セバスチャン・サルガドの撮る写真は美しい。そしてまさしくそのことが彼の写真の問題であると僕は考える。そして彼の写真が世界に多く受け入れられた理由としてその美しさがあるのも間違いない。
サルガドは現在でも活躍している著名なフォトジャーナリストでもある。その彼の30年間に及ぶアフリカでの撮影をまとめた写真展が東京写真美術館で開催されているので行って来た。美術館で入手したカタログには「フォトジャーナリズム」ではなく「フォトドキュメンタリー」とあった。そして彼はその「フォトドキュメンタリー」の先駆者でもあるらしい。
「フォトジャーナリズム」と「フォトドキュメンタリー」の区別は、両者は報道写真(フォトジャーナリズム)の範疇に入りながらも、前者がニュース性を求めることに対し、後者は写真家の視点を残しながら淡々と現状を切り取っていく姿勢にある。故にフォトドキュメンタリーの場合、写真家のスタイルが全面に出ることになる。セバスチャン・サルガドのスタイルを僕が簡単に説明することは難しい。ただ一目瞭然なのは、モノクロで広角レンズを多用し画面を大きく構成しているということだろう。
写真には不可視な何かが写っている。その何かを写真家はカメラのシャッターを押せば写りこまれるというわけではない。清水穣は、「それは写真に写っている対象の真実でもなく、写真を見て感じる我々の心理や感情とは無関係」として、その上で、「写真の奇跡は、見えないものが写るということである。見えていなかったものが写っているといっているのではない、写っているのだが見えないのである」とした。そしてその何かを写真的不可視であると語る。
写真として成立するためには、その不可視な何かが写っていなければならない。それを写真性と呼ぶのであれば、それでも良い。ただこの何かは写真家の思惑を超えて在るわけではなく、写真家とは無関係に在るのだと僕には思える。写真家のダイアン・アーバスは常々カメラは自分の思い通りにならないと言い続けた。思い通りにしようと望むこと自体、それは不可能なことなのだろう。
写真家が出来ることと言えば、多くの写真を撮ること、そして多くの写真を見ることしかないのでなかろうか。その上で、不可視の何かが写りこまれている写真の選択にのみ写真家の自己表現があるといったら言いすぎだろうか。
写真は写すものを美しく見せる、とは確かスーザン・ソンタグの「写真論」での言葉だ。彼女の写真論の基軸には「他者の苦痛へのまなざし」があるように思う。そしてこの基軸の言葉はそのまま次の写真論のタイトルにもなった。
彼女はこの「他者の苦痛へのまなざし」の中でセバスチャン・サルガドのある一枚の写真「集団移住者の群れ」に向けられた批判を肯定している。批判とは「スペクタクル的で映画的とされる美しい構成をもった大きな写真」を写したことで、個々の問題と悲惨さが無化され、かつ抽象化され、それらの問題解決に向かわないということにあった。
『現実がスペクタルと化したと言うことは、驚くべき偏狭な精神である。それは報道が娯楽に転化されているような、世界の富める場所に住む少数の知識人のものの見方の習性を一般化している』記号としての写真は、これも清水穣の言葉を借りるのであれば、表象がない指向対象(レフェラン)のみの特殊な記号である。例えば雲の写真は雲が写真にあるのではなく、雲の指向対象(レフェラン)が写っているということになる。それであれば、他者の苦痛が写っている写真のレフェランとは何になるのであろう。
(「他者の苦痛へのまなざし」 スーザン・ソンタグ)
原理的に他者の苦痛を僕らは知ることは出来ない。それでも人間の社会構造はいかなる文化であろうとも同一であるという立場から、僕らは他者の痛みがどの様なときに起こるのかを把握する。苦痛の原因・苦痛の表象・苦痛の内実、僕らにわかるのはそのうち原因と表象となるのだろう。アフリカでの苦痛の原因の多くを僕らは知っている。貧困・飢餓・紛争・破壊・病気・虐殺などなど。そしてそれらの原因と表情に現れる苦痛とで、その写真に写る人の痛みを感じることとなるのだ。つまり苦痛の対象指向とは、写真の誰それに向かうと同時に僕らにも向かうのである。
