2007/02/28

メモとして残す映画「墨攻」を観ての直後の感想、それは一つの脱力感


昨日映画「墨攻」を観た。とても良い映画だと思ったし、何よりも面白かった。その面白さは、アクションとしての展開の早さとその強度の強さによるところが大きいのだとは思うが、それ以上に何より魅力あふれる登場人物、そしてそれを演じる俳優の力量が大きいと思う。

映画「墨攻」のあらすじをここで書くつもりはない。ここでは未だ考えがまとまらない僕自身の気持ちを、思いに任せて綴ろうと思う。一言で言えば、この映画のメッセージ性はわかりやすい。なおかつ、この映画がアジアの3カ国(香港を含む中国、韓国、日本)の映画人たちが結集して造られている。おそらく、このメッセージ性の強さは3カ国の合作によるところが大きいのだろう。

一つの点で彼らの意見はまとまる。それは映画中において墨家の思想として何度も現れる、「非戦」と「兼愛(万民を愛す)」ということなのかもしれない。メッセージ性の強さは、では一つの解釈にまとまるかと言えば、そんなことはない。これはあくまで僕の想像なのだが、いくつかのパターンに分かれるように思える。例えば、多くの映画は一人の主人公の視点で描かれることが多い。それ故、観客はその主人公に自分を同化してしまうものだ。逆に言えば、対する人物の考えを二項対立化し否定する。

圧倒的な軍事力の巷淹中(こうえんちゅう)とそれに対する革離(かくり)、その構図は一方を米国と見なすことは可能だろう。さらに欲望の権化となる梁国王は言わずともながである。その中で革離を誰におくか、この映画が中国で評判を呼んだのは、とてもよくわかる、云々。


別の見方をすれば、巷淹中は軍隊の指揮官がそうであるように、常に死者のことを語る。死者(戦死者)を悼み、それを力にして戦いへの士気を持続させる。それに対し、革離は生者のことを語る。人生には生きる価値があり、それは奴隷状態ではない。そして戦いでの死は、ある意味無意味なのである。これらのメッセージで、日本における憲法論議を想起させることも可能だろう、云々。

「非戦」と「兼愛」をキーワードにした様々な解釈は、僕には脱力感しか与えない。でもそれらがこの映画を観るものが簡単に得ることができるメッセージであるのも事実なのである。「万人を愛する」墨家の思想にたいし、革離に助けられた男は彼に向かって告げる、「誰を愛するのか間違っていないか」。顔のない万人を愛することの不可能性を告げるのである。それにより革離は顔のわかる相手、つまり彼が愛する女性を助けるために再び梁城に戻る。その箇所は、唯一といっても良いほど、この映画で僕にとって救いとなるメッセージである。

しかし、結果的に革離が愛する女性は死ぬ。それも革離の戦術の結果によって。思い起こしてみれば、この戦いで登場人物の全員の希望は絶たれる。梁国王の希望の息子は殉死し、巷淹中は敗北を味わい、革離は救いたいと願った女性を失い、戦士たちは戦いの意味を失う。そのほか、顔も見せず言葉も発せずに、実に多くの人員がこの戦いで死ぬ。

それらもこの映画でのメッセージの一つなのだとは思うが、ただ救いがない。僕にとって、革離の愛する女性(逸悦:いつえつ)の死ほど、この映画の象徴性を出しているシーンはない。逸悦は梁王に謀反人の罰で声帯が失われ地下牢に投じられる。水攻めにより梁城奪還を果たした革離は逸悦を探し回る。どんどんと水が地下牢に浸水し彼女は溺れ死ぬ。

逸悦が溺れるのは二度ある。一度目は偵察の時に敵に見つかり逃れるために川に飛び込む。その際彼女は革離に、自分は泳げないことの伏線を与えている。その時も彼女は溺れるが革離が助ける。水没した地下牢から革離は逸悦を見つけるが、今度は助けることが出来なかった。しかもそれまで、革離は何度も地下牢の上を通り過ぎる。彼の智力を持ってすれば、逸悦が造った靴を見つけたときに、即時に地下牢にいることがわかるはずである。しかし彼は地下牢の上を何回も走り回るだけにすぎなかった。

この無意味な程の革離の「走り」は何を意味するのか。愛する者が誰であるかを識るが、求めるものは決して得ることができず徒労に終わる。そして愛するものを殺すのは自分に他ならない。しかし、その様なメッセージを誰が受け入れることができるというのだろう。戦によって、人は何も得ることが出来ないし、得ることを許しもされない。

脱力するほどの結論とはいえ、革離の「走り」が意味する物は大きい。映画の最後に革離のその後が簡単に語られる。孤児を連れて諸国に平和を説いた、その後日談にたいし、「孤児」という象徴性はともかくも、脱力感故に、全体的に虚しさを感じたのは事実である。

