2009/10/12

2009年10月11日、新宿

2009年10月11日の朝、目覚めたとき友人宅に行こうと思った。外は快晴、雲一つ無い青空が家の中でもわかる。手短に行く準備を済ませる。何も持たなくても良い、カメラさえあれば。朝食は途中の適当な場所で済まそう。まずは渋谷に行くのだ。

渋谷から大宮へ、そして新幹線を使い高崎に。頭の中でルートを確認する。時刻表を調べずとも行った先で一番速い電車を乗り継げばよい。今からだと11時前には目的地に付けるだろう。

大宮に着いたとき、念のため友人の携帯に電話する。友人が出る。久しぶりの声だ。
「久しぶり、元気か。今大宮だ。これからそっちに行こうと思う。大丈夫か」
一瞬電話の先で声が詰まるのがわかる。嫌な予感だ。
「悪い、今家じゃないんだ。仕事でちょっと出ている。悪いな」
「そっか、気にしないでくれ、いきなりだっったこっちが悪いんだ。またな」

こうなると大宮に留まる理由がない。上野まで行くか。上野周辺で写真でも撮るか。予定を切り替えるのもこうなると早い。そして丁度来た上り電車に飛び乗る。しかしどうやら、今日の僕の運勢は予定通りに事が運ばないようだ。乗った電車は上野行きではなく、神奈川方面行きだった。それに気がついたのは、電車が池袋に止まったからだった。それまでは全くわからなかった。しょうがない、それじゃあ新宿にでも行こう。

予定通りに行かなければ、こちらから失敗を予定とすればよい。単純なことだ。それに新宿も久しぶりだ。歌舞伎町から新大久保・大久保あたりを歩こう。それはそれでワクワクする計画であった。

僕が住んでいる場所からすれば新宿は近いながらも殆ど行く必要がない場所だった。だいたいが渋谷で用が足りたのだった。それでも学生時代から、映画その他で年に数回は新宿に来てはいた。ただ歌舞伎町付近には足を向けることはなかった。足を向けなかったのは特段の理由はない。例えば物騒だとか、そう言う理由は全く考えなかった。たまたま行く機会が無かっただけのことだ。

歌舞伎町および新大久保周辺に行き始めたのは社会に出た後のことだ。仕事に疲れたとき、新宿は僕にとって疲れを癒す場所であった。飲んで憂さを晴らす場所という意味ではない。もしくは風俗と言うわけでもない。ただ、新宿には発散し収まる場所を知らずに渦を巻く欲望の気がそこあそこにあったように感じたし、その中にいることで、その中をただ歩き回るだけで、僕は何故か癒されたのだった。

その当時は、少なからず新宿から新大久保までを歩き、そして様々な人を見てきた。そこにはおそらく日本にいるあらゆる種類の人が濃密で圧縮された空間にいるような印象を持った。大久保周辺では街に立つ女性は区画毎に国籍が違っていた。道を曲がるたびに、ロシア語・スペイン語・英語・韓国語・中国語などなど、が飛び交い。そして歩く男の腕を引っ張っていた。

何度か殴り合いも見たし、危険な状況にも遭遇した。ただ僕のような見るからにサラリーマンにはこちらから向かわない限り、相手も無視していた。彼らにとっては大事なお客さんでもあるのだ。

久しぶりの新宿を歩き僕はそんな昔のことを思い出していた。その当時と今とを比べると、再開発もしくは色々な法律の施行により、すっかりと当時の面影が無くなっていた。無くなるというのは、見えなくなったと言うことと同義でもある。通りはゴミもなく綺麗で人は行儀良く歩いている。歌舞伎町と大久保の真ん中にある公園では子供達がバスケットで遊んでいた。化粧の濃い女達が通り過ぎるが、今の目線で見れば彼女たちも普通に見える。

昼の歌舞伎町・大久保はどちらかというと観光地でもあるようだ。行き交う人はカメラを携え、方々で写真を撮っていた。カメラを持っているのは僕と同じだが、旅行者はすぐにわかる、彼らはだいたいが男女二人連れで、そのうちの一人だけが写真を撮っているのだ。

元新宿コマ劇場前の広場で歌舞伎町祭りが開催されていた。舞台では女性が歌っていた。歌い終わると自分の芸名を連呼していたが、聞く段から忘れてしまった。舞台前では50人くらいの人が椅子に座っておとなしく歌を聞いていたが、殆どが年配者だった。周囲には椅子に座らずに地べたに座り舞台を眺めている男達がいた。会話も少なく、昼間だというのに、彼らは眠たそうな眼をしていた。

