2006/01/28

自分の言語の中で外国人になること

Flickrをプロに切り替えた。Flickrは無料で使う場合に幾つかの制限があるのは知っていたが、どうも写真の管理が出来るのは200枚が限度のようだ。そこまでは知らなかった。勿論200枚以上をFlickrに登録しても削除されることはないのだが、それ以上は見えなくなった。年間使用料が安いこともあり、Flickrを続けるつもりもあったのでこの際と思いプロに切り替えた。

Flickrは英文サイトで世界中の人が利用している。だからそこで使われている言語は英語が中心となる。最初写真一枚毎に英語で短いコメントを綴ろうかなと思ったが、馴れない英語だと自分の思いが正確に伝えられない様に感じ、結局コメントなしで写真を掲載していたが、最近になって日本語でコメントを書き記すようになった。

日本語で書くと言うことは、写真の宛先が日本語を理解出来る人だと受け取られてしまう可能性が高いと思う。それは写真が持つ伝達の幅を自ずから限定してしまうかもしれないと躊躇したが、やはりコメントを付与したいという気持ちには勝てなかったのだ。

僕が撮る写真は素人そのものだと思う、それでも一つだけ心がけていることがある。それは「日本人以外」の気持ちと立場になって様々なものを観るということだ。簡単に言えば外国人観光客の視点に近い。その見方を持てば僕の周辺には珍しいものばかりである。美しい物を、意識的に、技術的に駆使して、僕は写真で追い求めるようなことはしない。ただ身近にある多くの何気ない面白さを写し取りたいと願っている。

外国語を話している時でなくても、自分の言語の中で外国人になること。方言やパトワさえ用いずに、一つの同じ言語の中でバイリンガル、マルチリンガルになること
(ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「千のプラトー」から引用)
バイリンガルであるということは、日本で最も多いバイリンガル集団が在日の方であることが示すように、バイリンガルにならざるを得ない切実な状況がそこにあると僕は思う。モロッコでは、正則アラビア、口語アラビア、ベルベル語、フランス語、の4つが現実的にあると聞く。これら4つの言語を並べてみるだけでもモロッコの歴史が見えてくる。

日本語においても最近クレオールタミル語説が登場し批判も含め色々と話題を提供している。一つの言語が他の言語と交わらずに成立することなど想像することが出来ない。全ての言語は雑種性があるのだと思う。つまりは一つの言語を使うときにでも、その中に様々な言語が在るということなのだろう。
ドゥルーズとガタリが語る「自分の言語の中で外国人になること」とは、僕にとっては、言語を含めこの雑種性を感受する力を持つことだと受け取っている。

「自分の言語の中で外国人になること」を意識したのは、僕が文章を書けなくなってからだった、そして写真を撮る際に外国人の立場でと思い始めたのも丁度そのころだった。だからつい最近の話だ。一見思いもしないこの二つは僕の中で繋がっている。

2006/01/27

最近の読書遍歴メモ

僕はこの数ヶ月の間山本七平氏の「現人神の創作者たち」に掛かりきりだった。4回読了を試みて躓いた。5回目で最後まで読み通すことができたが、本当に読めたかは疑わしい限りだ。ずいぶんと前に読んだ記憶はあるが、今を思うと何を読んでいたことかわからない。というのも読んでいる時に、以前の記憶がわずかな断片としてしか蘇ってこなかったからだ。まるで初めて読むような、そんな感覚が伴って僕は読み続けた。

「現人神の創作者たち」を読むそもそもの動機は、竹田青嗣氏の「苦しみの由来」を読み、その文体と内容に心が揺さぶられ感想文を書きたいと思ったからだった。「苦しみの由来」は在日作家金鶴泳氏の自死に際しての追悼文という形をとってはいるものの、それに止まらず人が生きるという一つの側面を的確に捉えているように僕には思えた。評論集「現代批評の遠近法」の冒頭に収められている、ページ数にして10数ページの小編ではあるが、僕はなかなか感想文が書けなかった。

関連する著作も少なからず読んだ。例えば、同じ評論集の中に収められている「沈みゆくものの光景」、竹田青嗣氏の処女評論集「在日という根拠」、金鶴泳作品集の巻末に載っている後書き、勿論金鶴泳の著作も読んだ。
この時期の竹田青嗣氏の著作には色濃くサルトルの実存主義が現れているように思えるが、それだけでもなく、その後に続く竹田氏の思想の流れがわかるように思えた。つまりは「苦しみの由来」を読めば、現在著書「人間的自由の条件」に辿り着いた理由がわかる、そういう面で金鶴泳著作と「苦しみの由来」は竹田氏の明確な出発点だと僕には思えるのだった。

