2011/07/14

Google Street View への写真家の感覚

2008年の記事だから感覚的に多少の古さは感じるが、Google が提供している「Street View」への面白い記事があったので掲載する。
http://www.pg-web.net/off_the_gallery/mishima/52.html

要旨を書けば、著者は以下の点で「Street View」に驚いたのだそうだ。

私が驚かされたことのひとつは、いったい何人のスタッフが動員されたのかは知らないが、顔も姿も数も見えない人びとによる組織が、たとえば東京なら東京じゅうのほとんどあらゆる道を複数のレンズをつけた球状のカメラ(であろう)を搭載した車で走り抜き、写真を撮り「つくして」しまったということだ。

著者はその上で「Street View」を『たとえばアジェがパリで本来達成しようとしていた仕事を、あるいは現代日本でGPS装置を使って写真画像と地図をリンクさせ歴史的かつ有機的な都市の「マップ」を再構成しようとしていると聞く熱心な人たちのいくつかの試みを、完璧に実現してしまった素晴らしい「作品」』ではないかと問いかける。そして以下に続く。
「無名性」とか「記録性」とかいった、写真家個人が撮った写真を「作品」と位置づけることに利ありとしてしばしば使われた言葉は、「Google Street View」に一瞬にして「総取り」されたのではなかろうか? 壮大なカネと時間を持つ組織の、無記名の不気味な意志と献身に、写真は結局、すべて吸収されてしまうのではないか?

この発想は極めて写真家らしいものだと僕には思える。正直に言えば、このアイデアは初めて聞いた。今まで 「Street View」に関わるコメントはセキュリティとプライバシーの事ばかりだった。僕自身も社会の中で監視システムが構築されていく中で、何を今更という若干斜に構えた視線で捉えていたが、結局のところそれだって大なり小なり同じ穴のムジナと言えばその通りだ。「アジェがパリで本来達成しようとしていた仕事」をGoogleが自動化されたコンピュータシステムにより簡単に達成してしまった、確かに言われてみればその通りかも知れない。

ただこれが驚きの主ではないと著者は続けて語る。彼が一番に驚いたというより気持ちが悪かったのは次となる。
この「街路の眺め」には、人がいない。
いや、人が写っていないというのではない、それは不正確だ。人の姿は写っている。ただし写った人は個人として存在しないように顔を消されている。顔があることを自動的に判断して「消し」を入れるソフトウェアが使用されているようだ。

筆者は被写体が笑顔になったときにシャッターが切れるようにする機能がついたデジタルコンパクトカメラを例えに出し、それと同じ事でとても気持ちが悪いことだと語る。そして続けて次の言葉をいう。『認識するとは、隠蔽することだからである』と。

何故そのことがそんなにも気持ち悪く『気色悪くて死にそうだ』とまで語るほどなのだろうか。ここからがこの記事の面白いところだ。筆者は写真の一つの特色をここで挙げる。
そもそも写真は、デジタル技術の進化などには関係なく、そもそもの始めから、撮る行為によってことの本質をわざと見落とせる都合のいい可能性をうかがわせていて、そのことゆえにこそ、誰もが広く使うようになる装置だったのだ

写真を撮ることで人は大事な部分を見落としている。それは写真として後で(この光景を離れてから)確認すればよいとの気持ち。無論のこと、写真による後での確認は、今この場でこの光景を眺めている心持ちとは全く違うのであるが。

これほどカメラが普及していなかった頃、といっても十分に普及していたのだが、多くの人はまだこの感覚「写真を撮ることで人は大事な部分を見落とす」を十分に持っていたように思える。今ではどうなのだろうか。写真を撮らず、つまりはカメラのファインダー越しに景色を見ずに、ただ自分の眼で景色を焼き付け記憶に残そうとする心はまだ十分に残っているだろうか。

大事な部分を見落とすその写真が、笑顔を判定し自動でシャッターを切り、そして自動で顔を消す。そう言う状況下を著者は気持ちが悪いと語っているのだ。


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