『震撼させる写真が衝撃の力を必ず失うとはかぎらない。だが理解するということにかけては写真はそれほど助けとならない。物語はわれわれに理解させる。写真の役目は違う。写真はわれわれにつきまとう。』つきまとうのは何か。それは僕らに向かうレフェランではなかろうか。仮に写真に写る不可視の何かが薄まったとしたとき、もしくはレフェランが弱い場合、その写真には何が現れるのだろう。無論、これらは可算名詞なのかと言った問いかけもあるとは思う。その点について僕には未だ分からない。ただサルガドの写真を説明する際、その言い方が適切のように僕には思えるのだ。
(「他者の苦痛へのまなざし」 スーザン・ソンタグ)
セバスチャン・サルガドが写した様々なアフリカの風景は美しい。砂漠を写した写真は何度見ても飽きない。10頭近くものシマウマが並んで池の水の飲む姿は、シマウマの模様が群れ全体で一つの調和をなし、それだけでも何らかのデザインとなっている。アフリカに住む人々の姿は躍動感に満ち、瞳は美しく、命の美しさを讃えているかのようだ。
そして内紛・紛争・虐殺に逃れた人々の難民キャンプの風景も美しい。ある写真では、兵士二人が砂丘に立ち、その足元には完全に腐乱し人間の原型をとどめていない死体が大の字になって倒れている。兵士の顔はその死体に驚くこともなく平然とした顔つきで立っている。その写真は不思議なことに嫌悪感を持つことがない。美しいのだ。兵士も、彼らが立つ風景も、そして無残に朽ち果てた死体も。
また別の写真では食料の配給を待つ女性が体を斜めにし顔をカメラに向けていた。彼女の目は不思議な模様を見せていた。説明文を読めば砂嵐と慢性の眼病で視力が失われているのだそうだ。しかし写真の構図とまっすぐにカメラを見つめるその姿は美しい。
セバスチャン・サルガドの写真はよく言われるように映画的である。それは僕らが美しいと感じる構図とコントラストによって構成されている。こうあるべきだという美しさのフレームワークに僕らは逃れることはできない。そしてそれは逆に僕らが望んでいる美しさでもある。美しい写真は、人間である限り同じ価値観を共有するという安心感を根拠無く与えるが、写真の衝撃とつきまとうものは殆ど無い。
スーザン・ソンタグの問題提議を無視することは難しい。ただサルガドへの写真評価に係わることは、批判する者も擁護する者も、両者の倫理観もしくは写真に係わる信念の対立とも言える。それらの闘争にどちらが勝っていると誰が言えるのだろう。
サルガドの写真にはレフェランの強さがない。もしくはレフェラン自体が欠けている。故に写されたものは、その写真に留まることになる。写された対象は写真の構図の中で留まり、よって対象とその構図からの美しさが全面に現れる。例えが悪いが、サルガドの写真は観光地の絵はがきに近い。しかもそれは廃刊となったリーダーズダイジェストなどに掲載される珍しくも美しい写真に近いかもしれない。
ただその観光地の絵はがきに数十万人の難民が生活するキャンプも写され、その中で暴動・殺戮が頻繁にある姿があったとしたら、見る者は美しいと同時に一種の違和感を感じることだろう。そういう種類の違和感が、サルガドの写真を見終わった後に残り続ける。それはまとわるといった種類ではないが記憶には残る。
確かに写された人々の個々の問題はサルガドの写真では無化するほかはない。それはサルガドの写真の本質に係わる部分だからだ。だからといってアフリカの現状を伝えていないというわけでもない。サルガドの写真は写真であることを抑えることで、逆にアフリカの状況を伝えているのだと僕には思える。
※写真は、「パガラウ放牧キャンプのディンカ族、南部スーダン、2006年」
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セバスチャン・サルガド アフリカ
生きとし生けるものの未来へ
東京写真美術館
■会 期:2009年10月24日(土)→12月13日(日)
■休館日:毎週月曜日(休館日が祝日・振替休日の場合はその翌日)
■会 場:2階展示室
■料 金:一般 800(640)円/学生 700(560)円/中高生・65歳以上 600(480)円
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