感想文を書けない理由の一つは僕にとって明確である。日本人・日本社会と対抗するために成り立つ在日朝鮮人もしくは在日韓国人と彼等の在日社会、「沈みゆくものの光景」には「日本人化」という言葉が僕には目立ったが、僕にはそれが何を示唆しているのかが不明であった。ここで竹田青嗣氏のテクストを引用するのは適切ではないと思う。その言葉が在る箇所が竹田氏が伝えたいポイントではないと思うからだ。それにこのブログ記事は竹田氏の「苦しみの由来」感想文ではなく、最近の読書遍歴を辿る事が目的で書いている。ここで言いたいことは僕自身が「日本人」は何かという事を知らないのが大きかったということなのである。

僕は学生の頃茶道を習っていた。3年間ほどの期間で、熱心な生徒ではなかったが、それでも時折の茶会では表千家の男手前で客をもてなすこともあった。茶道を習う動機は至極単純であった。その頃友人たちの間で英語を含めた外国語会話の習得を始めるのが多かったので、僕はそれに反発して茶道を始めたという訳だった。外国語と茶道はある意味繋がっている。例えば西洋文化に対応する意味で日本文化が成り立っているように、対応する外の国の存在がなければ自ら成り立つことが出来ない、と僕は思う。実を言えば「西洋文化」「日本文化」という名詞を使ったが、それらが何を意味するのかは僕にはわからない。「日本文化」が「日本」(この意味もよくわからない)で発生した「文化」を指し、歴史の変遷において様々な特徴を持った文化が華開いた、等と教科書には書かれることだろうが、例えば「桃山文化」は時間軸から見た区分として一般には1573年から1600年までを言うが、その時間軸上に他の地方にも全く違った文化が華開いていたと安易に推測が出来るし、作風を主の場合でも現代において利休好みの陶器を造ったとしたらその作品は桃山文化の作品とも言わない。文化とは可算名詞ではないと思う、だからこそ総和としての「日本文化」などはあり得ないとも思う。

つまりは「日本文化」とは日本という近代国家成立において、国語の成立と同様の意味合いで造り出された幻想とも言えるかもしれない。日本文化はそれと対になる欧米各国の文化があって成り立つものであるから、別の見方をすれば西洋に従属した視点を持つとも言える。それはあたかも在日コリアンのオールドカマーが在日の主張を強く言う事で逆に日本社会が濃く浮かび上がるような構図に近い。

歴史が「連続」であるか「非連続」であるかの問いも似たような感じがする。「連続」としたい欲望は誰がどこからどういう理由で要請されるのであろうか。それは「非連続」も同様であろう。僕等は維新以降に整備した学校の授業において国が認めた日本史を習う事により、有史以降面々と続く日本の歴史が擦り込まれる。でもつい百数十年前の江戸時代に書かれた書物を原著で読むことは難しい。それらは外国文学と同様に翻訳が必要なのである。では歴史は「非連続」であると思うかと自分に問えば是との回答を即時出ることもない。矛盾するかもしれないが僕の中では「連続」でもあり「非連続」でもあるのだ。

上記の茶道からの文章は現代思想の潮流の中で幾度も聞いた話を大雑把に書いているにすぎない。僕自身が「日本」を模索しようと思ったとき、用意されたテクストはポストモダニズムの流れをくむものばかりだった。それらは年月と共に僕らの生活に強く入り込んでいる。僕らは時代の思想の中に取り込まれその中で生きている。山本七平が忘れられていく過程とその流れは奇しくも一致している、と僕は思う。

先だって渋谷の巨大書店に山本七平の書籍を求めに行ったとき驚いたことに日本思想(これも訳がわからないジャンルだと思う)の棚には彼の書籍がおいてなかった。店員に聞いたところ通常の作家と同じ扱いだという。さらに彼の代表作とも言える「現人神の創作者たち」は既に絶版となっていて、amazonの古書店では倍以上の高値で取引されているのである。

日本を模索する案内図として僕は山本七平を選んだのは、その歴史観が僕の感覚に合っていたと思えることが大きい。彼は歴史を基本的に「連続」と捉えていると思う。しかし意図的に歴史は消される。近年では維新と敗戦の二度にわたり歴史は消されているという。山本七平は「現人神の創作者たち」序文でベルツの日記に書かれた日本人の言葉(我々には歴史がありません)を引用し次のように書いている。