ひとつだけ、僕にとって希望をもたらせることがあるとすれば、それは全員が映画の登場人物になることにある。無数の名もなき声もなき人たちとして描かれるのではなく、主要登場人物のように自分の生を生きる。そして相手もその様な人物として扱う。それが現実態だとしても、なおさらに人間の複数性のなかでの個人の在り方を考えてしまうのである。これも脱力するほどの結論とはいえ、映画「墨攻」を見終わった直後に一番強く感じたのはそのことに他ならない。

2007/02/21

駒沢公園の樹木伐採に関するメモ

昨年の夏頃と思うが、駒沢公園の樹木が管理事務所によって一斉に伐採された。公園は都立であるので、伐採には都の認可が必要なのだから、それは都庁の何処かの部署が決済したのは間違いない。伐採の事前公告もなかったように思える。

それはいきなりに開始され、数日間続いた。問題なのは、その伐採の仕方であった。無造作に、一定の高さ以上の樹木は、無論、特定の区域だけだが、何も考慮されず切り落とされたのである。多くの樹木は根からの養分だけでなく、初夏の場合、葉からも自らの成長に必要な養分を取り込むはずである。だから、素人が考えても、樹木のどこをどの様に伐採するのかは、ある程度の専門知識が必要だと僕は思っていた。でも一度だけ、作業中の横を通っただけだが、ちらりと見たその作業内容は、チェーンソーでなぎ切っているとしか見えなかった。

公園の中で、特に知られている刈り込みは、「大刈り込み」と命名され、大きく立体的にふくらむ優美な姿を見せていたし、説明看板まで近くにあったというのに、今ではその看板も取り外され(た様に思える)、ただ無惨に刈り取られた樹木が裸木の集団となってそこにあるだけとなった。

しかし、刈り取られた結果、露わになったものもあった。そこかしこに青いシート屋根が目立つようになった。公園内の長期滞在者と言うべき人たちの家の屋根である。もちろん、公園の近くに住んで、度々にここに遊びに来る人にとって、それは周知のことだった。でもこうして露骨に見えると、こんなにも多かったのかと初めは少し驚いた。こうも青いシート屋根が見えると、この無造作な伐採、つまりは樹木の生命の強さを勝手に信じ伐採した行為自体が、これらの人々への嫌がらせではないかと思ってしまうほどだった。

そう思った理由は、その方々が住んでいない場所の樹木の伐採が行われていないこと、偶然かも知れないが、そういう風に見える状態に気が付いたこともある。正直に言えば、僕は彼らが樹木の伐採で受けた精神的圧迫に対し同情心も起こらないし、それを行った行政側に憤りを持つこともない。ただ、僕が思っているのが事実であるとすれば、無惨なのは樹木だとは思う。

本来、青いシートの屋根の人たちと、例えて言えば六本木ヒルズの高見に住む人たちは、中産階級の役人たちから見れば、シーソーの両極端に坐る事で似ているように思えるものだ。例えは悪いが、昔から貴族と浮浪者は放蕩者と相場が決まっていた。貴族はギロチンにかけられ、浮浪者はムチで追い払われる。現在でもその状況は変わらない。それは新聞の見出し、それは中産階級者のストレスを発散させるための道具としてのメディア、を見れば一目瞭然だと思う。ヒルズの住民のどうしようもない裁判に注目し、知らぬ間に都市再開発の風が街の有様を変えていく。そこで両者の行き場が、我ら中産階級の中へと取り込まれる。

ただ樹木伐採の後も、青いシート屋根は以前と同じ状態で、そのままそこにある。現状では、他に行きようがないのであるから、そしてこの場所での生活に馴染んでいることもあり、伐採自体が彼らにとって何の効果もなかったのは事実だろう。

今年の春から夏にかけて、切り取られた樹木は、人の営みに関係なく、たくましい命を僕に見せてくれるのであろうか。そうであって欲しいと願う。

2007/02/13

小説から映画に繋がる「ジョイ・ラック・クラブ」の遺伝子情報について

The Joy Luck Club
映画とその原作となる小説との間に横たわる溝は決して埋まることがない深さを保っている。
映画には映画で使われる言葉と世界を持ち、小説は小説で使われる言葉と世界を持つ。それでも、両者を較べ、どちらがより良いなどと述べることの過ちを僕は幾たびか繰り返してきた。
そしてその過ちは、「私」という世界に取り込むための過程の中で、「私」を保全するための、いわば発熱状態の中でおこなわれている様に思える。二つのメディアで、ほぼ同時に、似た内容のものを取り込んだのだ。
しかも両者とも記憶に残る優れた作品であれば、「私」のなかで、それらを如何に昇華させるかは、ひとつの事件となって「私」の精神を揺さぶったとしても不思議ではない。発熱を静めるための一つの処方として、どちらかが優れていると定め、片方を捨て去ることもあり得る。

