セバスチャン・サルガドの写真展に行った際、売店でパンフレットを購入しようかと考えた。価格も2200円なので写真展のパンフレットとしてはそれほど高くはない。そのつもりで手に取りパラパラとページをめくる。多少写真が小さいのは価格を考えると致し方ない。しかもパンフレットにはサルガドの言葉とか評論家の解説なども載っているから読み物としてもおもしろい。そんなことを考えてパンフレットの後ろにある解説を読んでみた。
名前は忘れてしまったが女性漫画家の解説と言うよりは個人的な感想文だった。彼女の感想は次のようなことが書かれていた。サルガドはフォトジャーナリズムを芸術の域まで高めた、ほかの芸術はもっとわかりやすくすべきだ、云々。
何を言っているんだろうこの人は、というのが正直な僕の感想。でもネットでサルガドのことを調べてみると案外に芸術家であるとの評価を持っている人が多いのに気がついた。どういうことなのだろう。
例えばだ、今回の写真展にこんな写真があった。ルワンダ紛争から一年後の1995年に撮影されている、ある学校にある数百のツチ族の遺体の写真。サルガドらしくその写真には吐き気を及ぼすような嫌悪感は少ない。しかし、この写真を芸術作品と言えるのだろうか。
その漫画家に聞きたいことは、彼女が考える芸術の定義そのものだ。仮に僕がフォトドキュメンタリーの一人だったとしよう。社会の問題点を僕の視点で切り取った写真が高く評価されたとしよう。その際、僕がその社会の問題を写した写真を観客が見て芸術性が高いと言われたとき、僕はジャーナリストとしてどう思うのだろうか。芸術という称号を与えられて喜ぶのだろうか。そんなことはない。逆に、芸術性が高いと言うことで、ジャーナリズムとしての写真の価値が下がるように感じることだろう。はっきりと言えば、自分が芸術家だろうがなかろうがそんなことはどうでも良い。それが一部の人たちにとって褒め言葉になるのだとしても、そういう称号に何の意味があるというのか。
芸術としての称号を与えることは作品を特別な位置に高める、という凡庸な考えはどこから来るのだろう。僕には殆ど理解できない。そして、それを基準にしてものを語る感想ほどつまらぬものはない。
それから芸術はもっとわかりやすく云々について、誰にとってわかりやすくなのだろうか。彼女がそういう風に思い語ると言うことは、その漫画家にとってわかりやすいということなのだろう。一般的にと言うのであれば、その基準などを明確にすべきであろう。そうでなければ単なる愚痴でしかない。さらに言えば、いわゆる芸術家たちはあなたのことを考えて創作活動を続けているわけでもない。
などと、その感想文を読んで頭の中で思った。お金を出してこの手の感想を読まなくてはならない道理などどこにもない。だから僕はパンフレットを買うのをやめた。
帰りに渋谷の東急東横店のれん街にて追分だんご本舗のみたらし団子などを約2000円分買った。これがセバスチャン・サルガドのパンフレット代わりだと僕は思った。
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