この抹殺は無知を生ずる。そして無知は呪縛を決定的にするだけで、これから脱却する道ではない。明治は徳川時代を消した。と同時に明治を招来した徳川時代の尊皇思想を形成の歴史も消した。そのため、尊皇思想は思想として精算されず、正体不明の呪縛として残った。そして戦後は、戦前の日本人が「尊皇思想史」を正確に把握していれば、その呪縛から脱して自らを自由な位置に置き得たのに、それができなかったことが悲劇であったという把握はなく、さらにこれをも「恥ずべき歴史」として消し、「一握りの軍国主義者が云々」といった「まやかし」を押し通したことは逆に、裏返しの呪縛を決定的にしてしまった。
(「現人神の創作者たち」から引用)

山本七平の歴史観は現在僕らが考え一般的に流通している者とは多少違うと思う。歴史とは相対的でありかつ政治的な選択の問題でもある。また維新から敗戦までの日本の歴史は、その歴史観が西洋に従属されている事の暴露の元、従来の国民的歴史からの脱却が強まっているし、統計データ等の数量化によるより客観的な手法が活用されることが多くなっている。その潮流の中で山本七平の「現人神の創作者たち」における歴史観は「呪縛」という言葉が多く使われる様に、歴史書・思索書というより限りなく文学に近いと受け取られているのかもしれない。それであったとしても、僕にとっては無視できない視点であることは間違いなく、それに読めば腑に落ちることも多い。

「現人神の創作者たち」を読むにあたり、平行して関連する彼の著作も読んだ。「ある異常体験者の偏見」、「洪思翊中将の処刑」、「日本的革命の哲学」などである。イザヤベンダサン名義の著作「日本教徒」と「日本人とユダヤ人」の再読もした。ネットで「現人神の創作者たち」の感想の検索も行ったが、これに関してはまったく成果がなかった。「松岡正剛の千夜千冊」で紹介してはいるが内容は単なるあらすじでしかない。確かにこの本は読みづらいと思う。原文のままの引用が多く、それを読むだけでも根気が必要となる。特に浅見絅斎の「靖献遺言」、安積澹泊を編集長とする「大日本史」、栗山潜鋒の「保建大記」の引用が多かった。「靖献遺言」については近藤啓吾氏の「靖献遺言講義」が参考なった。

なぜ山本氏は原文の引用を多くしたのであろうか。彼にとっては必要だったとしか言いようがないが、でも何故だろうという疑問もある。山本氏が選択した文体が理由の一つとして挙げられるとは思うが、僕がこの本を読んで思うのは、山本氏自身が「現人神」探索過程と思考の道程をつぶさに現すことが必要だと彼が考えたということだ。過程を記述することで当然に原文の引用も多くなる。さらには読者が追体験をすることで内容だけでなく山本氏が「現人神の創作者たち」を書くに至った動機も理解してもらうことにも繋がってくる。ではその先にはいったい何が在るのだろう。

竹田青嗣「苦しみの由来」の感想文を書きたいと思ったのが出発点だったが、「現人神の創作者たち」は参照レベルを超えていた。今の僕に「現人神の創作者たち」の感想を書けるかと問えば、難しいと答えざるを得ない。今僕は6回目の再読を目論んでいる。6回目は5回目より深く読めるのかもしれない、いやそう思うこと自体が誤りなのだろう。

「苦しみの由来」について話を立ち戻る。僕は竹田青嗣氏で初めて在日作家金鶴泳を知った。その姿はあくまでも竹田氏が翻訳した金鶴泳であったし、僕はそれに感銘を受けた。逆に言えば、僕は強く竹田氏の言葉に囚われ続けているのも事実だと思う。感想を書くというのは僕にとってそこからの脱却を意味することに近い。一端離れなくては感想を書くことは出来ない、と僕は思う。その要請が山本七平氏の著作を再読することになったが、それはさらなる迷路に繋がっていたようだ。いましばらく僕の中でこの2作品を使っての遊びは続くことだろう。

2006/01/21

雪の朝

用事があり雪の中を出かけた。今朝から降り始めた雪は夜半まで続くらしい。積雪は15cmくらいになるという。薄暗い灰色の空から真っ白な雪が降りてくる。それにしても何故雪は白いのだろう。そんなことを考える。白く見えるだけなのかもしれないが、仮に雪色が薄いピンクだったら、もしくは透き通ったブルーだったら、僕らの思考はどう変わっていたのだろう。何の意味を持たぬ話ではあるが、ピンクに染まった雪景色を想像し少し笑う。

あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまえがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたしのすべてのさいはひをかけてねがふ
(宮沢賢治「永訣の朝」から抜粋)

宮沢賢治は、愛する妹であり自分を深く理解してくれた妹・トシの末期の願いを叶えるため、雪の中に飛び出す。そしてトシが「雪を取ってきて」と賢治に頼んだことは、本当は残される自分の為だったと気づく。その時、トシへの最後の一腕となる、薄暗い空から降る雪は、天の恵みに賢治には思えたことだろう。