映画「ジョイ・ラック・クラブ」は素晴らしい映画だった、それは多少の苦痛を伴いながらも僕の中に取り込まれた。小説「ジョイ・ラック・クラブ」も素晴らしい小説だった。しかし小説の「ジョイ・ラック・クラブ」は、未だに「私」の中で発熱を促す異物となって留まり続けている。

幾つもの小さな疑問が小説を読んで浮かぶ。それは不思議なことに、映画では感じることがなかった疑問である。疑問という言葉が適切でないのを実感しながら、僕はこの言葉で綴っている。しかしそれに合う適当な言葉が見つからない。

矛盾をきたすようだが、小説を読んで浮かんだ疑問は、映画を観て浮かぶことがなかった疑問を掘り返しているのである。つまり、小説を読んだ結果、映画が再び活性化した異物となって私を捕らえている、そういう状態に陥っている。しかも今回は片方を捨て去ることで解決することは出来ない。「私」の中の二つの異物は、「私」の中で昇華させなければならない。さすればきっとそこから、新たな「ジョイ・ラック・クラブ」が生まれることだろう。それはウィルスが身体に侵入し抗体を造るのに似ている。ウィルスは「私」にとっては異物であるが、それによって造られる抗体は「私」の身体の一部となる。

映画「ジョイ・ラック・クラブ」の脚本スタッフに原作者のエィミ・タンがいたのは間違いない。それは映画の最後に現れる一連の製作スタッフに名前を見つけたから言っているのではない。原作者がこの映画に大きく関与している状態が、映画の隅々に現れていると思えたからだ。それも小説を読んで、自分なりに確信したことに過ぎないのであるが。

この映画と小説は、ある意味補完関係にあるように思う。無論、映画と小説を物語の筋で見比べると、違いは幾つもある。しかし、それらの違いは概ね小説の意図を崩してはいない。それよりも映画は、小説で読者が当然に思う疑問、「その後、彼女たちはどうなったのだろう?」 を解消することも担っていた。

例えば、割り勘の夫婦となった娘の家は母の言うとおりに崩壊したのだろうかとか、裕福な白人アメリカ人と結婚した娘は本当に離婚したのだろうかとか、そういうことだ。また映画が使用する言語は映像であるため、それらはテキストとしての言葉より強度を必要とする時もある。それにより小説と内容が変わった場面も多かった。浮気性の男と結婚し、彼との間に出来た赤ん坊を殺す場面では、映画では産まれている赤ん坊を茫然自失状態の中で桶の中に沈めてしまうのに対し、小説では赤ん坊は中絶し殺すことで表現されている。

それらを一つ一つ語るときりがない。両者は似ているようで違う、違うようで似ている。映画は、まるで小説という「母」から生まれた「娘」のようだ。でも母と娘の関係である以上、母から受け継いだ遺伝子を娘が受け取っているのも事実である。それらを幾つか僕は感想として載せようと思う。

1.理念化された中国

「ジョイ・ラック・クラブ」に登場する母親達4人は全員中国で生まれ育った。そしてやむにやまれぬ状況で米国に渡ってくる。
 「アメリカに着いたら、わたしそっくりの女の子を産むわ。女の価値は夫のゲップの大きさで計られるなんて言う人は、向こうにはいないでしょうよ。人から見下されないように、娘には完璧なアメリカ英語を身につけさせるわ。向こうに行ったら、娘はいつも満腹で悲しみなど入り込む隙間もないでしょうね! 自分が望む以上のものになったこの白鳥を娘にあげれば、きっと娘はわたしの思いを汲んでくれるはずだわ」

(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)
母親達はいずれも何らかの事態で、自分達が生まれ育った中国に失望を抱いている。それこそ、「女の価値は夫のゲップの大きさで計られる」 国だったのである。さらに旧日本陸軍が中国を侵攻していた時代でもある。飢えと身に迫る危険、時代の状況も渡米を促すことにもなる。

しかしだからといって、彼女達が生まれ育ち身に付いた文化的資産を、渡米と一緒に中国においてきたかと言えば、そういうことではない。むしろ彼女達にとって、第二の人生の場となる米国で生き抜くための重要な指針として育っていったと言っても過言ではない。

