「桜語り」はまるで信念という光源によって映し出された影を語ることに近いかもしれない。
つまりいくら語ろうが桜に辿り着くことは難しい。それでいて自分が語る桜が影であることに気がつき、光源の外部に立って桜の実態を見たとき、そこにあるのも一つの理念化した桜ではないと誰が言えるのであろう。
その堂々巡りの言説の中に現在の桜があるとすれば、僕は桜を語ることができない。
おそらく「桜」を題材に「日本」と「日本人」について何でも語ることができることだろう。それはまさしく望みのままに「桜」を消費することが可能である。
「桜がでてくると、なぜか突然「古来から」や「日本人」が呼び出されてくる。でありながら、昭和十年代の桜の精神論のような明確な観念や思想はない。むしろ、ないからこそ安心して呼び出せるのかもしれない。なんというか、虚数空間を強引に跳躍するようなものだが、実定的(ポジティブ)な大きな物語なしに、個人化し拡散していく感情や記憶をただ一つの桜らしさへつなげていくには、たしかにこれが唯一の語り口なのかもしれない。」(佐藤俊樹 「桜が創った「日本」」から)今回の連作で佐藤俊樹氏の著作「桜が創った「日本」」を参照することが多かった。たぶん今後多くの「桜語り」はこの書籍を参照されていくことになるように思える。この中で「ざわつき感」について面白い話が載っていた。
よくソメイヨシノはヤマザクラの自然とくらべ人工的と多くの「桜語り」のなかでいわれる。でもソメイヨシノから見ると、自然・人工の区別はなく、「種の保存」の観点から見れば、単にソメイヨシノが人間の力を借りて種の拡大をはかったと言うのである。
そのためにソメイヨシノは人間が喜ぶ姿へと進化した。ソメイヨシノが人工的という語りの中にも、語る側の信念としての自然観があるのだと思うである。
「ソメイヨシノは彼らを取り巻く日本列島の生態系、その一部に人間社会をふくむ生態系全体にうまく適応して、空前の大繁栄を勝ちえた。それを「不自然だ」「俗悪だ」「醜い」と非難する方が、よっぽど傲慢だと思う。・・・(中略)・・・今年、ソメイヨシノを昨年以上に多くを観賞し写真にも撮った。美しすぎると僕はあらためて思った。
私たちはソメイヨシノに深い不気味さや気持ち悪さを感じる。美しいにもかかわらず、どこかひどく心をざわつかさせる。それはどこかでこの自然・人工の反転に気づいているからではなかろうか」
(佐藤俊樹 「桜が創った「日本」」から)
でもその感覚は梶井基次郎とも坂口安吾とも違う。話は脱線するが、なぜ坂口安吾のあの小説がこれほど高い評価を得ているのかも僕にとっては不思議だった。勿論よい作品だと思うが、少なくとも僕は、評論家の奥野健男氏が評価するほどとも思えなかった。
「グロテスクの極致がこの世のものではない美をつくり出した傑作で,民族の深層意識をえぐり,未来的な芸術を暗示している」「民族の深層心理」とは一体何なのだろう。それは理念化した「桜」がそう思わせているだけではないのだろうか。この評価が成立する時代を僕らはとうに越えてしまったのではないか。そう思えるのである。
(奥野健男氏)
では僕の「ざわつき感」とは一体何かと問えば、それは僕の自己中心性からやってくるのだと思う。おそらく僕は春を待ち望んでいるのだ。自己の不全感が、春になり変わっていくような期待感の具体的な姿として「桜」があるように思えるのである。
自己の不全感を解消するのは他力ではない、それは当然に知っている。でも「桜」により動かされることもあると僕は思うのである。ゆえに梶井と坂口の感じる桜を、そういう部分もあることを少しは内心認めていながらも、僕はそれを自分から受け入れているのだと思うのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