野山に降り積もる雪は天然の貯水池となり春に豊富な水を提供する。また雪があってこそ生業を得ている方も多いことだろう。その雪が今冬人々に多くの被害をもたらせた。天の采配は人智の及ぶところではないが、東京に降る雪に北国の生活を思う。

広島原爆投下の後に黒い雨が降った。その時冬であれば黒い雪になったのであろうか、それだけはあってほしくはない雪の色だと思う。

2006/01/19

映画「笑の大学」における一つの序説としての感想

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三谷幸喜の「笑の大学」をレンタルで見た。この映画は公開前から期待していたが、機会を逸してしまい見ることが出来なかった。一度機会を逃すと、気持ちも冷めるものだ。
随分前にビデオがレンタル店に並んでいたことも知っていたが、手に取ることさえしなかった。見たい洋画があり、 それを借りるついでに一緒に何気なく借りただけなのである。でもそれは正解だった。とても面白かった。
展開も早く、 セリフ回しも巧みで主要登場人物が二人だけで、しかも殆どが閉じられた部屋の中が舞台だというのに、飽きることなく鑑賞することが出来た。

監督・脚本・演出の良さもさることながら、二人の演技が良い。 特に役所広司の演技は素晴らしかった。

「笑の大学」で気になる場面があった。それは最後の場面だ。検閲官・向坂睦男(役所広司) が軍隊に入隊する脚本家椿一(稲垣吾郎)を励ました後、何故、再び検閲室からでてさらに励ましたのだろう。 部屋の中の会話で十分でなかったのか、でも少なくとも検閲官・向坂睦男にとっては十分でなかったのだろう。
抑えがたい衝動が部屋から飛び出させ、そして検閲官の立場では言ってはいけない言葉を語る。その時の向坂の心情はどういうものだったのだろう。 映画を観ている最中は、その時の向坂の行動は自然で僕は納得した。
この素朴な問いかけは映画を見終わった後に徐々に沸き上がってきたのである。
何故、どこに僕は納得したのだろう。 その点が今回の感想の出発点だった。 この映画の設定が戦中であることとか、椿一の仕事が一枚の赤紙によって中断されることとか、 それらのことは僕にとっては大きな意味を持たない。大事なことは「笑の大学」は主要登場人物が二人であるということ、 そしてこの二人の立場と目的は対立しているということであり、その状況を創り出すために戦中という時代設定が必要だったと思うのである。

映画冒頭は向坂が検閲官として数名の脚本家と対応してい場面から始まる。向坂の仕事に対する姿勢が出ていた。そこでは検閲台本の作者たちは、初めから検閲官・向坂と敵対する者として登場する。そして向坂の目的は自分とは相容れないとの立場を崩すことがない。それは互いに了解し合う可能性を否定するということに繋がる。
また向坂にとって意に合わない舞台を不能にすることは、台本に大きく干渉することと同義であった。しかし椿一の場合、台本への干渉は致命的ではなく、彼の目的は上質の喜劇を上演するということであった。それが二人の行動の奇妙な一致を見ることになる。

向坂は坊主のカツラをかぶってまで台本に関わりを持った理由は、向坂の仕事と矛盾する行動ではなかった、と僕は思う。彼は職務に忠実であったが故に、業務範囲を超えて、あくまで台本に干渉し続けたのである。ただ、 この二人の奇妙な共同作業による新たな脚本の創造は、互いの立場を超えた人としての了解へと繋がっていくことになる。それは向坂にとって椿の世界観、笑いの世界、を知り了解することになっていく。

ただ椿自身は幾分向坂のそうした対応を過大に評価してしまうことになる。それが自分の思いを吐露する場面になるのであるが、その結果向坂自身の職務、それは相手を了解する以上の重みを持ったもの、を喚起させてしまうのである。
向坂の最後通告である 「笑いの要素を全てなくすこと」は、彼自身が椿の世界観を了解しているからこそ出る、椿にとって致命的な要求であると僕は思う。

「やってみなければわからない、僕は自分を信じている」と言い残した椿が、翌日に向坂に渡した台本は今まで浅草で学んだ笑いの全てが入った完璧な脚本だった。向坂はもう自分の笑いを抑えることが出来ない。
しかし椿は赤紙が来たことで台本の上演をあきらめていた。逆に、向坂の中に育った脚本への思いは捨て去ることが出来なかった。
上記の流れの中で僕が向坂の行動に自然な気持ちを持ったのは、語ることが相手にきちんと伝達され了解しあう事で、互いの世界の中に構築された共有する思い、それを自分の中にあることを認識し、その事を椿に伝えたいという強い気持ちを向坂が持ったのが理解できたからだった。

