2006/04/01

桜の季節 ソメイヨシノの光景


cherry blossomsOriginally uploaded by Amehare.

僕がヤマザクラを「発見」したのは高校の頃だった。近くの公園でソメイヨシノ満開時に一本だけ赤い葉と共に咲いている桜を見つけたのだった。木に吊された札には「ヤマザクラ」と書いてあった。桜の歴史について何も知らなかった僕は、逆にある意味幸運だったかもしれない、ソメイヨシノと較べ葉と共に控えめに咲くヤマザクラに好感を持ったし、何よりもヤマザクラを歴史性で結ぶことなく全く別の桜だと認識したのだった。その認識は今でも続いている。

昨年の春に僕はそのヤマザクラの木を思い出し、公園のその場に行ってみたがヤマザクラの木は無くなっていた。移動したのか伐採されたのかは今でも不明だが、凄く落胆したことは覚えている。

今年、僕は公園内で何本ものヤマザクラを見つけた。それらは僕が通勤時に毎日通っている道の脇に植えられていた。数にして6・7本で、それぞれが根元から幹が数本別れた高木であった。それを契機に公園内でどのくらいのヤマザクラがあるのか実際に数えてみた。僕にとっては驚くべき事に、ソメイヨシノとほぼ同じであった。高校時には1本しかないと思いこんでいたが、単に今まで気が付かなかっただけの話なのである。どうして今まで気が付かなかったのか、それは桜を見る僕の視線によると思う。桜の姿を思い浮かべると、どうしてもソメイヨシノに集約される視線が、他の桜を見えなくさせていたと思うのである。

勿論昔からソメイヨシノ以外にも桜があるのは知っていた。例えば八重桜、枝垂れ桜、彼岸桜、等々。しかしそれらも僕にとって「桜」として見えなかったようだ。公園においても、実際はソメイヨシノ・ヤマザクラ以外にもオオシマザクラ・カスミザクラ・ヤマベニシダレザクラ等が植えられているようなのであるが、何処に植えられているか正直今でもわからない。

前の記事で僕は、ソメイヨシノには「桜」の観念としての側面を持っているが故に時として「妖しく」見えるのだ、と書いた。でも花の付き方も満開時の雰囲気も他の桜と全く違うのも事実である。ソメイヨシノを基準にすれば、ヤマザクラ群の桜は満開時でも葉桜と見間違えてしまうのである。それほどソメイヨシノの満開時の姿は絢爛で、群桜によりさらに圧倒的な姿で鑑賞者に迫ってくるのである。枝いっぱいに咲く状態、どこを見ても花・花・花の光景、花で木全体を埋め尽くしてしまうかのような花の勢い、見上げればそこは花の天蓋、それらのソメイヨシノがつくり出す光景を僕は「桜」という言葉と共に毎年見続けている。

ソメイヨシノが造り出す光景は、別の見方をすれば空間の付加価値とも言えるかもしれない。単品種集中型の公園景観が中心的な現在において、文字通り冬季の裸木から全身花の衣を身にまとう変化は空間そのものを変える力がある、と僕は思うのである。そしてその付加価値は非日常性の場をそこに創出している。しかもその空間は10日間という期限付きなのである。10日間という短さが、多くの人を飽きさせないぎりぎりの期間となっているし、飽きさせないことが冬になり春を待ちわびる気持ちに春のイメージと結びついたソメイヨシノが現れるのだとも思う。

少なくとも一カ所に多品種が植えられていれば、桜の品種の多様なる事実と共に、その中での好みもでたに違いない。でもそれはあくまで仮定の話である。今の僕はソメイヨシノの光景に縛られ続けている。

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