2009/10/06

SAICO「mother」を聴いて曝け出す謎を思う

2005年のSAICO「CEREAL」を2009年に聞き始める。90年代、僕の音楽に鈴木彩子は欠かすことができない存在だった。再起不能と言われるほどの大事故、そしてリハビリ、再起後のCD発表後にメジャーから姿を消す。そして復活して最初のCDである「CEREAL」を2009年に僕は聞いている。

WikipediaでSAICOを調べると以下のように説明がなされている。

『SAICOの特徴として、自らの個人的な生い立ちや体験を積極的に歌詞の中に織り込むことがある。歌詞だけではなく、ラジオのトークなどでも紹介される。非常に重いエピソードもあるが、それをも曝け出すことで支持を得ていることも事実である。』(Wikipedia SAICOより)

「CEREAL」の曲の一つである「mother」では父親の焼身自殺未遂と愛人通いそして両親の離婚が綴られている。それだけを聞けば確かにWikipediaに書かれていることが事実の様に聞こえる。

『パパとママが愛し合い抱き合って産まれてきたの
だけどいつからか二人寄り添うことはなかったの
川辺で焼身自殺をはかった父は今も
生まれ変わらずに愛人にへばりついているみたい
それでいいよ、すきにしてよ』
(SAICO 「mother」より)

「曝け出すこと(さらけだす)」とは、辞書によれば、「おもてに表れていなかった物事を、隠すところなく出す」行為だという。例えば言わなければ分らなかったことを語ることとか、服で包まれた裸体を他人に見せることとか、そういうことを言うのだろう。

でも程度により「曝け出す」とは言われないこともある。昨日の夕食に何を食べたかを語ることを曝け出すとは通常は言わない。腕に傷を作り絆創膏を貼ったのを、袖をまくり見えてしまうときも同様だろう。「曝け出す」と言われる場合と言われない場合がある。その線引きは言葉として明瞭であるかと言えば、僕らは言葉を濁す。ただ僕らは何故か、多少のグレーゾーンはあるが、それらを知っている。

SAICOの作詞において僕が感じるのは彼女の誠実さである。彼女が暴露趣味があるとか、そういうことではなく、作詞をする際に何故を繰り返すことで帰着する自然な結果だと僕には思える。特に内省的な作詞が多ければ、その作詞を行う契機を振り返り、その大元を辿る結果として「曝け出す」ことになるのだろう。

アーティストの多くはそう言う人たちなのではないだろうか。そして、音楽も文学も絵画も、その視点で言えば、自らの何かを曝け出している結果と言えないだろうか。しかも彼らは「曝け出すこと」を目的にしているわけでは決してない。そのように評価しているのは僕ら観客の様に思える。

「曝け出す」とは彼女の曲を聞く側からの感覚のように思う。何もそこまで書かなくてもという感覚もそれはそれで通常だろうとは思う。しかし、おそらく彼女にとってはそうではなく、そこまで書かなくては見えてこない世界があって、それを現したいように思えるのだ。そして、そうさせるのは彼女のアーティストとしての誠実さであると僕は思う。

詩人は作詞の際に読者を想定せず、音楽家は作曲の際に聴衆を考慮せず、画家は絵を描く際に観客を考えない。彼らはおそらく他者を喜ばせるために創作してはいない。SAICOは5年ぶりのCDを出す際に良いものを造ろうと思ったはずだ。もしくはそれも考えなかったのかもしれない。良いものとは、それは自分の中にある。決して他者にあるわけではない。自分の中にある良いものを追求すること、そして表現すること、それに集中すること、それのみが彼女が思っていたことのように僕は思う。

SAICOの曲を聴いたとき、作詞に曝け出したSAICOの姿を見たとき、その姿を見たものはSAICOの何を見ることになるのだろう。「曝け出す」ことの線引きは、おそらく「曝け出された」ものの衝撃の大きさによって決まるのだろう。では衝撃が大きければ、「曝け出された」ものが多ければ、「曝け出された」分、それを見る者・聞く者・読む者全ての者たちはSAICOのことが解るのだろうか。

米国の写真家ダイアン・アーバスは生前こんなことを語っている。
「写真とは、秘密についての秘密である。写真が多くを語るほど、それによって知りうることは少なくなる」

例えば、彼が、彼女が裸になれば、僕は、あなたは彼を、彼女を知ったと言えるのであろうか。彼と、彼女とSEXをしたとき、僕は、あなたは、彼を、彼女を全て知り得たと思うのであろうか。多くを語るものは、多くの謎を聞くものに与えるように僕には思える。謎とは、何も情報がないことだけではない。情報過多のときにこそ謎は発生するのだとも思える。

愛している彼女を、彼を抱いたとき、そこから全く新たな謎が産まれるのだ。辿り着こうとしても辿り着けない先にあなたがいる。僕はSAICOの歌を聴くときそれを感じる。それを人はなんて言うのだろう。その状況下で愛は私とあなたをつなげることができるのだろうか。

曝け出すことで、観客はわかったという幻想を得ることになる。衝撃が大きければ大きいほど、その衝撃しか見えていないのにも係わらず、何かを得たと思うのだ。しかしそれだけでは長く彼女の歌を欲する者たちがいることの理由にはならない。曝け出すことで支持を得ているとは、いわば初動的な要素でしかない。彼女が5年のブランクの後復活したときに、それを待っていたファンの多さが、それだけでないことを証明している。

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