と運動、それが程度の問題に関係なく、その行為自体においても人間は力を必要とする。気力の問題以前に彼にはその力がなくなっていた、おそらく手術がその力を奪った、僕にはそう見えた。

癌以外にも人間はそれこそ多くの病気に罹る。でも「戦い」と公然に呼ばれる病は意外に少ないと思う。例えば「老人性痴呆症」は病であるが、だれもそれを「戦争」とは言わない。もしかすれば介護はそれこそ「戦い」に近いと思う。ただ仮に「戦争」と呼ばれたとき、戦うべき「敵」とは一体何を示すことになるのだろう。病としての「癌」のイメージは「戦争」に結びつく。そして誰も好きこのんで「戦争」に飛び込みたくはない。

だから検診などで癌マーカーが出ていない事を祈り、癌予防に効くと云われればそれを試し、発癌性物質があると言われる製品からその身を遠ざける。 でも企業などが行う定期検診の殆どは、法令で定められた最低限のことしか行っていず、そこでわかる病もあるが、
それ以上に見逃してしまう病のほうが圧倒的に多いのではないか、そう思っている。

実際は「癌」は人間が罹る病の一つでしかなく、重大ではあるが特別な病気ではない。
しかも早期発見をすれば完治する率が高い病気でもある。 しかし何故未だに多くの遅れてくる癌患者の多いことか。問題は病理学的な癌以上に、 癌という病いのイメージそのものにあるように思える。 そしてそのイメージが社会に蔓延することで、人は癌検診を受けるのを避けるようになるのではないだろうか。

社会に蔓延している癌のイメージとは、一つは上記に述べた悲惨な戦争のイメージであり、一つは長期入院を余儀なくされることから、競争社会の中でそれまで築き上げてきたキャリアをなくす恐れであり、一つは患者として社会から隔絶した病院の管理下に入るということである。 しかし癌と言えども全てが同じ症状になるとも限らない。癌の部位と程度、または肉体的な個体差により症状はまちまちだと僕は思う。

もしかすれば自分の身体を顧みて癌かもしれないと一人戦々恐々としている人が多いかもしれない。人は不調を続けて感じたとき、まず癌ではないかと疑う。しかし癌のイメージが病院に行くことを押しとどめる。そしてもうすこし様子を見ようと言うことになる。その不安感は、人を健康へと目覚めさせる。身体によいと聞けば様々なことを試し、暴飲暴食を慎み、生活態度を改めさせ、適度な運動を心がける。もしくは色々とある健康器具類をそろえる方もいるかもしれない。しかし、自分の健康への目覚めは良いことではあるが、それ以前にまずは病院での検診こそが必要だと僕は思う。

また病気に罹るということ自体で、患者は罪悪感に囚われる場合もある。まずは多くの場合、病院で医者から言われる 「何故もっと早くこなかったのですか」という一言が患者に罪があることを意識させる。そうでなくても患者は、「何故自分が」という不公平感に囚われているのである。そして過去を振り返り、生活が乱れていたとか、暴飲暴食をしたこととか、家系のこととか、様々な要因を自分から引き出し、気持ちを納得させようとする。でもそれは本当のところ難しい。癌の発生理由の根本的なところは、様々なことを言われているが全ては仮説であり、本当のところは誰もわからない。

癌は罪でも、ましてやその人の罰ではない。 癌に罹った理由を自分自身に求めることは、
病いに対して社会が造りあげた虚妄に乗るということだと僕は思う。また癌は外来的な原因によることも十分に考えられる。いずれにせよ患者に罪は全くない。ここで患者が自分に罪をかぶせると、それは先々医者とのコミュニケーションが、医者からの一方通行になる恐れがでてくる。自分の命(人生)を判断するのは、医者ではなく最終的には自分でありたい、
僕はそう思っている。

病いとは人間の肉体に及ぼす物理的な作用であり、だからこそ本来は癌への対応は技術的側面を持ってすべきだと僕は思う。よって病いに関しては、心理学的、 社会学的見地からの意見は必要ないのかもしれない。技術的側面とは、定期検診による自分の肉体の現状を知ること、癌に罹った時のために医療保険に検討加入すること、また信頼のおける病院を幾つか知っておくこと、医者とのコミュニケーションを円滑に行うべくノウハウを知っておくこと、自分の身体を守る為に時として疑問は残さないこと、また時として自己主張すべきであること、等のいわばハウトゥーである。

上記の事柄は当たり前のように聞こえるかもしれない。でも癌への様々なイメージは、隠喩として使われ、感動的な美談として映像化され、ロマンチックな悲恋物語の結末として小説化され、その他様々な状況・メディアにより再生産され続けている。現在では、癌を死と結びつけて考える人は少なくなったと思うが、それでも昔のイメージとしての癌はしぶとく生き残っている、と僕は思う。だからこそ、それらに付随する商業化した健康ビジネスの中で僕等は消費活動を続けているのである。

実を言えば僕も医者・病院嫌いで、滅多なことでなければ病院には行かない。だから上記の話題を書く資格はないのは自覚している。でも今回従兄弟のことを通じて僕が感じたことを少し書きたいと思った。まだ書き足りないのであるが、それらはまた別の機会に書こうと思う。

2006/07/12

時には昔の話を by 加藤登紀子



宮崎駿監督作品の中で一番好きな作品が「紅の豚」である。監督の空に対する果てしない憧れとロマンチシズム。おそらく主人公が人間であれば、これほど格好良く描くことは難しかったのではないかと思えてくる。見方にもよるが、このアニメは好き嫌いがはっきりと出るかもしれない。僕自身がこのアニメが好きなのは、ロマン主義的な傾向が僕の中に根強くあるからだと思う。

加藤登紀子作詞作曲の映画エンディング曲「時には昔の話を」は映画以上にその傾向が現れている。誰かが映画とは痕跡の表出であると言っていたが、それであれば自己回帰する作品は映画とは言えない。それでも、常ではないが、時としてそういう映画と歌を無性に見て聞きたくなるのである。

これから盛夏だというのに、今夜は既に秋の気配。時には煙草の紫煙の中で思いに耽るのも良いかもしれない。

2006/07/10

喫煙から健康と病気のことを少しだけ考える

tabacco


僕は喫煙者です、と一抹の抵抗をもって言ってみる。少し前までは、 自分が喫煙者であることをわざわざ語る必要もなかった。でも今では、何故煙草を吸うの、という質問を受けるほどの有様である。 一抹の抵抗とは、自分が喫煙者であることを幾ばくか人に知られたくないという気持ちがあるからだ。

人に知られたくない気持ちとは、喫煙行為が百害あって一利なしとの社会全般の刷り込みが、この僕にも届いている事の証左でもある。さらに表に出れば喫煙場所は少なく、在ったとしてもそこは狭い穴倉のような場所だったりもする。そこで背を丸め、お互いを意識しながら、かといってそのそぶりも見せずに煙草を吸う様は、客観的に見れば見苦しい事だろう。

煙草の箱には、煙草がニコチン依存症の恐れがあることと、脳卒中の危険性が統計上高いと書かれている。また一部では、これもどこから持ってきたデータかは知らぬが肺ガンに罹るリスクも高いと聞く。また喫煙者よりもその周辺にいる人が受ける影響の方が高いとも聞く。だから現状の喫煙者への社会の対応は不当とは全く思わない。喫煙者は常に周囲に配慮を心がけなければならない、そう思う。

喫煙者の物言いで代表的なのは愚行権の行使かもしれない。それは一種のへりくだった喫煙者の態度でもある。喫煙が愚行であるとの認識は実は喫煙者には薄い。ただ社会が造りあげた喫煙の弊害に、表面上同調することが賢い選択だと思うが故の 「愚行権」という言葉なのだと思う。

正直に言えば、ほとんどの人は、自分にとって不利益な行為を選択する事は少ないのではないだろうか。つまりは喫煙といえども喫煙者にとっては本音ベースでは愚行ではないのである。逆に喫煙者である僕の問いかけは、何故社会はこれほど健康に対し偏執的になってしまったのか、ということである。