椿を励ます向坂は、前日に「自分を信じている」 といった椿の気持ちに近かったと思う。部屋の中での語りだけでは、向坂の語ることが椿には伝わらなかった。そう感じたのだろう。 伝わるというのは、単なる言葉の伝達ではない。逆に言葉に頼ると、その人が本当に伝えたいことは伝わらないとさえ思う。 向坂が部屋から飛び出したのは、その現れだと僕は思う。
そしてその行為に椿は自分の思いが向坂にしっかりと伝わったことを知るのである。
人が人を理解することの一つの可能性、それも対立する間柄であろうが了解しあえる一つの可能性をこの映画は提示してくれたと僕には思えたのだった。

実を言えば、 この映画を観て僕は別の一つの映画を思い出していた。それは「ロスト・イン・トランスレーション」という映画だった。
タイトルがそのまま主題となっているこの映画では、主人公についた通訳の拙い翻訳が象徴的に登場する。異言語空間でのコミュニケーション・モデルの不在と、そこからくる孤独感の中で、人はやはり人を求めるのである。

ロストしたのは拙い翻訳のことではない。それは語ることを相手に伝達する気持ちの喪失であり、それを異言語空間の中で象徴的に表しているのだと僕は思う。
少なくとも、向坂と椿は「ロスト・イン・トランスレーション」 の登場人物と同様の孤独感もしくはその麻痺を味わってはいない。椿にとっては、 検閲室よりは劇団のなかでこそ孤独感を味わったことだろう。それは一度も笑ったことのない向坂にとっても同じだった。
それは同一言語だからという理由では勿論ないと思う。

2006/01/16

リンドバーグの墓

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チャールズ・リンドバーグの墓がハワイ諸島のマウイ島にあると聞いた。ブーゲンビリアの生け垣に囲まれた崖っぷちに建つ小さな教会。その裏の日当たりのいい、太平洋が見渡せる素晴らしい庭。そして彼の墓碑に彫られた言葉。
「もしも、私の背中に羽が生える、そんな朝が来たら、光の中を海へ向かって飛んで行って、海の一部として、そこで静かに眠りたい」
聖書の詩編の一節からとられた言葉は、キリスト教徒にとって最大限の讃辞だとも聞いたことがある。上記の言葉は聖書から抜き取った言葉でなく意訳であるが、こちらの方がリンドバーグの墓碑らしく僕は好きだ。
病気治療の為に米国本土の病院に入院していた彼は、いよいよ最期の時を迎えるに際し、家に戻りたいと家族に告げた。リンドバーグの家は避暑地を含め幾つかあった。でも彼にとってホームとはマウイの家のことであった。マウイに帰宅する旅は、紛れもなく瀕死の彼にとって、最期の冒険飛行旅行であった。彼の妻である作家のアンは後にこう語っている。
「マウイへの最期の旅は、彼の単独大西洋横断飛行といくつもの共通点があるけど、その中で一番は、どちらも生きて到達できない可能性があったということ」
マウイに着いた彼は自分の死について家族と話し合う。具体的には墓の場所から、葬儀の内容、細かな箇所では墓の深さまで。概ねはリンドバーグ自身が一つ一つを確認し決めていったらしい。マウイの教会には彼の墓の隣にアンの場所も用意されていた。

1974年8月26日にリンドバーグは亡くなる。亡くなった時家族は、妻であるアンとリンドバーグの二人だけにして病室から離れた。そこでアンが何を思い語ったのかは僕には計り知れない。アンはリンドバーグが亡くなってから年々にオアフを訪ねる事が少なくなり、後に全く行かなくなった。リンドバーグは一人、オアフの教会に眠っている。

アンとリンドバーグは、その長い結婚生活の中で様々な出来事に遭った。息子の誘拐、ドイツでの研究とゲーリングから受けた勲章、米国が欧州戦争に参加することへの否定とそこからくる彼への非難。またリンドバーグの浮気も幾つかの伝記本で示唆している。アンもそれに気が付いていたかもしれない。最近ではドイツでリンドバーグの隠し子騒動が起きている。アンもサンテグジュペリとの恋の噂もある。

それらは二人にとって重たい出来事だったと思うが、二人を離れさせるほどの力を持っていなかった。アンは、リンドバーグは、お互いを必要としていた。それ以外に僕は言葉を持たない。

僕がリンドバーグを思い感じるのは、彼の人生を通じて知る、人が生きる重みである。多かれ少なかれ、僕等もリンドバーグと同じ様に様々な出来事の中で人生を歩んでいる、と僕は思う。一度はリンドバーグの墓を訪ねたいと思い続けているが、未だ機会を得ていない。僕は東京の住宅地で日々の暮らしを行っている。

