2007/02/28

メモとして残す映画「墨攻」を観ての直後の感想、それは一つの脱力感


昨日映画「墨攻」を観た。とても良い映画だと思ったし、何よりも面白かった。その面白さは、アクションとしての展開の早さとその強度の強さによるところが大きいのだとは思うが、それ以上に何より魅力あふれる登場人物、そしてそれを演じる俳優の力量が大きいと思う。

映画「墨攻」のあらすじをここで書くつもりはない。ここでは未だ考えがまとまらない僕自身の気持ちを、思いに任せて綴ろうと思う。一言で言えば、この映画のメッセージ性はわかりやすい。なおかつ、この映画がアジアの3カ国(香港を含む中国、韓国、日本)の映画人たちが結集して造られている。おそらく、このメッセージ性の強さは3カ国の合作によるところが大きいのだろう。

一つの点で彼らの意見はまとまる。それは映画中において墨家の思想として何度も現れる、「非戦」と「兼愛(万民を愛す)」ということなのかもしれない。メッセージ性の強さは、では一つの解釈にまとまるかと言えば、そんなことはない。これはあくまで僕の想像なのだが、いくつかのパターンに分かれるように思える。例えば、多くの映画は一人の主人公の視点で描かれることが多い。それ故、観客はその主人公に自分を同化してしまうものだ。逆に言えば、対する人物の考えを二項対立化し否定する。

圧倒的な軍事力の巷淹中(こうえんちゅう)とそれに対する革離(かくり)、その構図は一方を米国と見なすことは可能だろう。さらに欲望の権化となる梁国王は言わずともながである。その中で革離を誰におくか、この映画が中国で評判を呼んだのは、とてもよくわかる、云々。


別の見方をすれば、巷淹中は軍隊の指揮官がそうであるように、常に死者のことを語る。死者(戦死者)を悼み、それを力にして戦いへの士気を持続させる。それに対し、革離は生者のことを語る。人生には生きる価値があり、それは奴隷状態ではない。そして戦いでの死は、ある意味無意味なのである。これらのメッセージで、日本における憲法論議を想起させることも可能だろう、云々。

「非戦」と「兼愛」をキーワードにした様々な解釈は、僕には脱力感しか与えない。でもそれらがこの映画を観るものが簡単に得ることができるメッセージであるのも事実なのである。「万人を愛する」墨家の思想にたいし、革離に助けられた男は彼に向かって告げる、「誰を愛するのか間違っていないか」。顔のない万人を愛することの不可能性を告げるのである。それにより革離は顔のわかる相手、つまり彼が愛する女性を助けるために再び梁城に戻る。その箇所は、唯一といっても良いほど、この映画で僕にとって救いとなるメッセージである。

しかし、結果的に革離が愛する女性は死ぬ。それも革離の戦術の結果によって。思い起こしてみれば、この戦いで登場人物の全員の希望は絶たれる。梁国王の希望の息子は殉死し、巷淹中は敗北を味わい、革離は救いたいと願った女性を失い、戦士たちは戦いの意味を失う。そのほか、顔も見せず言葉も発せずに、実に多くの人員がこの戦いで死ぬ。

それらもこの映画でのメッセージの一つなのだとは思うが、ただ救いがない。僕にとって、革離の愛する女性(逸悦:いつえつ)の死ほど、この映画の象徴性を出しているシーンはない。逸悦は梁王に謀反人の罰で声帯が失われ地下牢に投じられる。水攻めにより梁城奪還を果たした革離は逸悦を探し回る。どんどんと水が地下牢に浸水し彼女は溺れ死ぬ。

逸悦が溺れるのは二度ある。一度目は偵察の時に敵に見つかり逃れるために川に飛び込む。その際彼女は革離に、自分は泳げないことの伏線を与えている。その時も彼女は溺れるが革離が助ける。水没した地下牢から革離は逸悦を見つけるが、今度は助けることが出来なかった。しかもそれまで、革離は何度も地下牢の上を通り過ぎる。彼の智力を持ってすれば、逸悦が造った靴を見つけたときに、即時に地下牢にいることがわかるはずである。しかし彼は地下牢の上を何回も走り回るだけにすぎなかった。

この無意味な程の革離の「走り」は何を意味するのか。愛する者が誰であるかを識るが、求めるものは決して得ることができず徒労に終わる。そして愛するものを殺すのは自分に他ならない。しかし、その様なメッセージを誰が受け入れることができるというのだろう。戦によって、人は何も得ることが出来ないし、得ることを許しもされない。

脱力するほどの結論とはいえ、革離の「走り」が意味する物は大きい。映画の最後に革離のその後が簡単に語られる。孤児を連れて諸国に平和を説いた、その後日談にたいし、「孤児」という象徴性はともかくも、脱力感故に、全体的に虚しさを感じたのは事実である。

ひとつだけ、僕にとって希望をもたらせることがあるとすれば、それは全員が映画の登場人物になることにある。無数の名もなき声もなき人たちとして描かれるのではなく、主要登場人物のように自分の生を生きる。そして相手もその様な人物として扱う。それが現実態だとしても、なおさらに人間の複数性のなかでの個人の在り方を考えてしまうのである。これも脱力するほどの結論とはいえ、映画「墨攻」を見終わった直後に一番強く感じたのはそのことに他ならない。

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