思うに、今ほど人が健康を気にし、他人に対し自分が健康であることを強調する時代もないように思う。まるで健康に気を遣わなければ、さらには健康でなければ人とは言えないような、そんな気さえしてくる。スーザン・ソンタグがいみじくも語っているように、病気は
「市民の義務のひとつである」、と僕も思う。

現在の健康に対する考えは、ひとつには病気に対する否定的な見方による。さらに病気とは自分が気をつければ罹らない、在る意味管理可能な領域であるとする考え方も見え隠れするのである。知人でも病気になり入院するとそれを隠そうとする。余計な心配をさせたくはないとの配慮もあると思うが、それ以上に病気になったことを他人に知られたくないという気持ちの方が強いのではないだろうか。

「病は気から」という物言いが今でも通用している。少しの病であれば気力で打ち克つ、学校でも仕事の場でも、時としてそのような物言いが横行している。病をおして仕事を完遂した者は周囲から評価され、病気で重要な会議を欠席した者はそのポストから追われる。確かに人の心の持ちようが、身体の免疫力に影響があると言われているし、僕もある程度はそれを信じてはいる。

でも「病は気から」の物言いには、病気の原因を病人本人に帰してしまう考えが内在している。病気になったのは病人自身が気のゆるみから、そこに病気が入り込んだというわけである。そして病人は自らを責めることになる。病気の姿を人に見せることは、ようするにそういう弱い自分をさらけ出すこと、それは自分が病気になったことが証明している、だからこそ人は病気になっても人に伝えることをしない、僕はそういうふうに考えている。

従兄弟が亡くなる前に僕に話したことがまさしくそれだった。彼は僕にこう言った。

「まず歯が悪くなった。よく噛まずに食事をとった。そして腸が悪くなった。何もかもが繋がっているんだよ。今の俺はまな板の鯉だよ。何でも医者の言うことを聞いている。」

彼の言い分は正しく聞こえる。それに僕は従兄弟が何故自分が病気になったのかを、自分なりに納得する強い気持ちもわかる。原因を自分に求めて考えなければ、彼は自分の境遇に納得できなかったのではないか。だからこそ僕は黙って従兄弟の言い分を聞いていた。でも病気はたまたま罹り、そして巡り合わせが悪く最悪の結果になった。すべてはたまたまの巡り合わせの問題であったと、僕は思っている。

「今はまな板の鯉だよ」と言った従兄弟の言葉の裏には、悪いのは自分だからといった気持ちが隠されていると思う。今の時代は「健康」であることが人間の条件の最大の一つである。その上で、「健康」の定義について考えなければならないという、一種のパラドックスの中にいるのも実態だと僕は思う。「健康」であること、それは具体的に言えば若さを保つこと、安易に結びつく「健康」と「若さ」の関係に、現代が「若さ」を一つの基準に設けていることが、様々な問題の一因でもある様にも思える。

でも実際は「健康」も「病気」も人間の一つの状態でしかなく、条件という事からはほど遠い。喫煙の話から健康について少しだけ考えてみた。今後も引き続き病気について考えていきたいと思っている。

2006/07/08

ジュニアの年齢

side face

帰宅時に玄関を開けると足下にジュニアがいた。出迎えてくれたのかと内心喜んだが、そんなことはなく単に表に出たいだけだった。おそらく僕の足音で玄関がすぐに開くのがわかり、しばらく玄関前で待機していたのだろう。5月頃からジュニアは何かといえば表に行きたいとせがむ。本当は表なんかに出したくはないのだが、扉もしくは窓の開き閉めなどで隙を見てするりと表に飛び出す。家の中にいればいいのに、今の時代は猫にとって表は危険だよと、ジュニアに向かって語りかけるが、彼は聞かぬ振りをして足早に塀を伝ってどこかに消えていく。

家の中でのジュニアの姿は主に寝ている姿である。それはそれで見ているだけで安らかな気持ちになるから不思議なものだ。
たおやかな蜂のような背中。
ときどきぴくりと動く耳。
丸まった足の裏からのぞいている肉球。
おれの無口なペン先で
とても描写出来ないほどとらちゃんは愛らしい。
彼女がおれの罪を洗い流してくれるのかもしれない。
   そんな予感めいたものも、
ちらりとだがある。  
(「おれの罪を洗い流せ」 中島らも から引用)