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上記写真は、マウイのリンドバーグの家と彼の墓
全てサイトhttp://www.charleslindbergh.com/から

2006/01/15

映画「3丁目の夕日」を観て思うこと

al3.jpg映画「3丁目の夕日」を観た。見終わった後がとても気持ちの良く、爽やかな印象を持った。とても良い映画だと思う。この映画が日本アカデミーの全部門で優秀賞を受賞した理由も納得が出来る。DVDがでたら購入して、何回も観たいという気持ちになる。

物語は、自動車修理を営む鈴木一家とお向かいに住む小説家の茶川竜之介の双方を中心に展開する。幾つかの物語が自然な流れの中で展開していく脚本が素晴らしい。僕が一番気に入ったシーンは、吉岡秀雄演じる茶川竜之介が、小雪演じるスナックのママである石崎ヒロミに結婚を申し込む場面だ。

茶川が指輪をママにあげたいと思うが、お金を借りても購入出来たのが指輪のケースだけだった。茶川にとってスナックのママはマドンナ的な存在で、自分の気持ちの中で少なからず美化されている。当のママは、様々な辛苦の中でやっと念願の店を構える事が出来た女性で、最初は茶川のことを人の良い男としか捉えていない。でも無理矢理押しつけた親友の子供と接している茶川の姿を見て、その人柄に心を許していくのである。
茶川は指輪が入っていないケースをママに見せ、「いつかきっと指輪を買いますから」、と言う。その姿をみたママは、空のケースから、実際にはない指輪をあたかもあるように手にはめてと茶川に言うのである。茶川の気持ちを受け取めたママは、翌朝父の借金の為に身売りし茶川の前から姿を消す。

映画を見終わった後に徐々に広がっていく様々な思い。感動した、素晴らしい映画だと言うのはたやすい。実際に僕はそうだった。でも自分の中に沸き上がるこの思いは何処から来るのか。

この映画には制作者側からとってみると二つのトリックがあると僕は思う。1つは昭和33年という時代設定。もう1つは映画のキャッチコピー、「携帯もパソコンもテレビもなかったのにどうしてあんなに楽しかったんだろう」。
この二つの設定とコピーで、観客はあたかも実際の昭和33年が映画で描かれていると錯覚するのだと思う。でも、これは想像でしかないが、実際は生活の質において、あの頃と現在ではそれほど違いはないように思える。例えば映画のシーンにもあったが、テレビに流れる力道山の勇姿に応援する街の人達、現在ではコンサートとか様々な姿に変えて残っていると思うのだ。勿論一つの点を除いてだが。

携帯とパソコンを引き合いに出し象徴としているのは、物と心の二項対立により、物より心の豊かさを浮かび上がらせようとしているのだろうか。だとすれば、この映画と同様にいかにも現代的であると僕は思う。確かに当時とくらべ選択の幅は広がった。でも昭和33年当時と比べ、選択の自由とそれに伴う責任も増したのだろうか。それも生活の中で個々人にとって変わらないように思えてくる。

この映画は東京を舞台としたファンタジーであるというのも的はずれだろう。映画なのだからそれは当たり前の話だ。映画として確かに言えることは、この映画は現代の人達に向けて描かれているということだろう。昭和33年の生活を知りたければ、小津安二郎の映画を観ればよい。そして小津の映画とこの映画の違いを感じればよいと思うのだ。

そうこの映画を観て感じるものは、失ったものへの懐古とか、亡くしたものへの後悔では決してなく、僕等が今を生きるリアルな感情に近い。逆に言えば、「3丁目の夕日」に描かれている人達は、現代に住む僕等の一つの姿でもある、と僕は思う。そうでなければ見終わった時に感じた自分の心情を理解することが出来ない。

だとすれば、この映画のメッセージとは一体何だろう。この際、公式サイトに書いてある言葉を一切読まずに、僕の感想を書きたいと思う。

昭和33年が時代設定になった理由は一つしかない。それはその年の12月に完成した東京タワーの存在である。東京タワーがこの映画の本当の意味での主人公だ、と僕は思う。建築中の姿は、映画のもう一つの主題である明日を信じることに繋がっている。映画の中で鈴木一郎は誇らしげに語る、「完成したら世界一の高さになる」と、それは鈴木自身の将来の夢を語ることでもある。

東京タワーは、昭和30年の経済白書にて書かれた「もはや戦後は終わった」の象徴的建築物であると僕は思う。またそれだけでなく、敗戦と同時に得た民主主義と経済的な豊かさの象徴でもあった。それが電波塔であることも二重の意味で象徴的だと僕は思う。

