2005/06/11

トーマス・ベルンハルト「破滅者」

「リヒター、グールド、ベルンハルト」(杉田敦)で何故この3人が並べて語られているのか、この本を読み始めたときは僕には少しもわかっていなかった。第一、これら3人の作品、リヒターの作品、グールドの演奏、ベルンハルトの小説、を一度も、見たことも、聞いたことも、読んだこともなかった。
そこで一旦中断しグールドを聞きベルンハルトを読もうと思った。実際にはグールドを聞きながらベルンハルトの小説「破滅者」を読むという事なのだが、これがやり始めると癖になるというか、僕にとってはとても心地好かった。グールドとベルンハルトは、音楽と小説のジャンルは違えども、とても相性が良かったのだ。

グールドの演奏曲は勿論バッハのゴールドベルグ変奏曲であるが、ベルンハルトの小説を読むことでグールドの何かが解り、グールドを聞くことでベルンハルトの何かが解る、そんな気さえする。
解る何かとは一体何だろう、それはグールドを聞いている最中、ベルンハルトを読んでいる最中に、僕の耳と眼、そして時々自然と黙読するために動く口、それらから僕の身体の中に、渾然一体となるグールドとベルンハルトのイメージを体験する事によって、漠然とそこにあらわれるもの、と言うしかないのが事実なのだ。
でもその時、杉田敦氏が、リヒターについては未だ僕には不明なのだが、少なくともグールドとベルンハルトに関しては、並び語る事がとても自然だと、僕は感じたのだった。

ベルンハルトの小説は、「破滅者」の訳者のあとがきによれば、とても読みづらい小説なのだそうだ。どういう小説なのかはこの「訳者あとがき」の一文を読めばよく分かる。

『一般の小説のように何か特別の出来事があって、それが展開し結末を迎えるというわけではなく、そのため、いわゆるあら筋というものはほとんど述べることができない。全体が書き手である「私」の<思い>なのであって、それが微妙に形を変えながら多層的に進行し、膨大な思考の流れを形成してゆく。なんと原書では、第一ページのこの三つの短い段落の後、全編にわたってまったく段落の切れ目がなく、「私」の思いが、長いセンテンスの積み重ねによって、つねに止まることなく進行し増殖するかたちで綴られてゆくのである』
(トーマス・ベルンハルト「破滅者」 岩下真好訳 「訳者あとがき」から引用)

人の思考というのは整理され秩序だって流れているわけではない。それは繰り返し繰り返し、一つの言葉、出来事、思い、記憶、イメージが現れては消え、もしくはそれを補足肉付けし、言葉として形づけられ、自分の信じる形となって表に出てくるものの様な気がする。さらに、前記の僕の言葉だけでも足りない出来事がこころの中でおこなわれている。それらを、そのまま何も手を加えずに差し出した時、この小説のようなものになるように思う。

この小説では、ほとんどの文は、「と私は思った」で終わる。一つの長いセンテンスの中に、この「と私は思った」は頻繁に使われる。

『途方もない巨大さをもったひとつの世界になろうとしていたものが、終わってみれば笑止な細部としてしか残らなかった、と彼はいったっけ、と私は思った。全て同じさ。いわゆる偉大さというものも最後には、その笑止千万さ、哀れさに感動を覚えるような段階に到達する。シェークスピアだって、ぼくらの見る目が鋭ければ、笑止千万なものに収縮してしまう、と彼はいったっけ、と私は思った。神々がぼくらの前に現れるのは、もう長いこと、髭を生やした姿で陶製のビア・ジョッキの植えにおわすときだけなのさ、と彼はいったっけ、と私は思った。』
(トーマス・ベルンハルト「破滅者」 岩下真好訳 から引用)

「と、私は思った」が頻繁に使われること、また同じ内容が執拗に繰り返される文体。しかし、まったく同じように見えても、少しずつ違い、それらが繰り返されることにより、最初とはまったく違う場所に知らずに連れられる。しかも、それらを読み手は意識することなく、読んでいると小説中の語りが、まるで自分の思考と同一化するようになり、登場人物である友人とグレングールドに対する気持ちが、そのうえで「私」と一緒になる。

登場人物の3人は、いうなれば大人になってからの引きこもりと言っても良い。あらすじは特にないと「訳者あとがき」では語っていたが、実際は「私」の友人の自殺とグレングールドの、二つの中心に「私」の思考は楕円でもって周回する。それは、片方の中心に近づくたびに速度を増し、離れると、また片方に向かって速度を増す。周回しながら、双方の点からの様々な記憶が「私」に付着し、それにより「私」の思考は肥大していく。

僕は「破滅者」をもうそろそろ読み終える。でもトーマス・ベルンハルトへの傾倒は始まったばかりだ。彼の小説をもっと読みたい、そう思う。「リヒター、グールド、ベルンハルト」を一旦中断していたが、とりあえずは元に戻れそうである。元に戻ると言っても、手ぶらのまま戻ったのでないことは確かで、逆に「リヒター、グールド、ベルンハルト」自体が脇道のひとつであるという事実を知ったことが一番大きいのかも知れない。

トーマス・ベルンハルト著作一覧(実際には小説30編・戯曲20編近くある)
・詩集『地上にて地獄にて』(1957) デビュー作品
・『霜』(1963)
・『石灰工場』(1970、邦訳あり) 在庫なし、中期代表作、これは図書館でしか読めなさそう
・『理由』(1975)
・『地下室』(1976)
・『呼吸』(1978)
・『寒さ』(1981)
・『子供』(1982)   上記『理由』から『子供』までの5作は自伝的小説
・『ヴィトゲンシュタインの甥』(1982、邦訳あり) 在庫なし、購入希望
・『破滅者』(1983、邦訳あり) 書店で多少の在庫あり、図書館から借りたが別途購入予定
・『消去』(1986、邦訳あり) 昨年邦訳されたばかりの代表作、購入済み

戯曲家としても『しばい屋』(1985)『リッチー、デーネ、フォス』(1986)『ヘルデンプラッツ』(1988)など多数の作品があるが、全て邦訳はされていない)

補足:最初にベルンハルトの事を知ったとき、何故だかユイスマンスを思い出した。勿論まったく違う。ベルンハルトには、三島が言うところのユイスマンスのデカダンスの香りは微塵もない。なぜ、ユイスマンスを最初に思い出したのか、単なる無知の技とは思うが、それこそ笑止であった。

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