中島らものとらちゃんに対する気持ちは僕に真っ直ぐに届く。そして猫のこと、ジュニアのことを沢山書きたいのに、変に気取る僕は容易にブログに猫達のことを書かないのに気が付く。ジュニアは既に10歳を越えていると思うが、実は指折り数えなければ正確な年齢を普段は言い当てられない。人間であれば年齢と共に容姿もそれなりに変わっていくが、猫の場合も変わっているのだろうが、 僕にはよくわからない。

常に僕の前にいるジュニアは、成長が止まった時から何も変わっていない。そんな風に思っていた。ところが若い頃の写真と較べてみると、確かにジュニアは歳をとった顔になっているのがわかり、少し愕然とした。「愕然」とは大袈裟なように聞こえるかもしれないが、確かにその時の僕は「愕然」としたのだ。上の写真は現在のジュニアの写真である。昔に較べ白髪が確実に増えている。

愕然としたのは、丁度子供が親が老けたのを知り内心狼狽える心境と同じだった。僕の悲しみ、喜び、様々な事象の中での気持ちの拠り所として、知らぬ間にジュニアに寄りかかっていた。そういうことなのだろう。

お前も歳をとったんだなぁ、とあらためてジュニアを見て僕は思う。 僕の罪をお前は洗い流してくれるか。いやいやお前はもう十分にしてくれた、僕が頼りなくて悪いなぁと声をかける。その時のジュニアはきょとんとした表情をして、それから煮干しをくれとせがんだ。

追記:今月(2006年7月)、中島らもの三回忌を迎える。
関連:中島らも オフィシャルサイト

2006/07/05

「flugsamen」の展覧会「飛行種子」を観ての感想

福島世津子さんと乾久子さん二人の現代美術作家のユニット「flugsamen」による第一回展覧会「flugsamen/飛行種子」を見学してきた。それぞれがドイツ・日本で活躍されている二人のアーティストがユニットを組んでの初めての展覧会となる。

僕は久しく展覧会に行ってない、しかも現代美術となればなおさらである。そもそも現代美術というカテゴリが何なのかも知らない。単なる「今」というだけではないだろうし、そこには「現代」と付けるだけの意味があるはずだと思うが、容易にそれが思いつかない。
でも結局の所、誰のための美術か、という問いから発せれば頭に何が着こうが「美術」は変わらないと思うことにする。

このユニットの展覧会の前に、静岡で福島世津子さんの個展が開催していた。僕にとっては静岡での個展開催が、逆に東京での展覧会が個展でないことを意識する。それは単に二人のアーティストが、たまたま一緒に展覧しました、という次元では無論ない。

ユニット「飛行種子」の展覧会である以上、個々の作品について作者の名前を用いて語るのは避けなければならない、と僕は思う。これらの作品は「飛行種子」の作品なのであり、個々の展覧会で出品したことがある作品であろうとも、「飛行種子」の展覧会に出品した時点で、その意味も含めて変質しているように僕には思える。



例えば、展覧会の奥中央には福島世津子さんの作品「プロペラ」が宙を漂っている。本来作者の意図としては、このプロペラの下に横たわり、真下からの鑑賞が求められるが、「飛行種子」の作品として展覧した場合はその視座での鑑賞は難しい。何故なら作品「プロペラ」
の配下には、直径2cm程の白玉が円を描き置かれているからである。



その白玉は蝋で造られ中には一片の紙が挿入されている。その紙には文字が書かれている。それは「プロペラ」に記入してある言葉に連携しているかのようである。この時点で「プロペラ」は福島世津子さんの作品としてではなく、ユニット「飛行種子」の作品として別の意味が与えられている。

アートスペースの壁はキャンパスに見立てて「白」が殆どであるが、とりわけ「飛行種子」の作品群は白が似合うように思う。ユニット 「飛行種子」の展覧会は、一つ一つの作品を鑑賞する楽しさもあるが、この展覧会スペース全体で一つの「飛行種子」の作品とも言える様に僕には思えた。作品一つ一つの配置は、二人のアーティストの感性によるところが大きいが、一つの空間を演出する為の配慮と計算がそこにはあるように見えたのだ。