しかも米国での生活空間は中国人同士との繋がりが強く密接でもある。その生活空間の中で、彼女達の文化的資産が、現実の中国を離れ、独自に展開していった様に思う。それは言わば理念としての中国であり、その中で母親達は中国人としての自覚を保ち続けた。しかしそれは現実に中国で生活する人の世界とは違っていた。
「去年、四十年ぶりに戻った中国で、それと似たことを経験した。わたしは派手な装身具を取り外した。派手な色も身につけなかった。彼らの言葉でしゃべった。彼らと同じ通貨を使った。それでも、彼らには見抜かれた。わたしが純粋な中国人の顔をしていないことを。彼らは、わたしに外国人向けの値段を吹っかけてきた。
わたしは何を失ったのだろう? その代わりに何を得たのだろう? 娘はどう感じているのか聞いてみたいと思っている。」

(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)
彼女が失ったものは、渡米してからの40年間という、中国での時間である。得たものは、それに変わる米国での時間とも言える。彼女達の「理念化した中国」の土台は、渡米する前の中国、つまり1940年代までの中国でもある。どちらが「純粋な中国人の顔」をしていたのか、それは誰にも答えることが出来ない、と僕は思う。言えることは、その事実、つまり彼女達が大事に育てあげてきた括弧付きの「中国」は、時代と共に変化することがなかったということなのだ。無論、母親達は中国人である。しかし彼女達が自らを「中国人」として意識し表明できるのは、中国以外の場所、特に米国でしかなかった。

2.母と娘

母親達が願ったように娘達は完璧なアメリカ英語を操るようになった。
娘達が育った30数年の間、米国も含め世界は大きく変貌した。グローバル化、あるいは多文化主義的な世界観は、当然にその時代を生きる娘達に影響を与えずにはいられない。
「そのとき、私は思い当たった。彼女達は恐れているのだ。私を自分達の娘と重ねてみているのだ。私と同じように無知で、彼女達がアメリカに持ち込んだ真実や願いをまるで気にかけない娘達のことを。中国語で話しかける母親をじれったく思い、片言の英語で説明する母親を愚かだと思う娘達のことを。おばさん達は、ジョイ(喜)とラック(福)が娘達にとってもはや同じ意味でないことを、アメリカ生まれの娘達の閉ざされた心には”喜福”が一つの言葉としては存在しないことを知っているのだ。いつか孫を産んでくれる娘達が、代々伝えられてきた希望のつながりと断絶してしまったことを知っているのだ。」

(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)
娘達が母親達のことを理解しない部分は、理念化しそれが母親達の信念とまで昇華した「中国」のことであると、僕は思う。頑なに時代の変化に流されるのを拒み、その中で大事に育ててきた「中国」、しかしそれは当然に娘達に受け入れることが出来ない理念でもあるのだ。

娘達にとっても、自分たちの生活空間は、同様の中国系アメリカ人達による親密圏でもある。その親密圏で培われてきた信念は、理由はわからずとも、娘達に足かせとなり、逆にそれが彼女達をしてその親密圏を脱したいという気持ちに繋がっていったのではないだろうか。

娘のアメリカ人化はそのように始まっていったと僕は思う。 そしてますます娘は母を理解できなくなっていく。母から娘を見れば、それは同一の存在でもある。瓜二つの顔、そして性格、もしくは似ているように見える人生の歩み。しかし娘は母との違いを気持ちの中で列挙する。たどたどしい英語、因習に絡まった言葉、中国人同士の社会。それは一言で言えば、「同一」と「差異」の問題でもある。母は「同一、平等」を望み、娘は「差異、区別」を求める。

母親達は自らの生い立ちと歩んできたことを率直に娘達に語り始めることでその境界を越える。両者の対立は、愛情深きが故のすれ違いから発しているのである。母は娘の幸せを願い、娘は母に心配をかけまいとする。それは互いに同性であること、そしてそこから発生する問題への相互の理解と承認により、母と娘は互いの問題を自分の問題として考えるきっかけとなった、と僕は思う。

この小説ではジェンダーの話は避けては通れない。何故、母と娘なのか。母と父、娘と息子、もしくは性とは関連しない固有の性格、それぞれの組み合わせは無限に近いかも知れない。しかし「ジョイ・ラック・クラブ」では「母と娘」の話となっている。しかも「ジョイ・ラック・クラブ」 の構造は、常に現時点で娘が抱える問題に符合する姿で、母の過去がさらけ出される。 その世代間の縦に串刺しされる女性であることにより起こる問題は、主人公(既に母親は亡くなっている)の存在により、母と娘の双方に、 今度は横に繋がっている。