戦前には、いくら技術があったとしても、間違いなく東京タワーは造られなかった。それは軍事的にみても、政治的にみても、なにより皇居を遙か高見から見下ろす建造物を造る事自体難しかったと僕は思うのだ。そういう意味で建築物は時代とその思想を表す。戦後に皇居・軍事・政治への畏れがなくなった結果、逆に人はそれに変わる何かを求めたのではないだろうか。そしてそれが東京タワーであり、メディアの為の電波塔だった。

米国フィラデルフィアの市庁舎ビルのドームに建つ、ウィリアム・ベン立像の高さを超える建物は近くに建てない不文律がいまだに守られている。コペンハーゲンでも市庁舎の尖塔を超える高さの建造物を街中には建てることはしない。ロンドンの町並みはあのビックベンの高さが長い間規定していたとも思う。
街に住む人々が、その街の誇り、もしくは畏れの象徴としての建造物を持ち、それを大事にした。それらは歴史の中で勝ち得た自由と平等の象徴、もしくは建国の象徴だった。だからその建築物を遮る高さのビルを近くに建てることはなかった。街に住む殆どの人々が仰ぎ見ることが出来なくてはいけなかった。その中で彼等は、お互いが共有する「何か」を育てていった、と僕は思う。今の言葉で言えば「公共性」に近いかもしれない。

「3丁目の夕日」では殆どの登場人物たちは東京タワーを仰ぎ見る。彼等にとってそれは、戦後の復興の象徴だったのかもしれない。でもそれ以上に、建築中の、もしくは建築後の東京タワーの姿を、多くの人が仰ぎ見る事により、互いに共有する「何か」を感じることが出来たのではないかと思う。その「何か」が現在の日本に必要だと、僕はこの映画が語っているように思えてくるのである。

僕が子供の時、近くの国道から大きく正面に富士山を眺めることが出来た。今では高速道路が国道の上を走り、その時の眺望は失われてしまった。富士山は少し前までは東京の何処からでも眺めることが出来た。富士山を仰ぎ見るとき、それがその形を誰もが知っていようとも、「あっ富士山だ」というかけ声と共に心によぎるもの、そして飽きずに見続ける気持ち、それらは民族として日本人の歴史の中で育て上げられてきたものだ。そしてその気持ちが公共性を考える原点に近いのではないかと僕は思うのである。

映画が昭和33年に戻らなくてはいけなかったのは、その時点に戻らなければ得る事が出来ない風景がそこにあるからだと思う。それは何処からでも仰ぎ見ることが出来る、東京タワーと富士山、そして家族の象徴でもある「夕日」なのだと僕は思う。それが映画の最後に3つとも登場する。

「3丁目の夕日」では公共の場と個人とが渾然一体としていて、明確な区別がない。テレビを購入した鈴木家では、街の人達が当たり前のように集まり、居間で力道山を応援する。また従業員を追いかけて鈴木則文は茶川の家に勝手に入り込む。
この映画で何回も語る言葉は、茶川のいう「お前と俺とはなんの縁もゆかりも無いんだからな」である。このセリフは「3丁目の夕日」のメッセージをとてもよく表していると僕は思う。「縁もゆかりもない」人と同じ家に住む。それが社会なのだとこの映画は語っているかのようだ。

最近ゲーム「キングダム・ハーツ2」で遊んだ。ゲームの中では「仲間」「友達」という言葉が本当に多く出て少々うんざりした。勿論、友達も仲間も恋人も家族も大事なのは当たり前だと思う。でもそれらは別の一面でみれば、仲間から、もしくは友達から除外された人がうまれるのも事実だと思うのだ。社会、もしくは公共性を考えるとき、「仲間」「友達」の発想では難しいと僕は思う。「縁もゆかりもない」人との生活を考えること、それが大事なことではないかと思うのである。そしてその中心に、いつも仰ぎ見ることが出来る象徴としての「東京タワー」が建っているのである。

もしかして僕は新たな「東京タワー」を求めているのかもしれない。それは一つのイメージで全体を纏めたいという心根からでは決してない。個々のユニークな考えと行動を、お互いに尊重し守ることは市民社会の原則だと思う。ただその根っこにある何かは、共有出来ると僕は思うのである。そしてその「何か」を知ること、それが新たな「東京タワー」の礎になるのでないかと愚考するのである。

僕はこの映画の何に感動したのだろうか、それは「縁もゆかりもない」人々と共有できる「何か」を、それはこの映画に登場しなかった様々な人達、日本人以外の日本に住む人達を含めて、得られるのではないかと感じたからだと思う。

無題という名のお詫びと言い訳

ここ数ヶ月の間、僕は文章が書けなかった。「読む気」「語る気」「見る気」「働く気」その他の「気」はあるのだが、どういう訳か「書く気」だけが沸いてこなかった。色々な方から心配をされ、遠慮がちにさりげなく多くのアドバイスもいただいた。この場を借りて僕の感謝の言葉を伝えることができればと思う。

