梶井基次郎の「桜」の美しさは屍体から養分を吸い取ることで成立するが、それを感受出来たのは結核という身体性と大正から昭和への時代性にあった。それは「生」と「死」が二項対立的に存在するのではなく、 「生」は多くの「死」の上に成り立ち、しかも「生者」は「死者」からの養分を吸い取ることで「生」を謳歌できる、という梶井の「気づき」であった。その「気づき」は、いずれ自分も「死者」に仲間入りをするという自覚でもあり、それゆえ梶井は花見の酒を酌み交わす権利を持ったと感じたのだと僕は思う。
「今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。」(梶井基次郎 「桜の樹の下に」から)梶井基次郎の「桜」はソメイヨシノの群桜からのイメージと僕は見ているが、それはタイトルで示されたように、対象としては一本一本の個別の桜でもある。それが戦後の坂口安吾では「桜の森の満開の下」となり、「桜の森」として集団の桜を一つとして展開することになる。この変化は単にそれぞれの作家個人の感覚に委ねられている部分が大きいとは思うが、多少ではあるが時代の変化もあるように僕には感じられる。
昭和22年に発表した坂口安吾の「桜の森の満開の下」に登場する「桜」について少し語りたいと思う。
安吾の作品を集中して読んだのは随分と昔のことだ。でもその中でも幾つかの作品は印象的で今でも記憶に残っている。安吾は「現実」を描写する自然主義文学を嫌い物語性の強い作品を数多く残した。「桜の森の満開の下」も物語性が強い。特に説話文学形式を取っていることで寓意性と物語性はさらに強調されているかのようにも思える。
説話とは作者不詳の口承により伝えられてきた物語である。そして主に説話はふるさとの年寄り達が子供に語り継ぐ物語でもある。勿論 「桜の森の満開の下」を語るのは坂口安吾に他ならないが、この物語を読む中で安吾の姿が見えなくなっていくのである。
「桜の森の満開の下」に登場する「桜の森」とは同じ種類の桜が群れて咲く場でもある。
だから山賊は花の蕾の状態を見て満開時を予測できる。桜の自生の場合、森を形成することは難しい。概ねというか殆ど、桜の森は、吉野の桜も含めて人間が植えている。また単種類を集中して植える桜はソメイヨシノでもある。
「前も後も右も左も、どっちを見ても上にかぶさる花ばかり」の桜にもソメイヨシノを連想させる。つまり「桜の森の満開の下」の「桜」もやはりソメイヨシノのイメージがそこにはあると僕は思う。
安吾が生きた時代は全国的にソメイヨシノが広まった時代でもあった。ソメイヨシノは軍隊・公園・役所等の公共施設中心に植えられていくが、さらに様々な媒体により「桜」と国家の同一性が結びついた時代でもあった。
安吾が生まれた時と新潟という場所では、ソメイヨシノはそれほど植えられていなかったと僕は想像する。おそらく安吾がソメイヨシノの桜の森を見たのは17歳で東京に家族とともに転居した後だったのではないだろうか。
僕の想像はそれを起点として続く。大正11年ごろであれば九段の桜も十分に育っていたことだろう。安吾は東京で初めて「桜の森」を体験したと思う。佐藤俊樹氏の「桜が創った「日本」」に拠るところの「デフォルメした桜」であるソメイヨシノの美しさは、安吾が故郷で見慣れた桜と較べると、圧倒的な美しさを感じるが、どことなく不自然さが漂って見えたかもしれない。
「アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。」(坂口安吾 「文学のふるさと」から)僕が「桜の森の満開の下」を「桜」の視点て読めば、そこにあるのは「ふるさと」に戻ろうとする山賊が「桜の森」に阻まれて辿り着けない物語でもある。つまりは、山賊が女の誘いにより「ふるさと」を離れ都に行くが、都の生活に馴染めず、「ふるさと」に戻ろうとする。でも「ふるさと」の前には「桜の森」が立ちふさがっている。
森の中で女は鬼に変わる。山賊はその鬼を殺してしまうが、殺した後は普段の女の姿に戻っていた。そして桜の花弁が舞い落ちる中、二人は虚空の中に消えていく。 女の美しさ・残酷さが安吾の女性観に拠るところが大きいとはよく言われている。
確かに「桜の森の満開の下」に登場する女は理念化された女性像だと思うし、そこに彼が過剰なまでのプラトニックで愛した矢田津世子の存在があるとも思う。ただ「桜の森の満開の下」に現れる「森と都」「山賊と女」「残酷さと美しさ」「果てのない欲望と退屈」などの鍵語は、僕にとって「桜」の存在の前では陰が薄くなるのも事実なのである。
「ふるさと」になぜ戻れないのか。そしてなぜ「桜」は戻るのを阻むのか。
それはこの小説が敗戦後早々に書かれたことと無縁ではないように僕は思う。また坂口安吾の「桜の森の満開の下」の「桜」とはいったい何かという問いにも繋がっていく。 ソメイヨシノは日本の近代化と密接に結びついた桜でもあった。
それは敗戦直前までは日本の同一性に結びついた存在でもあり、日本人もしくは日本国家を象徴する記号になっていた。その変化は新潟県民である一人の男が、地域に関係なく同じ日本人として、一つの壮大な物語に参加することでもあった。
しかし敗戦で一気に状況は変わっていく。その中で安吾は、「ふるさと」を見失ったのかもしれない。もしくは「ふるさと」を想起する毎に「桜」に結びついた物語の記憶が立ち塞がるのかもしれない。そして「ふるさと」とはいったい何かと問われれば、「桜の森の満開の下」の物語では「存在の根拠」ではないかと思うのであり、「空想」は「現実」であると言い切った安吾にとって、自分の現実の姿をそこに見たのではないかとも思うのである。
「桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう」(坂口安吾 「桜の森の満開の下」から)「桜の森の満開の下」の「桜」とは恐ろしく人を狂わせる場所であり、「虚空」でもあった。
それはこの物語を語る安吾自身が見えなくなっていくことと、「ふるさと」での語り方でもある説話形式での構成と相まって、さらに印象深くしているように僕には思える。
追記:坂口安吾は没後50年を過ぎ著作権が失効した。現在「青空文庫」で多くの作品を読むことができる。上記の僕の感想は言葉足らずのところがただあると思う。いずれ彼のほかの作品の感想文で埋め合わせをしたいと思う。
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