3.ジェンダー

母と娘の関係を近づけさせたのは、親子としての関係(親密圏)よりは同性としての繋がりであった。ここで実際に「ジョイ・ラック・クラブ」本編中の2編について考えてみようと思う。一つは 「割り勘の結婚」、リーナ・セント・クレアを主人公とする物語、もうひとつは「虎年の娘」、インイン・セント・クレアでリーナの母親の物語である。この二つの物語は、他の母と娘の物語の組み合わせも同様だが、構造が同じということではなく、状況に対応する行動と思考が母と娘とで重なっている。

「割り勘の結婚」では夫婦両者に共有するモノの費用は折半している。
「きみと同じように、ぼくもいわれのない金は受け取りたくないんだ。
金のことを別々にしている限り、お互いの愛情にいつも確信がもてるからね」

わたしは抗議したかった。こう言ってやりたかった。「違うわ! 私はそんなふうに考えていないの。今までの私達のやりかたは好きじゃないのよ。本当は、お互いに自由に与え合うやり方が好きなのよ・・・・」でも、どこから始めたらいいのかわからなかった。すべてを与え合う素晴らしい愛の形を彼がこれほどに恐れるなんて。誰に、どの女にそこまで傷つけられたのか、彼に聞きたかった。」
別々、つまり「割り勘」であることでリーナの夫ハロルドは、お互いの愛情に確信が持てるという。しかしそれは本来のリーナのやり方ではない。しかしハロルドを素晴らしい男性と思い、彼と結婚を望むリーナにそれを強く主張することはできない。逆に彼に嫌われまいとハロルドの好みの女性になろうと努力をする。しかし、その努力もハロルドの頑な平等性に、常に不満を持ち続ける。知らぬ間にリーナの家庭は崩壊の危機に瀕している。しかしそれを知るのは、 リーナの母であるインインだけである。

「虎年の娘」では中国の裕福な家で生まれ育った母(インイン)は一人の男性と恋に陥る。そしてインインもその男性が喜ぶような女性になろうと心がける。しかしその気持ちは夫となった男性がインインを捨てオペラ歌手の元に去ったときに完全に裏切られる。そしてその男性が数多くの女性と、その中には見知った従兄弟も含まれる、浮気をしていた事実を知る。しかしその時はインインはその男の子供を宿していた。
「リーナに、私の恥を話そうと思う。わたしが裕福で美しかったことを。どんな男にももったいないような娘だったことを。物のように捨てられたことを。十八にして頬から美しさが消えてしまったことを話そう。恥辱とともに湖に身を沈めた女達のように、身投げをしようとしたことを。その男を憎むあまり、お腹の子供を殺してしまったことを。 (中略) その男の長男が体内から引き出されたとき、どす黒い復讐の念が私を満たしたからだ。死んだ赤ん坊をどうしようかと看護婦に聞かれたとき、わたしは新聞紙を放り投げて、魚みたいにそれに包んで捨ててくれと頼んだ」
その後インインは数年間、その男が死ぬのを望んだ。そしてそれが叶ったとき、その男は別の浮気相手に刺し殺される、彼女は現在の夫であるセント・クレアと再婚する。そしてその過程で自分が「虎」であることを自覚していく。

「割り勘の結婚」のリーナの夫ハロルドと「虎年の娘」のインインの最初の夫との共通項とは、特別であるはずの女性に対する「公平」さかもしれない。ハロルドは会社内においてもリーナを他の事務員と区別は一切しない。それは私的空間である家庭内でも同様である。
インインの最初の夫は、彼の浮気相手の女性とインインを区別しない。映画ではその夫が浮気相手にインインを紹介するとき「淫売」という。無論それは、自分と自分の浮気相手に跳ね返る言葉でもある。

また別の見方をすれば、ハロルドと最初の夫は、リーナもしくはインインと結婚する以前に既に結婚をしていたとも捉えることができる。それぞれの男性の結婚相手はハロルドの場合仕事であり、インインの最初の夫は他の多くの女性だった。「重婚」の概念は古いが、父権制がホモソーシャル体制として捉え直すことが可能となるジェンダーのセオリーでは、新しい観念となって登場する。

つまり多くの男性は、結婚する前に既に父権制の基で、それを強化する何かと結婚しているという捉え方である。インインは娘であるリーナが結婚したハロルドが、自分の最初の結婚相手と結局は同じであることを見抜いていた。故にリーナの家庭は崩壊する他はなく、その中で娘を救う道は、娘が自分を「虎」であることを自覚することとなる。ここにきて「虎」の意味がジェンダーとしての「女性」であることが明確となる。そして互いに「虎」であることで、母と娘はさらに強い絆を持つことができる。

