2006/04/27
花を撮る
以前に僕の姉が会社に勤めていた頃、生け花を習いに行っていた。ある時、彼女が生け花を始めてから半年くらいたったときだと思う、急に「生け花をやめたい」と言い出した。理由を聞いてみると、「花の気持ちがわからない」と意味不明のことを言う。
つまり彼女にとって「生け花」とは文字通り「花を活かす」事にあるらしく、花の気持ちがわからなければ、先生と同じように活けたとしても、客観的にみると明らかに全く違うのだという。つまり彼女の生け花は「死んでいる」のだそうだ。
言っている意味は何となく通じる。でも僕には本当のところはわからない。でも最近写真で花を撮るときに姉の言葉を思い出した。そして思った、果たして僕の撮る草花・樹木は写真の中でも生きているのだろうかと。
写真の中でも生きるなんて、当然の事ながらあり得ることではない。写真は対象からの光を集めて記録する機械であるから、命を吸収するなどと言うことはあり得ない。でもそこに一抹の共通する理があるような気もしている。
形もしくは構図の美しさより、写真に写った対象の内からくる美しさ。技術論が先行する中で、前記の僕の物言いは矛盾があるのは明らかである。内からくる美しさは、やはり構図によって出てくるのだと僕の頭の片隅でそう囁く。では構図を決めるのは何だろう。それがもしかすると姉の言った「花の気持ちを理解する」ということかもしれない。などと少しだけ思う。
写真の花が何という名前なのか実は知らない。思い出すたびにネットなどを使って検索するが未だに正体不明である。名前は大事だけど、花の美しさ(本質)の前ではどうでも良いことだ。でも僕にとっては対象、それが植物であったとしても、語りかけるにはやはり名前が必要なのである。語りかけとそれに対して自分の内からくる応答との会話によって、僕は彼ら(彼女ら)を少しだけ知ることが出来るのだ。
「花の気持ち」は僕にはわからない。でも同じ生命を持つもの同士、歩み寄る事は可能かもしれない、などとも漠然と思う。
追記:この植物の名前を知っている方、是非とも教えてください。
2006年4月28日追記: eeeeeeさんから「トウダイグサ」の仲間であることを教えてもらった。調べてみると確かに僕もそうだと納得した。 eeeeeeさん、そして eeeeeeさんのご母堂様に感謝します。
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