2006/02/03

「紐しおり」愚考

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紐しおりについて気にし始めたのはつい最近のことだ。書籍に紐しおりが付いていることは僕にとっては至極当たり前のことだったし、ないことのほうに馴れていなかった。でも数年前から徐々にだが付いていない方が多くなってきているように思える。本を読み始めた時、その本を中断した時に思わず手で紐しおりを探してしまう、そんな所作が多くなってきた事で逆に紐しおりの事を意識し始めたという事だ。

僕の読書は図書館に委ねるところが大きい。新刊で書籍を購入すれば紐しおりが付いていない書籍でも紙のしおりが本にはさまっていることだろう。でも図書館から借りる本にはそういうものは大概ないのである。

意識はしていなかったが、現在、文庫本で紐しおりが付いているのは新潮文庫だけらしい。サイト「ほぼ日刊イトイ新聞 新潮文庫のささやかな秘密」を読むと、今後も新潮文庫は紐しおりを付け続ける宣言をされている。記事の中で新潮文庫担当者は紐しおりについて次の事を言っていた。
1)読書に非常に便利であること
2)書籍であれば紐しおりがつくのは当然であること

しかし紐しおりのコストが1本あたり10円とは知らなかった。以外に高いと思ったけど、確かに紐を付ける手間を考えると妥当なのかもしれない。
最近図書館で手にした本に西成彦氏の「耳の悦楽」がある。この本はクレオールからのラフカディオ・ハーンと女性をテーマにした評論で美しい装丁が施されている。しかし僕がこの本で気に入ったのは紐しおりが幅広で腰も適度にあり長さも色も適当で美しかったことだった。紐しおりが美しいと感じたことはそれまでは一度もなかったが、この本によって紐しおりの事がさらに気になったのも事実である。

これは想像だが、おそらく装丁家からしてみれば紐しおりはデザイン上において考慮に入れたくないのではないだろうか。そんな気がしている。本棚に背表紙を見せて並んでいる書籍の下からだらりと垂れ下がる紐は決して美しいものではない。それは使い古されて細く、さらに先端が解れていたりすればなおさらであろう。それに一個の完結した書籍の形から、尻尾のようにはみ出す紐をデザインに組み込んで考えること自体なにかしら抵抗があるようにも思えてくる。

誰が最初に書籍に紐しおりを付けたのであろうか?残念ながら色々と調べてみたが、その記録を見つけることが出来なかった。しおりの歴史は書籍の歴史と重なることだろう。でもグーテンベルグ以前も以後の長い期間も、装丁家が意匠をもって創造した書籍に、紐しおりが付いているとも思えないのである。書見台で読む大きく重たい書籍に紐しおりは似合わないと思うのだ。

紐しおりが付き始めたのは、多分機械による大量出版が可能となった時期以降のように思える。つまり書籍が一般に個人の所有となってからの話だと思うのである。一冊の本が、例えば高価で希少性がある時、個人所有でなく複数の人によって読まれるとき、紐しおりは逆に混乱を招くおそれが出てくる。つまり紐がある箇所が、読んだ人により常に移動することになってしまうからである。その際は誰それと名前を書いた紙のしおりを挟む方が合理的だと思う。紐しおりは機械化と書籍が個人としてのプライベートな所有物になって初めて便利な機能になると思うのである。

これも想像だが、紐しおりを最初に考案したのは日本以外としても、紐しおりを書籍にこれほど付けている国は日本くらいではないだろうか。
ご存じの通りに、紐しおりの有無は書籍の機能として致命的ではない。コストもかかるし、多分装丁家にとっても余計な部品だと思う。
紐しおりは単に本の個人利用における利便性向上を目的に設けられたサービス品で、どちらかといえばオプション品に近い存在だと思う。書籍販売において他社機能との差別化のためにどこかが付け始めた結果全社が付けるようになった、そういう感じで紐しおりは広まっていったのではないだろうか。この状況は例えば携帯電話とかデジカメ等の機能追加の状況に似ている。そしてこういう状況を造り出すのが日本は得意である。

ちなみに利用する図書館が所蔵する日本以外の書籍について調べてみた。結果は数千冊あるなかで紐しおりが付いていたのは僅か4冊であった。圧倒的に日本の書籍の方が紐しおりが付いていた。下方に写真を掲載する。付いているのは僅かながら、どれも堂々とした(笑)紐しおりであった。

新潮社担当者は書籍であれば紐しおりが付くのは当然と言っていたが、こうやって考えれば紐しおりは書籍の歴史から観ると、特定の期間の特定の国で広まったサービスと言えるのかもしれない。こんなことを書いている僕も実は紐しおり派である。

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