4.まとめ

4人の女性が飲食しながら楽しげに麻雀をするクラブ、ジョイ・ラック・クラブのキーとなる数字は「2」だと思う。米国で行われるようになったジョイ・ラック・クラブも2度目のクラブであることが、それを象徴的に表している。その他にも「2」にまつわる話も多い、例えば一番重要な「2」は母と娘、でもジェンダーのセオリーでは「2」は「3」にすり替わる。「3」は誰かが他者になり得る。そしてその他者とは、おそらく「女性」自身のことなのかも知れない。

小説も映画も、以前の中国と現在の米国の比較などは一切していない。そこにあるのは、以前の中国も現在の米国も女性にとっては何も変わらぬ世界であるのだ。(映画での中国の描き方には、明らかにオリエンタリズムを感じる)
男性である僕がこのような読み方をするのは偽善的かも知れない。しかしそれを承知で「ジョイ・ラック・クラブ」の感想をまとめてみた。僕はこの小説と映画を読み切ったのかと自問してみる、無論そこには答えなどない。その問い自体が無意味であると、僕の感性は告げる。では有意な問いとは一体何かと逆に問い返す。おそらくその問いへの回答は、僕自身の男性性によって阻まれている。逆に言えば、その阻むモノを見つめることが、小説と映画の 「ジョイ・ラック・クラブ」を読むと言うことなのかも知れない。そんなことを思う。

2007/02/11

aikoのアルバム「彼女」における一つの解釈

aikoのアルバム「彼女」を何回か聞いてみて、歌詞の曖昧さにも関わらず、アルバムに含まれている曲に説得させられている自分に気が付く。それでは言葉で現してみようとすれば、それが全くうまくいかない。

このギャップはどこから来るのか、僕はアルバム「彼女」に収められている曲の何をどの部分をどういうふうに理解しているのだろう。それがこの記事の出発点である。まずアルバムタイトルの「彼女」からして曖昧である。「彼女」とは特定の彼女なのか、それとも不特定の彼女なのかがわからない。しかも、アルバムに収められている曲の中で、「彼女」を示すタイトル曲はない。唯一歌詞の中で一曲だけ「彼女」が使われている。
勇気を出して笑って問いかけた 今の事 今の彼女
すごく好きだよと照れて髪を触る 昔のあなたを見た
気付かないように 気付かれないように
「気付かれないように」と名付けられたこの曲は、おそらくアルバム「彼女」の中でもキーと思える曲でもある。何故キー曲なのか、それは他の曲が「あなた」と「あたし」の語り合いの中で為されているのに対し、この曲だけが「あなた」と「あたし」の他の第三者が登場するからである。以下、「気付かれないように」の解釈を中心にアルバム「彼女」を読み解こうと思う。

まずaikoの作詞はとても曖昧であり、それが解釈を拒んでいる。おそらく女性であれば、解釈など必要とせず、ただ肌で実感できるモノなのだろう。僕はそのこと、つまり女性であれば実感できる歌詞であること、を想像できる。であるならば、aikoの歌詞の中にあるのは男性になく女性にある「何か」と言うことになる。別に性差を強調するつもりもなく、肌で実感できる男性もいるかも知れない。でも少なくとも僕はそのように思う。

「気付かれないように」を素朴に解釈すれば、以前につきあっていた男女が出会い、一緒に街を歩きながら会話をしている情景を思い浮かぶ。「あたし」である女性は、「あなた」である男性の声を聞き泣きたくなる。しかし泣きたくなる理由が、昔の恋人関係に戻れない悲しみなのか、久しぶりに出会えたことの喜びなのかが、自分でもわからない。
声を聞いて泣きそうになるけど 何故だか解らない
もう戻れない悲しみなのか出逢えた喜びなのか
気付かないように 気付かれないように
問題は次の箇所である。「気付かないように 気付かれないように」、「気付かれないように」のみであれば、「あたし」が「あなた」を今でも好きなことを、「あなた」もしくは今の「彼女」に気付かれない気持ちが現れ理解しやすい。しかし、その前に「気付かないように」が、誰に対してなのかが曖昧となる。おそらくそれは、前文の泣きたい理由が判明しないことに掛かっている。

