2011/07/20

写真は理屈ではない、と言う語りは

写真は理屈ではない、と言う語りは写真の存在への確信が根底にある。私がこの写真を撮った時、私は確かにこの場所にいて、この被写体は私と同様に確かに存在し、私はそれに向けてシャッターを押したのだ。誰が否定しようとそれは間違いない。私がいて、そして被写体がそこにあった。この写真は私がこの場所にいた証なのだ。
そしてその写真を観た人たちも同様に確信する。確かにあなたはそこにいて、あの被写体を撮ったのだと。存在以外に何もない写真。もしくは存在がもっとも重きをおく写真。この確信は身体からの感覚を通してやってくる。そして私はついに口に出す。「その他にどんな意味があるのでしょう」と。

それでは一つ聞きたい。あなたが手にしているその小さな箱のような機械はなんでしょう。その箱には光を取り込む窓があり、そしてその光によって画像化したイメージを留めておく場所を持っている。カメラと呼ばれるその箱と出力物であり写真と呼ばれるそれは、近代の産業革命と決して無縁ではありません。それらは光学、化学、機械工学、数学などの様々な理論がなければ出来なかったものだし、そしてそれを造ったのは人間なんです。そのカメラのレンズは決して神の眼ではありません。その眼はあなたの存在を高所から保証するものではないのです。そして、人間は写真を意味もなく発明したわけでもありません。

無論、写真の存在と意味との議論がいまもなお続いているのは知っています。写真を撮り続ける時、避けることが出来ない議論だとも思っています。僕は上記のようなことをあえて語りましたが、本音では、写真の存在論は否定できないと思っているし、しかし逆に写真の意味も否定できないとも思っています。

ただ別の視点で、バルトが「明るい部屋」で語った以下の言葉について、この場で、一つだけ言いたいことがあります。

『それは必ずしも写真家の技量を証言するようなものではなく、写真家がただそこに居たと言っているだけなのだ。(中略) 「写真家」の目の力は、「見る」ことから成り立っているのではなく、そこに存在したということから成り立っているのである』

バルトの言葉は強力です。だから同じようなことを発言する人は本当に多いと思います。でも、あえて僕は思うのです。「写真家がただそこに居た」だけの写真であれば、僕は決してその写真を楽しむ事はないだろうと。また別のバルトの言葉で、『それは単に(私のために)存在していたのだ』とあります。つまり、この(私のために)の内実が問題なのだと思うのです。(私のために)がない写真は、本当の意味で、「写真家がただそこに居た」だけの詰まらぬ写真になっていたのでないだろうか、と僕は思うのです。

ただバルトの「明るい部屋」は何度も読み続けるべき本であると思うし、また読めば僕がいかに浅学であるかを再び認識させられることでしょう。
このテーマではおそらく何度も書いていくことになると思っています。

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