2006/04/02
桜の季節 梶井基次郎の「桜の樹の下に」
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」で始まる梶井基次郎の「桜の樹の下に」に登場する桜の品種を想像することは全く意味がない。
それは梶井基次郎が造り上げた観念上の桜である、即ち現実の桜ではない。でもその無粋なことをあえて行えば、やはりソメイヨシノだと僕は思っている。それは「爛漫と咲き乱れている桜」、そして「一つ一つ屍体が埋まっている」から、一面の花の姿で群桜の状態で植えられている姿を想像するからなのだが、大正10年以降に日本全国にソメイヨシノが展開していった事実を思えば、あながち外れているとも思えないのである。
梶井は桜の信じられない美しさに、「不安になり、になり、空虚な気持」になったが、「一つ一つ屍体が埋まっていると想像」することで、彼を「不安がらせた神秘から自由」 になった。桜の信じられない美しさは、花という生殖の営みの美しさであり、それは「生」に結びつく。
そして小説中に挿入した薄羽かげろうの生殖直後の死が現す様に、梶井にとっては「生」の美しさは「死」に密接に関係するのである。
この小説に登場する桜は、爛漫に咲き乱れ散りゆく桜ではない。梶井は、信じられない美しさで爛漫に咲き乱れるからこそ、その美しさに原因があるとした。それは「檸檬」の化学反応に似た感覚でもある。また梶井は結核により死と常に隣り合わせで生きていた。
時として体調が芳しくなく、不快な発熱と発汗が身体に現れるときもあったことだろう。そのいいしれぬ憂鬱の中で、生が謳歌する春の中で、ひときわ美しく咲き乱れる桜に信じられないという心情を持ったのではないだろうか。
仮に梶井基次郎が感嘆した桜がソメイヨシノであったとしたら、これも僕の想像だが、京都で生まれ育った梶井にしてみれば、ソメイヨシノは新しく派手な桜と受け取ったことだろう。梶井にとっては見慣れぬ桜であったからこそ、その美しさにこの世のものとは思えない何らかの理由を求めたとも思えるのである(見慣れている桜であれば、おそらくここまでイメージできなかったのではないか)。さらに大正から昭和にかけて、社会は「桜」に日本との同一性を求め始め始めている。梶井にとっても、当時の日本の社会状況について感じることもあったと思う。
それはソメイヨシノの新しさ、ある意味において屍体を持ち出すほどの不自然な美しさ、を重ねてみる日本の姿でもあったのではないだろうか。それを考えてみれば、梶井の想像はあながちロマン的なものでもなかったとも思えてくる。
僕はソメイヨシノを見たとき、確かに美しいと感じるのであるが、桜の樹の下に屍体が埋まっているとの想像を喚起することは難しかった。
つまりは梶井が感じた、ソメイヨシノの不自然な程の美しさを感じる事も出来なかったということでもある。
それは僕にとって毎年必ず訪れる見慣れた風景でもあった。しかしその事自体、ある意味感覚の麻痺があるのかもしれない。もしくは梶井も含めた数々の桜に関連する言説を無効化した地平の彼方に現在のソメイヨシノが立っているのかもしれない。そんなことを思った。
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