つまりはユニット「飛行種子」の展覧会とは、与えられたスペース全体で一つの作品となっている。それは二人という複数のアーティストが、ユニットとしての「飛行種子」という単数になるのと同じである。展覧会には様々な「飛行種子」が、それこそ様々な姿でそこにある。あるものは壁を這い、あるものは萌芽が始まり、壁の中を蠢き、空中を漂い、地上で飛翔するのを待つ。それらは個別に在ると同時に、互いに存在を結びつけているかのようだ。

実を言えば、現代美術というものに全く無知な僕が、ユニット「飛行種子」展覧会が創り出す世界が気持ちよく感じた。この楽しさ、気持ちよさは一体何処から来るのだろうか。



展覧会に入ってすぐに「対話写真」が展示している。それぞれが撮った写真に対話形式でコメントが付与されている。写真には「収集者」と「収集場所」が記載しているが、写真に対してこの言葉は適切だと僕は感じる。彼女達は何を収集したのだろう。

それは写真として映像化した対象は無論のこと、その対象が在った場所、さらにその対象が存在した時間、なによりもファインダー越しに収集者が対象を経験したこと。それらをあえて一つの単語で言うとすれば「記憶」かもしれない。

彼女たちは映像化し固定化した記憶を外部に持ち出し、それを対話という形で様々な意味を与える。「対話写真」が展示会の入り口に置かれたのも理にかなっている。それはまずは、ユニット「飛行種子」の方法論の提示であり、一つの固定化された記憶から対話という技法を使って別の物語を造り出す作品だと思う。それらはユニット「飛行種子」としての最初の作品とも言えるし、コメントをメモとして追加することで作品の意味は様々に変質する。しかも、観る人は写真に付与した対話を読むことで、知らずに自分も参加することになる。

この「対話写真」のモチーフは、展覧会全体の個々の作品にも通じる。 「対話写真」の奥には少し広い空間があり、その中央に「プロペラ」が宙を漂っている。左側の壁に沿って進むとすれば、 そこには乾久子さんの作品が展示してある。




自らが意志を持っているかのように増殖する線。作品が部屋の隅、角を使って両面に配置している。まさしくこの配置がこの作品にはふさわしいと僕は感じる。部屋の中で角は構成する線が多い場所であり、何かが集まる場所でもある。線は集まり何かの形に成ろうとしているのだろうか、それとも元々の形から崩れ違った何かになろうとしているのだろうか。
そんな興味がわいてくる。僕の妄想では、線は「記憶」の分解であり、新たな再構成への過程であるので、形をなしていない。

あたかも画用紙に付着した微少の種子が、適度な温湿度などの環境により、萌芽を繰り返す。種子から伸びた茎は、成長の場所を求めて彷徨う。そんな動的なイメージがこの作品にはあるように僕には思う。



「欠品ゲーム」、この中には「暗号」のメカニズムが隠されている。表面に見える一つの物語が、ある規則(ゲーム)に従えば全く違う物語がそこに現れる。そのゲームを視覚化することにより、この作品を見る人は、新たな物語に変換する驚きと楽しさを味わう。

考えてみれば「暗号」と「種子」はある面とても似ている。「種子」の姿を見るだけでは、それがどのような成体になるのかわからない。 「暗号」も表面で読み取れる一つの物語に隠されている重要なメッセージも、解読の規則を知らなければそれを知ることもない。

現実は常に隠される。隠された現実を知るためには、今までとは全く違う見方をしなければならない。ただ僕らは言語の内部にいて、そこでしか考えることが出来ない。言語の外部に出るということ。「飛行種子」の作品群に言葉を使った物が多いのは、隠された現実を暴くために、言語の外部へと突き抜けることが根底にあるのかもしれない、等と少し思う。

