現代において「寂しさ」は表現しづらい様に思う。
「寂しさ」の理由を語れば、「誰もがそうだ」と遮断され、
「寂しさ」の表現を人に示せば、それは甘えと取られる。
そうやって「寂しさ」は自己の中に封印され、
その内実が心の中に塊となって残る。
孤独には「単独」と「孤絶」の二者があるが、
「寂しさ」はおそらく一つだけだろう。
人間が生まれ落ち存在することの寂しさ。
きっと人は孤独の中で死ぬことはなく、
寂しさの中でのみ死んでいくのではなかろうか。
西脇順三郎はその「寂しさ」を個人の問題としてではなく、
人間の本質として表現しようとした様に思える。
彼の初期詩集「旅人かえらず」を写真で視覚化したいと思った。
その企画は未だに実現していないが、僕の中に確かに残っている。
「旅人かえらず」のイメージは全体を「寂しさ」が貫いていなければならない。
人間にとって、普遍的な寂しさのイメージとは何だろうか。
もしかして、それは笑いの中にあるのかも知れない。
友との語らいの間の中にあるのかも知れない。
楽しい思い出と共にあるのかもしれない。
「寂しさ」という微妙な感情を表現するとすれば、
きっと、そのイメージはストレートな写真ではなく、
客観的な写真でもないはずだ。
それだけは何となくだがわかる。
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