「気付かないように」「気付かれないように」は「あたし」もしくは「あなた」と今の「彼女」、さらには「あたし」を含む3人に対して向けられている。そして誰に向けられているのかにより、その内容も変わってくる。しかし僕はこの曲で重要なキーワードはやはり「彼女」だと思う。
ジラールのいう<欲望の三角形>、あるいは<模倣的欲望>は、男女の愛が直接的・
無媒介に生起するのではなくて、つねに間接的に触媒され、三角関係という迂路をたどることのグラフィックな顕現である。愛の対象への欲望は、同じ対象を欲望する第三の人間の存在をまって初めて生じるのであって、わたしの欲望と思えるものは、その実、他者の欲望(あるいはその模倣、反映)にほかならない。 (中略) ふたりいるところ、 かならず第三の人物がいる。2は3であって、恋愛とは三角関係なくして生じない。
(「ユリイカ」 平成8年11月号 「ご主人を拝借」  大橋洋一 から引用)
ジラールのいう<欲望の三角形>とは、ルネ・ジラールの「欲望の現象学」からとなり、内容は上記の通りである。「あたし」が「あなた」の今の「彼女」を意識していないはずはなく、逆に「彼女」の存在が、「あなた」への恋慕を増幅させる。「あたし」が「あなた」に一番聞きたいことは無論「彼女」のことである。そして、「あなた」と「彼女」との間では「あたし」が不特定の「彼女」の一人となる、そのことも「あたし」は気が付いている、しかし「気付きたくはない」のである。

「あたし」が「あなた」に向ける恋愛感情は、「彼女」を登場させることで際立たせている。そしてそれは歌詞の中に「彼女」が入っていない曲に対しても、アルバムタイトルに「彼女」を用いることで、すべての曲に反映させている。なんという才能だろうか。僕はただ恐れ入る。

もう一つ思うことは、aikoの歌詞の中で性を感じさせるのも「彼女」のみとなる。aikoが女性であるが故に、「あたし」も女性で、恋愛感情を抱く「あなた」は男性であると、暗黙のうちに了解されている。それゆえに、突然の「彼女」という言葉に僕は少し驚く。
勇気を出して笑って問いかけた 今の事 今の彼女
すごく好きだよと照れて髪を触る 昔のあなたを見た
気付かないように 気付かれないように
しかし、歌詞の中で「あたし」が女性であることは、作詞者がaikoであるため状況的に間違いないとは思うが、「あなた」が男性であることを示すモノはなにもない。「あなた」は女性かも知れない。同性愛的な状況でもこの歌詞の解釈は可能となる。いや、むしろ同性愛的な状況下の方が理解しやすくはないだろうか。例えば、「あたし」のことかもしれないが髪を触る仕草、そして指輪、久しぶりに出会った状況。なによりも「あなた」と「あたし(女性)」のどちらが主体としても通じる歌詞の曖昧さ。「あなた」が男性であるとしても問題はないが、女性と置き換えた方が僕にとってはさらに自然で、歌詞の曖昧さも少なくなるように思える。

同性愛的な解釈はアルバム「彼女」全体を通しても言えるかもしれない。歌詞の曖昧さは解釈を拒んでいるのではなく、その視点での内容であることからくる曖昧さなのかもしれない。徐々にではあるが、僕の耳にはそのような内容となって聞こえつつある。

2007/02/08

ニュースステーションに見るメディアのゴミ言論の作成について

ことの起こりはつまらぬ事件の説明からだった。
「恋敵と思いこんだ女性空軍士官を襲撃しようとしたとして、誘拐未遂罪などで逮捕された米航空宇宙局(NASA)の女性宇宙飛行士、リサ・ノワク被告(43)が6日、第1級殺人未遂罪でも訴追された。NASAも同日、ノワク被告を停職30日間と宇宙飛行士の資格停止などの処分にするなど「現役宇宙飛行士による初めての犯罪」(フロリダ州のオーランド・センチネル紙)への衝撃が全米に走った。」(サンケイWEBより引用)
つまりはどこにでもあるような男女の愛憎から来る諍いの話である。ニュースソースとなり得たのは、容疑者が女性宇宙飛行士であったこと、彼女が恋敵を叩きのめすために1500Kmもの距離を不眠不休で走り続けた、という二点につきる。

もともとアメリカには未だに宇宙飛行士に対する特別視(ヒーローとする見方)が存在するようであるが、男女間の問題に職業は関係ない。気になったのは古館氏の言動であった。つまり、リサ・ノワクの宇宙飛行時の姿と逮捕時の姿の写真を較べ、その容貌のあまりの変化に驚く発言を述べたのである。確かにテレビで映し出された双方の違いは誰も目で見ても明らかだった。

希望と期待に目を輝かせた宇宙飛行時の会見、そして訥々と語る逮捕時の姿。しかし双方の写真の選択をおこなったのはメディアであるのも間違いない。逮捕時は1500Kmもの距離を、おそらく不眠不休で走り続けたのである。しかも恋敵への憎しみを胸に抱きながら。憎しみを別としても、1500Kmを走破すること自体、肉体的な疲労は限界を超えていたに違いない。その時の様相は普段と違うのは、彼女だけでなく誰でも同じではないだろうか。