言語を使って言語の外部に突き抜けるとは、僕にとって詩作の目的と同義である。吉本隆明氏は詩の目的を「世界を凍らせる」とした。そして世界を凍らせるには「ほんとうの言葉」が必要となる。「飛行種子」の作品群は、そう言う意味の言葉を、しかも人間が声に出して発する言葉を、具象化した様にも思えたのだった。僕にとって「飛行種子」の作品群は詩を感じさせるものばがりであった。

もう一つ別の見方をすれば、言葉とは人間の象徴化した姿かも知れない。人の様々な思いとか願いが「飛行種子」となり、人から人へと脳内に付着して、いつか成長し新たな種子を生むことを期待する。でもその場合、種子がどのような成体になって欲しいか、あらかじめ種子の遺伝子に組み込んでおかなければならない。おそらく「飛行種子」の作品に使われた言葉は、組み込む遺伝子として考え尽くされた言葉なのだろう。そう考えたときに、使われた言葉一つ一つをもうすこし丁寧に見るべきだったと思った。



「飛行種子の標本」、あえて作品のイメージを具体的に表現すれば、そういうタイトルにでもなるのであろうか。収集されて、段ボールの箱に収まった種子は極めて静かである。しかし観る者の感性をざわつかせる何かがある。種には文字が書かれている。それは組み込まれた遺伝子情報なのだろう。そしてこの種の採取場所は他ならぬ人間に違いない。だからこそ、この作品を見て僕の心はざわつくのだと思う。つまり作品を通して自分を観るような、そんなざわつきに近いかもしれない。



「飛行種子の標本」の横には、壁に封じ込まれた種子の数々が飾られている。最初この作品を見たときに浮かんだ言葉は「化石」だった。植物の成長過程の途中で固定化された存在のイメージ。でもそのイメージは誤りがあると後で気が付いた。石の中に封じ込まれたにせよ、中で彼等は成長を止めることはない。いずれ取り囲んでいるスペースを浸食しつくすのであろうか。しかし、作品の配置がとても巧い。

僕は展覧会を7月1日に見に行った。実を言えば前々から予定していた行く日ではあるが、従兄弟の事があり、その前々日あたりから少し行く気分が削がれていた。普段よりほんの少し心が腫れている状態、そんな僕にとって展覧会の空間は、想像以上に心地よかった。正直に言えば、それは嬉しい誤算だった。

勿論二人のアーティストとしての才能を疑うと言うことではなく、自分自身の感受性が、現代美術という強烈な個性の発露に過剰に充てられるのではないか、という恐れからだったが、それは単に僕が無知だった故からくる気持ちだった。

「個性の時代」と言われたのは随分と昔のことだ。今ではそういう時代区分を付ける人は少ない。それでも人は他の人とは違う何かを出すために強度を求める結果になることが多い。過激な言葉、衝撃的な映像、それらを反復する姿に、今の僕は付いていくことが出来ない。

「飛行種子」の作品群には、そういった意味での強度は少ない。正確に言えば、強度を測る物差しで計ることが出来ない。「種子」とは可能性であり、創造であり、それらは観る者一人一人の感受性にあわせて発芽するのだと僕は思う。確かに展覧会「飛行種子」の空間には、個々の作品から視覚に捕らえることが出来ない「種子」が飛散していた様である。そして訪れる者たちに確実に付着し、それぞれの世界へと運ばれていったと僕は想像する。そしてその感触が、腫れている僕の心を治癒するという事ではなく、何かしら耐性を強めてくれたような、そんな感じを持ったのである。

一時間くらい僕は会場にいたように思う。その間、何回か乾久子さんが作品についての説明をしてくれた。とつとつと話す乾さんの言葉と声は僕の内部に染み込む。とてもシンの強い方だと声を聞いて思う。福島世津子さんは、来訪者に丁寧に作品の紹介をされていた。僕はすっかり挨拶をするタイミングを逃してしまったらしい。僕は乾久子さんに 「とても楽しめました」とお礼を言い、記帳をして引き上げた。お礼の言葉は無論世辞ではない、お礼をお二人のアーティストに告げたかった。その気持ちは今でも変わらない。

関連サイト
追記:上記感想は作者からの解説を受けての感想ではなく、僕自身の勝手な解釈と感想です。