ここまで書いたこの表現、とても嫌いだ。素直に書けばいい。
本当にありがとうございます。拙いブログですが、それでも気にしていてくれる方がいてくれるのがとても嬉しいです、と。でも白々しさがこの言葉に宿る。でも感謝しているのは事実。ただ言葉が出てこない。

何故書けなくなったのか、その理由は未だにわからない。いや、それは多分嘘だ、僕は書けなくなった理由を知っている。心が少し風邪をひいた?それもあると思う。自分の書くブログに何の意味も見いだせなくなった?確かにそれもある。人のことを気にし始めてきた?その通りだ。隠れてしまおうと思い始めた?いつも思っている。

こんなふうに自問自答することで、本当は知っている答えに辿り着けることは出来ない、それも知っている。矛盾する言葉の連続かもしれない。でも感覚的にこの表現が合っていると僕は信じている。

一度書くことを覚えた人は、歌うことを覚えた人と同様に、何かを書き続ける。この数ヶ月間、僕は声を奪われた人魚姫の気持ちを味わった。語ることは、書くことは沢山あった。僕の中では様々な思いが、収集され整理整頓され、編集された文章として、あとは自分の手がペンかキーボードを打てば良いだけだったのだ。でも一度整理され完結された僕の言葉は、表に出てくれなかった。
ペンを持つとき、キーボードに向かうとき、僕はただ呆然として立ちすくむ。そして数行書いて、デリートキーを押し続ける。

映画「小説家を探して」の中で、小説家役のショーンコネリーは主人公の少年に向かって言う。「頭で考えるな、手は頭より賢い」と。僕はその意見が好きだ。まずは何も考えずに??、手の赴くままに書き続けよう。頭は編集のためにとっておく、無慈悲な文章の削除判定係として。そう思った時期もあったが難しかった。

何の結論も出てはいない。ただこの文章は、事前の予告なしに、つまりは前から書こうと思って書いているわけではない。つまり僕にとって予測不能の文章でもある。だからここまで書けるのかもしれない。こういう仕方で以前はよく書いた。しばらくこの仕方で書こうと思う、その結果、駄文がますますひどくなるかもしれない。でもまぁそれが実態であるから致し方ない。

皆さんからいただいた暖かいコメントへの返事、遅くなって本当にすみませんでした。

あっ、今のは素直に書けました。ありがとう。

2006/01/09

ただそこに在るものを撮す

clear and sunny

7日の東京は風が強かったがすこぶる快晴だった。この3連休の天候は荒れると人から聞いていたので、連休二日目の快晴は正月休み最後のプレゼントに思え、僕はカメラを抱え表に飛び出した。写真を撮ると言っても何も大袈裟な出来事を記録するということでもない。どんな写真でも、その人の、おそらくは審美的な価値観より発する、写真を撮るだけの価値が対象にあるのは事実だと思うのだが、それ以前に写真に収める対象は、ただ 「そこに在る」何かであるのは間違いない。

Camellia

そこに在るものを、そこに在るがままに撮す。ただそれだけ。それなのに何故これだけ熱中できるのだろう。でも今回写真を撮りながら一つだけ、些末なことだけど、気がついたことがある。それは、そこに在るものを撮すにしろ、カメラを構えるとき、対象がそのままでいることを強く願うことである。風よ少しの間止まれ、と僕は願った。猫が愛らしい表情を見せたとき、その表情のままでいて欲しい、と祈ったりもした。

普段では、つまりカメラを構えていないときは、意識しないような感覚。仮に意識するにしても、例えば風になびく草花の姿を見るとき、爽やかな風を肌に感じ、風音を聞き、ほのかに甘く漂う花の香りを嗅ぐ、それら人間の五感から受ける感動は花の姿だけからではない。
まして風に対し止めと願うこともない。対象と僕の間にカメラを置くだけで、僕の感覚は少し変わる。それは良いか悪いかの価値判断などでは無論ない。

そして良い写真を撮りたいと望む。良い写真とは何かを知ることはない、でも僕はそれを知っているかのように、 写真を判別する

closed

写真は、誰かが言ったように中毒性があると思う。その中毒性は、一つには対象を選択し、撮影のイメージを造り、そのイメージに合わせ機械を設定し、シャッターを押す、それら一連の流れが自己完結することにある。それでいて対象との関係を構築し、その関係に参加する、幻想とはいえ繋がりをそこに感じるのである。自己への引きこもりと他者への繋がり、
それらの両感覚が写真を撮る際に持ち、ひいては中毒性が生じるのではないか、と僕は思う。