メディアはわざわざ彼女の姿で一番違う二枚の写真を手にいれた。それは視聴者が望む理解しやすい姿の違いでもある。つまりは悪意ある者の姿は外に現れる、という幻想を具体的に提示したのである。でもそれが真実だとしたとき、現代に起こる様々な詐欺行為は事前に判明することになる。人は外見だけで内心はわからない。こんな単純なことを、何故にわざわざ否定するようなことを古館氏は語るのであろうか。

この二枚の彼女の写真は古館氏の語りによるテロップで、ある意味固定化されてしまう。そして、恐ろしいことを考える人は外面にそれが現れると言うことの証拠となる。古館氏の発言は正直ゴミ発言である。でもゴミ発言は何故か即時消費されることなく伝播する。また無意味な発言が誕生した。今日のニュースステーションでそれを僕は目撃した。

まぁ、こういうゴミ発言を述べたとしても時間の無駄かも知れないが、メモとして残す。

2007/02/05

Tokyo Tower、その陰影

Tokyo Tower

東京タワーを撮りに行く。一年に数回、無性に東京タワーを間近で観たくなる。そして、その欲望が発生する季節は何故か冬に偏る。着いた時間は、既に中には入れない時間で、駐車場にも車は数台しかみえない。数組のカップルがベンチで寄り添うように座り、じっとタワーを見上げている。寒い、東京タワーは吹きさらしの高台に建っているせいか、風が強い。カメラを持つ手が凍える。

何回か通っていても、思い通りの東京タワーが撮れたことは一度もない。じっとタワーを見上げると、そこには見慣れたいつもの姿が照明を浴びてたっている。見上げ続けながら、僕は周辺を歩き回る。

僕はどうやら遠景の東京タワーの姿が嫌いと言うほどではないが好みじゃないらしい。遠見に見える東京タワーは、上空に昇ろうとする意志を現す曲線、そしてオレンジと白に輝くロマン的な姿、それらが強調されすぎる。その姿は東京タワーの本質を見失ってしまう様に思える。

東京タワーの本質? それは相対化が一般的な状況では、それこそ、それぞれの思いの中で相殺されてしまう。でも多くの映画、TVドラマ、もしくは写真などで表象されるその姿は、概ね一つに固定化しているかのようだ。そしてそれが遠景のタワーの姿である。そして、僕はその姿に抗う気持ちが強いのである。

反作用としての東京タワーという意識からの見方ではない。もともと鉄筋を組み立てて造られているのは事実である。タワーの直下で見上げると、その様が手に取るようにわかる。そんなに美しいモノではない。そう思う。

では何故、僕は東京タワーを見に行くのか。おそらくその質問が逆に僕をこの場に向かわせているのである。約一年前に東京タワーについて書いた記事がある。今回読み返してみて、イメージが変わっていないことに少し驚く。逆に言えば、前段の質問から僕は止まったままでもある。さらに今は質問が一つ増えている。何故現在において、映画・TVなどで東京タワーのイメージの固定化が行われているのだろうかと。

2007/02/03

Phllips Glassの音楽 「Einstein on the Beach」の「knee1」

フィリップス・グラスの音楽の情報量の多さに僕は耐えられなくなる。 それはひとつの拷問に近い状況に一瞬陥る。でも聴かずにはいられない。例えば「Einstein on the Beach」の 「knee1」、これはもう僕の感性では音楽と認められない。僕の思考がネット上を駆け回り、その際に様々な思考、それも数十億規模の思考が僕の中に入り込み、それらの情報を処理せずにはいられない状況、理由不明にも関わらず突然の焦燥、処理しきれず勝手に動き回る手足、制御できない思考のうねりの中で、僕はただもがき続ける。それから逃れるにはストップボタンを押せばよい。でもそれが出来ない。

思考上の言語ゲームの中で革新的な人はいる、僕はそれに理解を示し受け入れることが出来る。表象のゲームの中で衝撃的な視覚現象を創造する人もいる。でもいずれそれも慣れる。思考することと見ること、それは同じ線分上にあるのかもしれない。強度はいずれ、さらなる強さを持つ何かによって変わられると思うのだ。でも聴くこと、それに僕は慣れない。

グラスの反復は、単なる繰り返しではない。無限に繰り返されるように思えるフレーズも、一番目と二番目、さらには三番目・四番目・・・・とは違って聞こえるのである。音符という記号の組み合わせは同じだろう、でも僕の耳には違って聞こえる。突然に、ドゥルーズの
「反復とは差異」の言葉を思い出す。そうかも知れぬ。グラスの音楽の中で、僕は何かが閃く。そうなのだ、時折グラスの反復は、僕の思考の波長と同調し、そこから何かが訪れる。その何かを期待して僕は彼の音楽を聴き続ける。