それ以上に気がついたのは巡視している警官の多さだった。至る所で警官が歩いていた。見上げると監視カメラが方々に設置されている。通りは広く、そして昼間と言うことだけでなく明るい。

大久保周辺はコリアタウンとしてすっかり観光地化していた。韓流の品々を売る店では女性達が列をなして並んでいた。少し路地を入ると、そこには韓国料理の店が並び、それなりに人が入っていた。

初めて大久保に来たとき、僕はその街に多くの韓国人が住んでいるとは知らなかった。そこにキムチ専門店があると人から聞いてやってきたのだ。その当時はコリアタウンという名称もついていなかったように思う。普通のどこにでもあるような街だった記憶がある。

僕が大久保の韓国人社会の事を知ったのは、一人の女性と知り合ってのことだ。彼女とはたまたま渋谷の書店で知り合った。日本の勉強ということで書籍を探しているのを手伝ったのだ。それが縁で僕らは時々会うようになった。無論、単に友人としての関係だった。彼女は韓国で舞台俳優の経験を持ち、また若いながら青年実業家として雑誌に紹介されるほどでもあった。しかし事業に失敗し、逃れるように日本にやってきたのだった。

たいていに連絡をよこすのは彼女の方からだった。僕はその都度彼女の家に行き、そこで色々な話をした。そしてそこで大久保の韓国人社会の話を聞いたのだった。数十人で集まり、月々一定のお金を集め、お金が必要な人がそれを使い、後で返済するような仕組みを、横の繋がりの中で行っていることも知った。また金貸しもいて、取り立ては日本のそれよりも厳しく、決まった時期に払わないと売られてしまうことになるとも聞いた。さすがに人身売買の話が出ると無茶な話だと思ったが、それがその当時の、もしくは今でも、日本で生活する外国籍女性の現実でもあるようだ。

野心的な彼女は日本で事業を興すために風俗で働いていた。最初の事業はだからか風俗店の経営だった。しかし店員である女性との金銭問題でつぶれてしまう。その次は韓国バーの経営だった。その際は東京を離れ地方での事業だったが人が集まらず数ヶ月で店をたたむことになる。二度の挫折と、その度ごとの身を売る仕事。そして彼女は再起を果たすこともなく韓国に帰国していった。

彼女の人柄を僕はどう語るべきか。最初から最後まで僕らは友人だった。そして僕は会話の中で、彼女から人間について色々なことを教わった。彼女は凛として気品があり聡明で美しかった。時としてその気位は、共に仕事をする女性から見ると嫌気がさしたかもしれない。そのくらい彼女は自尊心が強かった。常に率直な意見を言い、僕の意見に誤りがあるときは容赦がなかった。しかしそれでいて友人を気遣う気持ちを忘れることも無かった。だから僕は友人として彼女を尊敬していたし、それは今でも変わらない。

時々思うことがある。一般的な意見として、男性と女性が付き合うとき、女性は上書きするが、男性は常に以前の女性を覚えているのだそうだ。そうであれば、ある女性がその時にその場所にいたという事実とその女性の物語を語るのは男性の役目なのかもしれない。韓国籍の彼女と僕は完全に友人同士ではあったが、彼女の物語を僕は忘れることはない。

2009年10月11日の大久保での徘徊は、写真を撮るのも忘れ、そう言う記憶の中で行われた。

それから僕は再び新宿に戻った。そして思い出横丁で写真を撮る。新宿再開発の嵐の中で、この思い出横丁は取り残された空間のように写るが、しかしそれはそうではないことにすぐに気がつく。路地の真上に通された電線・ライト・監視カメラの配管は、そうすることで生き残りをかけた横丁の意志が現れているかのようだ。つまり横丁は以前の横丁ではなく、他の開発された新宿の地域と同じく、テーマパーク化されているのである。

開発は常に以前の街のコミュニティを破壊することで行われている。街のコミュニティを破壊するか、もしくは残すことで時代の流れの中で朽ち果てるか、現在ではその二者択一しか残されていないかのようだ。その別の解としてテーマパーク化があるとしたら、それはそれで良いのかもしれない。

僕のその語りが野暮なことは知っている。新宿の街を訪れる人たちはそんなことは百も承知の話なのだ。あえて言うことの無意味さと素朴さに我ながら嫌気がさすが、それも久しぶりの新宿に来たことで表面化した感傷なのだろう。

0 件のコメント: