2009/10/20

Nikon Small World

神々の創造はミクロに宿る。猫の造形は既に遺伝子の中に宿っているし、その遺伝子は数十億年と言う生命の繋がりの中で形成してきたのだから。
つまり神の創造は生命誕生のその瞬間にあることになる。ただその瞬間は地球と言う銀河系辺境の惑星があればこその起点でもある。ゆえに神の御手はさらに遡る事が出来る。最終的には宇宙誕生の瞬間にこそ神の奇跡が行われたと言う事になるかも知れぬ。それであれば、宇宙誕生以前の無の中で神は一体何処におわしたのだろう。

ミクロの世界への旅はゆえに広大な宇宙への旅に似ている。そしてどちらもが人間の領域を離れる旅でもある。しかしその領域も一旦写真に収められれば状況は一変する。写真として撮られることで、その領域は人間の場所に変っていくのだ。写真は、いわば植民地主義の尖兵の役割を担っている。それはキリスト教伝播の際に神父を最初に送り込むのに似ている。

写真はどこが神父に似ているのだろう。宗教と科学という区分けはあまりにも陳腐かもしれない。中世と近代と言う歴史区分はあまりにも欧米的だとの謗りを受けるかもしれない。それに僕自身がこのような時代区分に組しないのもある。ただカメラ及び写真技術の誕生と発展は近代と密接に絡んでいるようにも思えるのも事実だ。

カメラと言う道具は単に化学・物理的反応を起こす箱に過ぎない。問題は写真そのものにある。例えば、写真史を認識論を中心にして眺めると一つの疑問が浮かんでくるのだ。「一体何故僕らは写真に写りこまれた画像を過去の事実として信じるに至ったのか」という素朴な疑問が。現代では、写真は聖書に変る新たな伝道の書として僕らの眼前に提示される。その点において写真と神父はそれほど変わることはない、と僕には思える。

Nikon Small World写真コンテスト2009年度の発表が先だって行われた。
顕微鏡写真は色鮮やかで美しく、造形も変化に富んでいる。おそらくミクロの世界は人間の時間より早く進んでいくのだろうか。毎年のコンテストで発表される一連の写真群はどれもが違う。僕らの領域が未だ太陽系を超えられないと同じように、ミクロの領域も当然のことながらあるのだろう。

ただ顕微鏡写真の技術面は年々その未知なる領域をも侵犯している。
Nikon Small Worldの一群の写真を見るとき、その美しさに息を呑むのだが、それでいて衝撃を受けるということでもない。既に僕らの眼は、日々生み出される無限とも思われる写真によって、新たな映像に対する感受性が鈍っているのかもしれない。

いやそうではない、と僕の感性は告げる。既にこれらの世界は見知った世界なのである。土星の衛星タイタンの写真を見たときも驚きは特になく、そこまでに人間が到達したのかと言う感慨しかなかった。タイタンの姿は想像を超えていたが、それでも僕らが信奉する物理学の枠を超えて存在しているわけではない。人間は対象をモデリングしイメージとして捉える。その中に、これらの一群の顕微鏡写真もあるのだと僕には思える。

無論、美しいし、見ることによって何らかのインスピレーションを得られるかもしれない。これらも我らの世界の一部に変わりはないのだから。

http://www.nikonsmallworld.com/

0 件のコメント: