2009/10/31

PC版GREEのリニューアルで思うこと

今更こんな話をするのは遅れているとの意見が出るのは承知の記事(笑)

11月初旬にPC版GREEが正式にリニューアルする。すでに試験的に運用されているので、使われている方も多いに違いない。今回のリニューアルの主旨は一言で言えば、『リアルタイム性重視にリニューアル』と言うことらしい。

具体的には幾つか機能追加と逆に機能削減があるが、方向としては「日記」+「足跡」のコミュニケーションからTwitterのようなリアル(今、何を)への変更だと言える。この考えはWebの世界では新しくもない。すでに数年前からWebコミュニケーションの流れであると言われ続けてきた。

結果的に「日記」はサブ的な位置づけへと転落することになるし、その為PC版の日記が持っていた幾つかの機能もなくなる。競争が激しいWebビジネスのことを考えれば、GREEの今回のリニューアルは別面で見れば遅いのかもしれない。
ただ、それまでは携帯に資本投資を集中し、一定の成果を上げてきたことを考えれば、GREEとしてはこれも計画の通りなのだろう。

生き残りをかけて厳しい戦いをしている。その為に変化をし続けなければならない。またその変化が正しいかどうかは誰にもわからない。
さらに変化は必ず利用者の不満をかうことにもなる。誰もが喜ぶ変化などおそらくないと思うし、切り捨てられたと感じる方もいることだろう。そしてその感覚は常に正しいと僕も思う。そしてビジネス的にGREEは離反率も予測を立てているに違いない。

ただGREEが自信を持って行うリニューアル、それは1千万を超えるユーザー数を背景にしているが、PC版にリニューアルが本当に今回のような『リアルタイム性重視』で良いのか、それがビジネス的に正しいのか?
つまりは携帯で培われてきた文化がPCでも同様に適用するのか?
そう考えると、まだ直感の域をでないが、違うのではないのかと言う思いも確かにある。(携帯でしか使えなかった伝言板がPCでも使えるのは嬉しいが)

つまり、携帯とPCの双方がコミュニケーションするための道具としたとき、両者はそれぞれの文化で棲み分けが今よりもっと明確になっていくのではなかろうか。携帯とPCとで同じものを同じように使えるようにする方向は正しい。しかし携帯とPCでの利用する環境および動機などは違うのではないのか。その違いが『リアルタイム性重視』という一つの方向でまとまるとは思えないのである。

利用者は携帯でGREEを利用するけど、場合によりPCでも利用する、そして両者の使い分けはその時の動機によって分ける、と言った選択肢を狭める結果となりはしないかと危惧しているのだ。それらをTwitter的なショートメッセージ化する方向での統一は誤りではなかろうか。少なくともPCに関しては。

どういう結果になるのか僕には正直わからないし、それなりに成功するかもしれない。(とGREEの経営者たちは言うことだろう)
ただ今回のリニューアルで、日記を中心としての素晴らしい書き手がGREEから少なくなるとしたら、とても残念なことだと僕は思っている。
(Webサービスと言っても、結局は人で成り立っているのだろう?)

*蛇足*
携帯で日記を書く場合、携帯に読みやすいように言葉を使い改行も行われる。PCの場合も同様だ。僕は殆どPCで文章を書いているので、おそらく携帯の人にとっては読みづらいことだろう。逆にPCからすれば携帯で書かれた文章は読みづらい。でもそういうのはそれほど大きな問題でもない。読まれる文章は結果的に何で書かれようとも読まれる。

2009/10/27

サルガド写真展のパンフレットを買わずに追分団子を買って帰った話

セバスチャン・サルガドの写真展に行った際、売店でパンフレットを購入しようかと考えた。価格も2200円なので写真展のパンフレットとしてはそれほど高くはない。そのつもりで手に取りパラパラとページをめくる。多少写真が小さいのは価格を考えると致し方ない。しかもパンフレットにはサルガドの言葉とか評論家の解説なども載っているから読み物としてもおもしろい。そんなことを考えてパンフレットの後ろにある解説を読んでみた。

名前は忘れてしまったが女性漫画家の解説と言うよりは個人的な感想文だった。彼女の感想は次のようなことが書かれていた。サルガドはフォトジャーナリズムを芸術の域まで高めた、ほかの芸術はもっとわかりやすくすべきだ、云々。

何を言っているんだろうこの人は、というのが正直な僕の感想。でもネットでサルガドのことを調べてみると案外に芸術家であるとの評価を持っている人が多いのに気がついた。どういうことなのだろう。

例えばだ、今回の写真展にこんな写真があった。ルワンダ紛争から一年後の1995年に撮影されている、ある学校にある数百のツチ族の遺体の写真。サルガドらしくその写真には吐き気を及ぼすような嫌悪感は少ない。しかし、この写真を芸術作品と言えるのだろうか。

その漫画家に聞きたいことは、彼女が考える芸術の定義そのものだ。仮に僕がフォトドキュメンタリーの一人だったとしよう。社会の問題点を僕の視点で切り取った写真が高く評価されたとしよう。その際、僕がその社会の問題を写した写真を観客が見て芸術性が高いと言われたとき、僕はジャーナリストとしてどう思うのだろうか。芸術という称号を与えられて喜ぶのだろうか。そんなことはない。逆に、芸術性が高いと言うことで、ジャーナリズムとしての写真の価値が下がるように感じることだろう。はっきりと言えば、自分が芸術家だろうがなかろうがそんなことはどうでも良い。それが一部の人たちにとって褒め言葉になるのだとしても、そういう称号に何の意味があるというのか。

芸術としての称号を与えることは作品を特別な位置に高める、という凡庸な考えはどこから来るのだろう。僕には殆ど理解できない。そして、それを基準にしてものを語る感想ほどつまらぬものはない。

それから芸術はもっとわかりやすく云々について、誰にとってわかりやすくなのだろうか。彼女がそういう風に思い語ると言うことは、その漫画家にとってわかりやすいということなのだろう。一般的にと言うのであれば、その基準などを明確にすべきであろう。そうでなければ単なる愚痴でしかない。さらに言えば、いわゆる芸術家たちはあなたのことを考えて創作活動を続けているわけでもない。

などと、その感想文を読んで頭の中で思った。お金を出してこの手の感想を読まなくてはならない道理などどこにもない。だから僕はパンフレットを買うのをやめた。

帰りに渋谷の東急東横店のれん街にて追分だんご本舗のみたらし団子などを約2000円分買った。これがセバスチャン・サルガドのパンフレット代わりだと僕は思った。

2009/10/26

東京写真美術館 セバスチャン・サルガド AFRICA展



セバスチャン・サルガドの撮る写真は美しい。そしてまさしくそのことが彼の写真の問題であると僕は考える。そして彼の写真が世界に多く受け入れられた理由としてその美しさがあるのも間違いない。

サルガドは現在でも活躍している著名なフォトジャーナリストでもある。その彼の30年間に及ぶアフリカでの撮影をまとめた写真展が東京写真美術館で開催されているので行って来た。美術館で入手したカタログには「フォトジャーナリズム」ではなく「フォトドキュメンタリー」とあった。そして彼はその「フォトドキュメンタリー」の先駆者でもあるらしい。

「フォトジャーナリズム」と「フォトドキュメンタリー」の区別は、両者は報道写真(フォトジャーナリズム)の範疇に入りながらも、前者がニュース性を求めることに対し、後者は写真家の視点を残しながら淡々と現状を切り取っていく姿勢にある。故にフォトドキュメンタリーの場合、写真家のスタイルが全面に出ることになる。セバスチャン・サルガドのスタイルを僕が簡単に説明することは難しい。ただ一目瞭然なのは、モノクロで広角レンズを多用し画面を大きく構成しているということだろう。

写真には不可視な何かが写っている。その何かを写真家はカメラのシャッターを押せば写りこまれるというわけではない。清水穣は、「それは写真に写っている対象の真実でもなく、写真を見て感じる我々の心理や感情とは無関係」として、その上で、「写真の奇跡は、見えないものが写るということである。見えていなかったものが写っているといっているのではない、写っているのだが見えないのである」とした。そしてその何かを写真的不可視であると語る。

写真として成立するためには、その不可視な何かが写っていなければならない。それを写真性と呼ぶのであれば、それでも良い。ただこの何かは写真家の思惑を超えて在るわけではなく、写真家とは無関係に在るのだと僕には思える。写真家のダイアン・アーバスは常々カメラは自分の思い通りにならないと言い続けた。思い通りにしようと望むこと自体、それは不可能なことなのだろう。

写真家が出来ることと言えば、多くの写真を撮ること、そして多くの写真を見ることしかないのでなかろうか。その上で、不可視の何かが写りこまれている写真の選択にのみ写真家の自己表現があるといったら言いすぎだろうか。

写真は写すものを美しく見せる、とは確かスーザン・ソンタグの「写真論」での言葉だ。彼女の写真論の基軸には「他者の苦痛へのまなざし」があるように思う。そしてこの基軸の言葉はそのまま次の写真論のタイトルにもなった。

彼女はこの「他者の苦痛へのまなざし」の中でセバスチャン・サルガドのある一枚の写真「集団移住者の群れ」に向けられた批判を肯定している。批判とは「スペクタクル的で映画的とされる美しい構成をもった大きな写真」を写したことで、個々の問題と悲惨さが無化され、かつ抽象化され、それらの問題解決に向かわないということにあった。
『現実がスペクタルと化したと言うことは、驚くべき偏狭な精神である。それは報道が娯楽に転化されているような、世界の富める場所に住む少数の知識人のものの見方の習性を一般化している』
(「他者の苦痛へのまなざし」 スーザン・ソンタグ)
記号としての写真は、これも清水穣の言葉を借りるのであれば、表象がない指向対象(レフェラン)のみの特殊な記号である。例えば雲の写真は雲が写真にあるのではなく、雲の指向対象(レフェラン)が写っているということになる。それであれば、他者の苦痛が写っている写真のレフェランとは何になるのであろう。

原理的に他者の苦痛を僕らは知ることは出来ない。それでも人間の社会構造はいかなる文化であろうとも同一であるという立場から、僕らは他者の痛みがどの様なときに起こるのかを把握する。苦痛の原因・苦痛の表象・苦痛の内実、僕らにわかるのはそのうち原因と表象となるのだろう。アフリカでの苦痛の原因の多くを僕らは知っている。貧困・飢餓・紛争・破壊・病気・虐殺などなど。そしてそれらの原因と表情に現れる苦痛とで、その写真に写る人の痛みを感じることとなるのだ。つまり苦痛の対象指向とは、写真の誰それに向かうと同時に僕らにも向かうのである。
『震撼させる写真が衝撃の力を必ず失うとはかぎらない。だが理解するということにかけては写真はそれほど助けとならない。物語はわれわれに理解させる。写真の役目は違う。写真はわれわれにつきまとう。』
(「他者の苦痛へのまなざし」 スーザン・ソンタグ)
つきまとうのは何か。それは僕らに向かうレフェランではなかろうか。仮に写真に写る不可視の何かが薄まったとしたとき、もしくはレフェランが弱い場合、その写真には何が現れるのだろう。無論、これらは可算名詞なのかと言った問いかけもあるとは思う。その点について僕には未だ分からない。ただサルガドの写真を説明する際、その言い方が適切のように僕には思えるのだ。

セバスチャン・サルガドが写した様々なアフリカの風景は美しい。砂漠を写した写真は何度見ても飽きない。10頭近くものシマウマが並んで池の水の飲む姿は、シマウマの模様が群れ全体で一つの調和をなし、それだけでも何らかのデザインとなっている。アフリカに住む人々の姿は躍動感に満ち、瞳は美しく、命の美しさを讃えているかのようだ。

そして内紛・紛争・虐殺に逃れた人々の難民キャンプの風景も美しい。ある写真では、兵士二人が砂丘に立ち、その足元には完全に腐乱し人間の原型をとどめていない死体が大の字になって倒れている。兵士の顔はその死体に驚くこともなく平然とした顔つきで立っている。その写真は不思議なことに嫌悪感を持つことがない。美しいのだ。兵士も、彼らが立つ風景も、そして無残に朽ち果てた死体も。

また別の写真では食料の配給を待つ女性が体を斜めにし顔をカメラに向けていた。彼女の目は不思議な模様を見せていた。説明文を読めば砂嵐と慢性の眼病で視力が失われているのだそうだ。しかし写真の構図とまっすぐにカメラを見つめるその姿は美しい。

セバスチャン・サルガドの写真はよく言われるように映画的である。それは僕らが美しいと感じる構図とコントラストによって構成されている。こうあるべきだという美しさのフレームワークに僕らは逃れることはできない。そしてそれは逆に僕らが望んでいる美しさでもある。美しい写真は、人間である限り同じ価値観を共有するという安心感を根拠無く与えるが、写真の衝撃とつきまとうものは殆ど無い。

スーザン・ソンタグの問題提議を無視することは難しい。ただサルガドへの写真評価に係わることは、批判する者も擁護する者も、両者の倫理観もしくは写真に係わる信念の対立とも言える。それらの闘争にどちらが勝っていると誰が言えるのだろう。

サルガドの写真にはレフェランの強さがない。もしくはレフェラン自体が欠けている。故に写されたものは、その写真に留まることになる。写された対象は写真の構図の中で留まり、よって対象とその構図からの美しさが全面に現れる。例えが悪いが、サルガドの写真は観光地の絵はがきに近い。しかもそれは廃刊となったリーダーズダイジェストなどに掲載される珍しくも美しい写真に近いかもしれない。

ただその観光地の絵はがきに数十万人の難民が生活するキャンプも写され、その中で暴動・殺戮が頻繁にある姿があったとしたら、見る者は美しいと同時に一種の違和感を感じることだろう。そういう種類の違和感が、サルガドの写真を見終わった後に残り続ける。それはまとわるといった種類ではないが記憶には残る。

確かに写された人々の個々の問題はサルガドの写真では無化するほかはない。それはサルガドの写真の本質に係わる部分だからだ。だからといってアフリカの現状を伝えていないというわけでもない。サルガドの写真は写真であることを抑えることで、逆にアフリカの状況を伝えているのだと僕には思える。

※写真は、「パガラウ放牧キャンプのディンカ族、南部スーダン、2006年」
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セバスチャン・サルガド アフリカ
生きとし生けるものの未来へ

東京写真美術館
■会 期:2009年10月24日(土)→12月13日(日)
■休館日:毎週月曜日(休館日が祝日・振替休日の場合はその翌日)
■会 場:2階展示室
■料 金:一般 800(640)円/学生 700(560)円/中高生・65歳以上 600(480)円

2009/10/24

Windows7

昨夜Windows7をインストールした。会社から帰宅しすぐに始めた。

僕のPCはDELL製ノートブックで製品名はinspiron1520。DELLサイトを見るとこのノートはWindows7対象製品扱いではなかった。しかもOSはWindowsXP。ただこれを購入するときに、VISTAもしくはXPが選択可能になっていて、僕はXPを選んだのだから、当然にVISTA対応PCでもあると考えていた。VISTA対応PCであれば問題なくWindows7をインストールできるはずだ。あとはやってみて何か問題があればその都度対応すればよい。いつもの気楽なノリで始めたのである。

実を言えば、なぜか昨日は気持ちが穏やかではなかった。こういう時は1ヶ月のうち何日かある。イライラとする訳ではなく、ただ気持ちが定まらずに落ち着かないのだ。おそらく僕のそういう気持ちの状態を他の人は分かることはないだろう。僕だけが感じ、そして大抵は普段通りに動きながら、内心はじっとこの落ち着きのなさが通り過ぎるのを待つのだ。

昔、友人にそのことを話したら、それは男の月のものだと一笑にされた。冗談のつもりで彼は言ったのだろうが、僕はそれを信じている。生命が雌と雄に分化した際、雄は雌から造られた。生命にとっては子孫を産む機能を有する性の方が重要なのは当然なのだから、雄は言わば種を存続させるために雌から産まれたようなものだろう。逆に言えば、男性は女性の機能のほとんどを有している様に思う。子を産む以外は。だから、彼の冗談は僕にとっては冗談ではなく、その通りだと思ったのだった。

ただこれまでの過程の中で、社会的な役割分担の結果、些末な差異が男性と女性に現れているとも思っているが。

その落ち着きのない気持ちの状態の中でWindows7のインストールは行われた。
WindowsXPからのインストールはクリーンインストールとなる。つまり、PCの中のものは結果的にすべて消去することになる。だからまずはバックアップをとらなければならない。僕にとって重要なデータは、文書データ、音楽データ、そして写真のデータだ。そのうち文書データはネット上で常にバックアップはされている。さらに文章を書くのは、今ではほとんどがGoogleドキュメントなどのWebアプリを使っているから、バックアップする必要はない。メールデータも同じだ。写真データも同様にネットを含めて常にバックアップをしている。さらにソフト類もネットに繋がってさえいれば概ね復元は可能だ。

OSの再インストールをするときにはいつも思うのは、僕の個人情報はGoogleそのほかのサービスプロバイダーに握られていると言うことだ。その反面に僕は利便性を手に入れている。このモデルは今の社会に至るところにある。それが良いのか悪いのかはもう少し先に行かなければ分からないかもしれない。

ただデータの中で音楽データだけはその限りではない。僕は音楽の再生に
AppleのiTunesを使っている。音楽データだけで40GB近くある。そしてその殆どをiPodに入れている。容量が多いためネット上に置いておくことは全曲となれば難しい。だからこれに関してはきちんとバックアップしておかなければならない。そう、それに気がつけばの話だが。

ここまで読んでくださった方であれば、すでにおわかりのことだろう。音楽データの幾つかを僕は消去してしまったのだ。

Windows7へのインストールは思った以上に簡単で早かった。新規インストールのボタンを押下すれば、後は殆ど自動的に行われた。全く問題がなく僕はWindows7に移行することができた。
Windows7の操作性はXPと較べると全く違う。VISTAを使ったことがなかったので最初は戸惑ったが、それも1時間くらい触っていれば慣れた。早さもXPと較べて違和感がなかったから、VISTAと較べればだいぶ早いに違いない。

音楽データの幾つかを消去してしまったことに気がついたのは、Windows7になれ始めた頃だった。特に一番ショックだったのは、「マーティン・スコセッシのブルース全集」。これはあのTSUTAYAにも置いていないと思う。(単品では幾つか置いてあるとは思うが・・・)僕はこれを図書館で1年以上待って借りてきた。しかもこの全集はiPodにも容量の問題があり入れていなかった。

そしてもう一つ、これは蛇足だけど、いつも使っているネットサービス「NHKオンデマンド」もWindows7対応になったいなかった。人形劇「新・三銃士」をみることができない・・・

Windows7には今のところ満足している。XPと同等の速度があり、機能的にも洗練されているのであれば文句はないだろう。ただPCとは自分のやりたいことをするための道具だとすれば、いくら道具が優秀でも材料がなければやはりものは造れない。無論、Windows7の理由でも何でもなく、僕の問題だとは知っているが。

2009/10/20

Nikon Small World

神々の創造はミクロに宿る。猫の造形は既に遺伝子の中に宿っているし、その遺伝子は数十億年と言う生命の繋がりの中で形成してきたのだから。
つまり神の創造は生命誕生のその瞬間にあることになる。ただその瞬間は地球と言う銀河系辺境の惑星があればこその起点でもある。ゆえに神の御手はさらに遡る事が出来る。最終的には宇宙誕生の瞬間にこそ神の奇跡が行われたと言う事になるかも知れぬ。それであれば、宇宙誕生以前の無の中で神は一体何処におわしたのだろう。

ミクロの世界への旅はゆえに広大な宇宙への旅に似ている。そしてどちらもが人間の領域を離れる旅でもある。しかしその領域も一旦写真に収められれば状況は一変する。写真として撮られることで、その領域は人間の場所に変っていくのだ。写真は、いわば植民地主義の尖兵の役割を担っている。それはキリスト教伝播の際に神父を最初に送り込むのに似ている。

写真はどこが神父に似ているのだろう。宗教と科学という区分けはあまりにも陳腐かもしれない。中世と近代と言う歴史区分はあまりにも欧米的だとの謗りを受けるかもしれない。それに僕自身がこのような時代区分に組しないのもある。ただカメラ及び写真技術の誕生と発展は近代と密接に絡んでいるようにも思えるのも事実だ。

カメラと言う道具は単に化学・物理的反応を起こす箱に過ぎない。問題は写真そのものにある。例えば、写真史を認識論を中心にして眺めると一つの疑問が浮かんでくるのだ。「一体何故僕らは写真に写りこまれた画像を過去の事実として信じるに至ったのか」という素朴な疑問が。現代では、写真は聖書に変る新たな伝道の書として僕らの眼前に提示される。その点において写真と神父はそれほど変わることはない、と僕には思える。

Nikon Small World写真コンテスト2009年度の発表が先だって行われた。
顕微鏡写真は色鮮やかで美しく、造形も変化に富んでいる。おそらくミクロの世界は人間の時間より早く進んでいくのだろうか。毎年のコンテストで発表される一連の写真群はどれもが違う。僕らの領域が未だ太陽系を超えられないと同じように、ミクロの領域も当然のことながらあるのだろう。

ただ顕微鏡写真の技術面は年々その未知なる領域をも侵犯している。
Nikon Small Worldの一群の写真を見るとき、その美しさに息を呑むのだが、それでいて衝撃を受けるということでもない。既に僕らの眼は、日々生み出される無限とも思われる写真によって、新たな映像に対する感受性が鈍っているのかもしれない。

いやそうではない、と僕の感性は告げる。既にこれらの世界は見知った世界なのである。土星の衛星タイタンの写真を見たときも驚きは特になく、そこまでに人間が到達したのかと言う感慨しかなかった。タイタンの姿は想像を超えていたが、それでも僕らが信奉する物理学の枠を超えて存在しているわけではない。人間は対象をモデリングしイメージとして捉える。その中に、これらの一群の顕微鏡写真もあるのだと僕には思える。

無論、美しいし、見ることによって何らかのインスピレーションを得られるかもしれない。これらも我らの世界の一部に変わりはないのだから。

http://www.nikonsmallworld.com/

Kiss

a long long kiss
a youtuh of kiss
and love

長き熱きくちづけ
若き日のくちづけ
そして愛
(ランボー、堀口大學訳)

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あなたの柔らき唇
私の牧場
かすかに触れる
熱の吐息に震える心
命の芽生えにも似た
その息吹に
何故か昔を懐かしむ

紅きくちづけ
閉じられた眼差し
濃密な光
差し込むその中で
あなたの火照る耳たぶを
その熱さと共に
私の体内に
包み込む

私とあなたとは
137億年の彼方
今ここにいる不思議さに
意味も理由さえ
呼ぶ必要のない
その瞬間に
私は存在の危うさの中で
あなたを確かに
触れるのだ

永遠の如きくちづけ
想い出のくちづけ
そして愛
(ランボー、Takeru意訳)

アルチュール・ランボーは1854年10月20日に生まれる。今日は生誕155年目。この詩は中学のときに知りとても感動したことを覚えている。今となってはその感動も薄れてしまった。
ランボーの詩に影響を受けた日本の詩人と言えば中原中也。彼の有名な詩「汚れつちまつた悲しみに」の「汚れちまった」とは「自意識の過剰云々」とは聞くが、具体的に言うと「嫉妬心」ではなかったのかと僕は密かに思ってる。

2009/10/13

感性についての拙いメモ

果たして僕の感性は年齢と共に衰えているのだろうか、と自問してみる。

答えは既に僕の中に用意されている。論理的には回答不能であり、問題にはならない問であるという結論だ。

人間はそれぞれに一回性の生を生きている。その人生の中であらゆる出来事は一回性の出来事である。仮に10年前と全く同じ出来事が今日起きたとしても、それぞれに一回性の出来事なのだから、その両者はその意味で違うことになる。

その違う出来事同士の比較は、感性を果たして比較可能かどうかは別として、表象される事象での比較にならざるを得ず、それは両者が違うことの証とはなりえるだろうが、価値評価までは難しいと思うのだ。

ただしかし、過去に抱いた感性の記憶が、現在のそれと比べ、衰えていると感じるのは、感じるその人にとっては実感でもある。その実感を否定することは僕にはさらに不可能なことと考える。
ちなみに僕の場合は、若いときの感性は素朴であった、だから素朴ゆえの強い説得力を持っていたかもしれない、ただそれは現在が衰えているということの証拠には繋がらない、程度には言えるとは思う。勿論、それは「そう思う」としか言えず、証明することは不能だと考えるし、これから先のことはわからない。

ただここで僕として注意しなければならないのは、年齢による衰えと言葉を綴った瞬間に既に一つの価値観で縛られていると言うことだ。衰えとは、おそらく現在では良いとはされていない。年齢による感覚の「衰え」の中に記憶力の「衰え」があるとしたとき、記憶力の衰えは記憶力が悪いという言葉に繋がる。言葉を正確に言えば、これらは「衰え」ではなく「変化」であろう。

言葉が内包する価値に反抗して物事を語ることは不可能に近い。仮にそれが出来たとしても、相手に伝わることがないのだから。言霊とはよく言ったものだ。象形文字から変化し、その組み合わせから成り立つ漢字を母体にした日本語表記は文字一つに様々な意味を持つ。明治以前は日本には5万語に及ぶ漢字が使われていたのだそうだ。その時代であれば、僕が伝えたいことを漢字で表すことができたかもしれない。勿論、漢字の量の多さでも難しいと直ぐに気が付くが・・・。

「感性」という言葉は西周が造った。つまりそれ以前には存在していない日本語だった。その他に「理性」「悟性」「主観」「客観」「意識」「現象」などなど、西洋から伝わった概念は何故か漢字二文字の熟語が多い。西周が造ったこれらの言葉には漢字文化圏を背景を持ちながら、そこにキリスト教的世界の価値観が挿入されている。おそらくこれらの言葉は、僕らが知らずのうちに使っているにせよ、それらから逃れることは難しいだろう。

話を元に戻す。感覚は人間の感覚諸器官からの刺激を受けて情報の取捨選択を行う機能を持っている。人間関係の中で、感覚が合う合わないは取捨選択する情報を表象することで実感することになる。感覚は実感を伴う。

肉体的な感覚機能が変化したとき、例えば視力が良かった人が、老眼により近くのものが見えづらくなったとき、その方の感覚はそれに応じて変化するのだろうか。正直に思うのは、影響を受けないはずはないということだ。ただ感性の違いを他者がわかることはないのではなかろうか。よってこの問は無意味なのかもしれない。

仮に、皮膚から突然に何も感じなくなった人がいたとする。痛いも寒いも感じないその方は、それでも痛い寒いがどのような状況で現れるのかを記憶している。よって他者とのコミュニケーションの中で、相手にそれを感じさせることなく対応することが可能となるし、おそらくその様に対応することだろう。

感性は感覚からの情報に価値判断を付与する。「美しい」「美味しい」「うまい」「良い」などの価値評価を下すことになる。おそらく感性は感覚を土台にするが、感覚と感性はそれぞれが独立しているようにも思う。例えば富士山を認識するが、それに対し「美しい」とかの価値判断を行えない人はいるかもしれない。ただ僕としてはその逆は無いと考えている。富士山を認識せずに「美しい」とは思えない。

感性の違いは価値判断の違いとなって現れる。これは人間関係の中で、特に価値観の相違となって現れるように思う。よく聞く「価値観が同じ人」というのは感性が似たような人と同義ではないだろうか。そしてその価値観は、生来から持つ動物的価値観と訓育から得る価値観との二つに分かれるように思う。勿論、ここで言うのは訓育で獲得する価値観のことである。

感性はその枠を広げることは可能だと僕は思う。広げるためには感覚への新たな刺激が必要となる。その際に、感覚として捨て去る刺激ではなく、逆に捨て去ろうとすることを防ぐ力が必要となるように思う。ただそれは感性だけでは難しいように考える。おそらく悟性が必要となるのだろう。悟性とは自分であり続ける意識のようなもののように今のところ思っている。意識との違いは視点の違いだけかもしれない。

感性が豊かなこと、感性の枠を広げること、それらは一概に良いと言うことではない。物事にはやはり一定のバランスが必要なのだ。無論、僕はバランスが必要なことを証明することはできない。ただ人間社会の中で、並外れた豊かな感性を持っている人と殆ど枠がないほどの感性の広がりを持っている人がいたとき、これらの人はおそらく社会から排除されるか自滅をしていくことだろう。

全てを肯定することも認めることもできるわけではないのだから。

2009/10/12

2009年10月11日、新宿

2009年10月11日の朝、目覚めたとき友人宅に行こうと思った。外は快晴、雲一つ無い青空が家の中でもわかる。手短に行く準備を済ませる。何も持たなくても良い、カメラさえあれば。朝食は途中の適当な場所で済まそう。まずは渋谷に行くのだ。

渋谷から大宮へ、そして新幹線を使い高崎に。頭の中でルートを確認する。時刻表を調べずとも行った先で一番速い電車を乗り継げばよい。今からだと11時前には目的地に付けるだろう。

大宮に着いたとき、念のため友人の携帯に電話する。友人が出る。久しぶりの声だ。
「久しぶり、元気か。今大宮だ。これからそっちに行こうと思う。大丈夫か」
一瞬電話の先で声が詰まるのがわかる。嫌な予感だ。
「悪い、今家じゃないんだ。仕事でちょっと出ている。悪いな」
「そっか、気にしないでくれ、いきなりだっったこっちが悪いんだ。またな」

こうなると大宮に留まる理由がない。上野まで行くか。上野周辺で写真でも撮るか。予定を切り替えるのもこうなると早い。そして丁度来た上り電車に飛び乗る。しかしどうやら、今日の僕の運勢は予定通りに事が運ばないようだ。乗った電車は上野行きではなく、神奈川方面行きだった。それに気がついたのは、電車が池袋に止まったからだった。それまでは全くわからなかった。しょうがない、それじゃあ新宿にでも行こう。

予定通りに行かなければ、こちらから失敗を予定とすればよい。単純なことだ。それに新宿も久しぶりだ。歌舞伎町から新大久保・大久保あたりを歩こう。それはそれでワクワクする計画であった。

僕が住んでいる場所からすれば新宿は近いながらも殆ど行く必要がない場所だった。だいたいが渋谷で用が足りたのだった。それでも学生時代から、映画その他で年に数回は新宿に来てはいた。ただ歌舞伎町付近には足を向けることはなかった。足を向けなかったのは特段の理由はない。例えば物騒だとか、そう言う理由は全く考えなかった。たまたま行く機会が無かっただけのことだ。

歌舞伎町および新大久保周辺に行き始めたのは社会に出た後のことだ。仕事に疲れたとき、新宿は僕にとって疲れを癒す場所であった。飲んで憂さを晴らす場所という意味ではない。もしくは風俗と言うわけでもない。ただ、新宿には発散し収まる場所を知らずに渦を巻く欲望の気がそこあそこにあったように感じたし、その中にいることで、その中をただ歩き回るだけで、僕は何故か癒されたのだった。

その当時は、少なからず新宿から新大久保までを歩き、そして様々な人を見てきた。そこにはおそらく日本にいるあらゆる種類の人が濃密で圧縮された空間にいるような印象を持った。大久保周辺では街に立つ女性は区画毎に国籍が違っていた。道を曲がるたびに、ロシア語・スペイン語・英語・韓国語・中国語などなど、が飛び交い。そして歩く男の腕を引っ張っていた。

何度か殴り合いも見たし、危険な状況にも遭遇した。ただ僕のような見るからにサラリーマンにはこちらから向かわない限り、相手も無視していた。彼らにとっては大事なお客さんでもあるのだ。

久しぶりの新宿を歩き僕はそんな昔のことを思い出していた。その当時と今とを比べると、再開発もしくは色々な法律の施行により、すっかりと当時の面影が無くなっていた。無くなるというのは、見えなくなったと言うことと同義でもある。通りはゴミもなく綺麗で人は行儀良く歩いている。歌舞伎町と大久保の真ん中にある公園では子供達がバスケットで遊んでいた。化粧の濃い女達が通り過ぎるが、今の目線で見れば彼女たちも普通に見える。

昼の歌舞伎町・大久保はどちらかというと観光地でもあるようだ。行き交う人はカメラを携え、方々で写真を撮っていた。カメラを持っているのは僕と同じだが、旅行者はすぐにわかる、彼らはだいたいが男女二人連れで、そのうちの一人だけが写真を撮っているのだ。

元新宿コマ劇場前の広場で歌舞伎町祭りが開催されていた。舞台では女性が歌っていた。歌い終わると自分の芸名を連呼していたが、聞く段から忘れてしまった。舞台前では50人くらいの人が椅子に座っておとなしく歌を聞いていたが、殆どが年配者だった。周囲には椅子に座らずに地べたに座り舞台を眺めている男達がいた。会話も少なく、昼間だというのに、彼らは眠たそうな眼をしていた。

それ以上に気がついたのは巡視している警官の多さだった。至る所で警官が歩いていた。見上げると監視カメラが方々に設置されている。通りは広く、そして昼間と言うことだけでなく明るい。

大久保周辺はコリアタウンとしてすっかり観光地化していた。韓流の品々を売る店では女性達が列をなして並んでいた。少し路地を入ると、そこには韓国料理の店が並び、それなりに人が入っていた。

初めて大久保に来たとき、僕はその街に多くの韓国人が住んでいるとは知らなかった。そこにキムチ専門店があると人から聞いてやってきたのだ。その当時はコリアタウンという名称もついていなかったように思う。普通のどこにでもあるような街だった記憶がある。

僕が大久保の韓国人社会の事を知ったのは、一人の女性と知り合ってのことだ。彼女とはたまたま渋谷の書店で知り合った。日本の勉強ということで書籍を探しているのを手伝ったのだ。それが縁で僕らは時々会うようになった。無論、単に友人としての関係だった。彼女は韓国で舞台俳優の経験を持ち、また若いながら青年実業家として雑誌に紹介されるほどでもあった。しかし事業に失敗し、逃れるように日本にやってきたのだった。

たいていに連絡をよこすのは彼女の方からだった。僕はその都度彼女の家に行き、そこで色々な話をした。そしてそこで大久保の韓国人社会の話を聞いたのだった。数十人で集まり、月々一定のお金を集め、お金が必要な人がそれを使い、後で返済するような仕組みを、横の繋がりの中で行っていることも知った。また金貸しもいて、取り立ては日本のそれよりも厳しく、決まった時期に払わないと売られてしまうことになるとも聞いた。さすがに人身売買の話が出ると無茶な話だと思ったが、それがその当時の、もしくは今でも、日本で生活する外国籍女性の現実でもあるようだ。

野心的な彼女は日本で事業を興すために風俗で働いていた。最初の事業はだからか風俗店の経営だった。しかし店員である女性との金銭問題でつぶれてしまう。その次は韓国バーの経営だった。その際は東京を離れ地方での事業だったが人が集まらず数ヶ月で店をたたむことになる。二度の挫折と、その度ごとの身を売る仕事。そして彼女は再起を果たすこともなく韓国に帰国していった。

彼女の人柄を僕はどう語るべきか。最初から最後まで僕らは友人だった。そして僕は会話の中で、彼女から人間について色々なことを教わった。彼女は凛として気品があり聡明で美しかった。時としてその気位は、共に仕事をする女性から見ると嫌気がさしたかもしれない。そのくらい彼女は自尊心が強かった。常に率直な意見を言い、僕の意見に誤りがあるときは容赦がなかった。しかしそれでいて友人を気遣う気持ちを忘れることも無かった。だから僕は友人として彼女を尊敬していたし、それは今でも変わらない。

時々思うことがある。一般的な意見として、男性と女性が付き合うとき、女性は上書きするが、男性は常に以前の女性を覚えているのだそうだ。そうであれば、ある女性がその時にその場所にいたという事実とその女性の物語を語るのは男性の役目なのかもしれない。韓国籍の彼女と僕は完全に友人同士ではあったが、彼女の物語を僕は忘れることはない。

2009年10月11日の大久保での徘徊は、写真を撮るのも忘れ、そう言う記憶の中で行われた。

それから僕は再び新宿に戻った。そして思い出横丁で写真を撮る。新宿再開発の嵐の中で、この思い出横丁は取り残された空間のように写るが、しかしそれはそうではないことにすぐに気がつく。路地の真上に通された電線・ライト・監視カメラの配管は、そうすることで生き残りをかけた横丁の意志が現れているかのようだ。つまり横丁は以前の横丁ではなく、他の開発された新宿の地域と同じく、テーマパーク化されているのである。

開発は常に以前の街のコミュニティを破壊することで行われている。街のコミュニティを破壊するか、もしくは残すことで時代の流れの中で朽ち果てるか、現在ではその二者択一しか残されていないかのようだ。その別の解としてテーマパーク化があるとしたら、それはそれで良いのかもしれない。

僕のその語りが野暮なことは知っている。新宿の街を訪れる人たちはそんなことは百も承知の話なのだ。あえて言うことの無意味さと素朴さに我ながら嫌気がさすが、それも久しぶりの新宿に来たことで表面化した感傷なのだろう。

2009/10/06

SAICO「mother」を聴いて曝け出す謎を思う

2005年のSAICO「CEREAL」を2009年に聞き始める。90年代、僕の音楽に鈴木彩子は欠かすことができない存在だった。再起不能と言われるほどの大事故、そしてリハビリ、再起後のCD発表後にメジャーから姿を消す。そして復活して最初のCDである「CEREAL」を2009年に僕は聞いている。

WikipediaでSAICOを調べると以下のように説明がなされている。

『SAICOの特徴として、自らの個人的な生い立ちや体験を積極的に歌詞の中に織り込むことがある。歌詞だけではなく、ラジオのトークなどでも紹介される。非常に重いエピソードもあるが、それをも曝け出すことで支持を得ていることも事実である。』(Wikipedia SAICOより)

「CEREAL」の曲の一つである「mother」では父親の焼身自殺未遂と愛人通いそして両親の離婚が綴られている。それだけを聞けば確かにWikipediaに書かれていることが事実の様に聞こえる。

『パパとママが愛し合い抱き合って産まれてきたの
だけどいつからか二人寄り添うことはなかったの
川辺で焼身自殺をはかった父は今も
生まれ変わらずに愛人にへばりついているみたい
それでいいよ、すきにしてよ』
(SAICO 「mother」より)

「曝け出すこと(さらけだす)」とは、辞書によれば、「おもてに表れていなかった物事を、隠すところなく出す」行為だという。例えば言わなければ分らなかったことを語ることとか、服で包まれた裸体を他人に見せることとか、そういうことを言うのだろう。

でも程度により「曝け出す」とは言われないこともある。昨日の夕食に何を食べたかを語ることを曝け出すとは通常は言わない。腕に傷を作り絆創膏を貼ったのを、袖をまくり見えてしまうときも同様だろう。「曝け出す」と言われる場合と言われない場合がある。その線引きは言葉として明瞭であるかと言えば、僕らは言葉を濁す。ただ僕らは何故か、多少のグレーゾーンはあるが、それらを知っている。

SAICOの作詞において僕が感じるのは彼女の誠実さである。彼女が暴露趣味があるとか、そういうことではなく、作詞をする際に何故を繰り返すことで帰着する自然な結果だと僕には思える。特に内省的な作詞が多ければ、その作詞を行う契機を振り返り、その大元を辿る結果として「曝け出す」ことになるのだろう。

アーティストの多くはそう言う人たちなのではないだろうか。そして、音楽も文学も絵画も、その視点で言えば、自らの何かを曝け出している結果と言えないだろうか。しかも彼らは「曝け出すこと」を目的にしているわけでは決してない。そのように評価しているのは僕ら観客の様に思える。

「曝け出す」とは彼女の曲を聞く側からの感覚のように思う。何もそこまで書かなくてもという感覚もそれはそれで通常だろうとは思う。しかし、おそらく彼女にとってはそうではなく、そこまで書かなくては見えてこない世界があって、それを現したいように思えるのだ。そして、そうさせるのは彼女のアーティストとしての誠実さであると僕は思う。

詩人は作詞の際に読者を想定せず、音楽家は作曲の際に聴衆を考慮せず、画家は絵を描く際に観客を考えない。彼らはおそらく他者を喜ばせるために創作してはいない。SAICOは5年ぶりのCDを出す際に良いものを造ろうと思ったはずだ。もしくはそれも考えなかったのかもしれない。良いものとは、それは自分の中にある。決して他者にあるわけではない。自分の中にある良いものを追求すること、そして表現すること、それに集中すること、それのみが彼女が思っていたことのように僕は思う。

SAICOの曲を聴いたとき、作詞に曝け出したSAICOの姿を見たとき、その姿を見たものはSAICOの何を見ることになるのだろう。「曝け出す」ことの線引きは、おそらく「曝け出された」ものの衝撃の大きさによって決まるのだろう。では衝撃が大きければ、「曝け出された」ものが多ければ、「曝け出された」分、それを見る者・聞く者・読む者全ての者たちはSAICOのことが解るのだろうか。

米国の写真家ダイアン・アーバスは生前こんなことを語っている。
「写真とは、秘密についての秘密である。写真が多くを語るほど、それによって知りうることは少なくなる」

例えば、彼が、彼女が裸になれば、僕は、あなたは彼を、彼女を知ったと言えるのであろうか。彼と、彼女とSEXをしたとき、僕は、あなたは、彼を、彼女を全て知り得たと思うのであろうか。多くを語るものは、多くの謎を聞くものに与えるように僕には思える。謎とは、何も情報がないことだけではない。情報過多のときにこそ謎は発生するのだとも思える。

愛している彼女を、彼を抱いたとき、そこから全く新たな謎が産まれるのだ。辿り着こうとしても辿り着けない先にあなたがいる。僕はSAICOの歌を聴くときそれを感じる。それを人はなんて言うのだろう。その状況下で愛は私とあなたをつなげることができるのだろうか。

曝け出すことで、観客はわかったという幻想を得ることになる。衝撃が大きければ大きいほど、その衝撃しか見えていないのにも係わらず、何かを得たと思うのだ。しかしそれだけでは長く彼女の歌を欲する者たちがいることの理由にはならない。曝け出すことで支持を得ているとは、いわば初動的な要素でしかない。彼女が5年のブランクの後復活したときに、それを待っていたファンの多さが、それだけでないことを証明している。

2009/10/05

だらだらと書く今日(2009/10/4)の日記

昨夜はどうも知らないうちに眠ってしまったようだ。気がついたら朝の七時。窓の外は今日の天気が良いことを示すかのように青空が見える。しばらく布団の上に座りボケーとする。どうも僕は起きてすぐに行動がとれないタイプのようだ。昔は低血圧だからと言い訳にしていたが、最近高血圧気味であることを知ってから使えなくなった(笑)。

しばらくパソコンで昨日撮った写真を整理した。朝食を摂り、パソコンで作業をし、ちょっと本でも読んでいたら、気がついたらお昼になっていた。休みの日は何でこんなに時間が経つのが早いのだろう。毎週思うこの感覚。昼食を摂り、それからさっきまで読んでいた本をまた読み返す。横になって読んだためかいつの間にか寝てしまっていた。そして気がついたら夕方の4時。

一瞬理由もなく慌てる。慌てながら何を慌てているのだと考えると可笑しくなった。ちょっと出かけるかと思い立ったのは、理由もなく慌てる気持ちがそうさせたのかもしれない。かといって今の時間から遠くに行けるわけもなく、ただ単に読書をするために近くのファーストフードに行こうと思っただけのことではあるが。

そこで1時間半くらい音楽を聴きながら読書に没頭する。それはそれでとても楽しい時間だった。表に出るとあたりはすっかり夜になっていた。さぁ帰ろうとしばらく歩く。そして昨夜見ることができなかった月を見ることができた。月につられて僕は少し公園でも歩こうと思った。

僕の右目は2年ほど前に眼底出血で三分の一くらい霞がかかっていて見えづらい。そのうえに両目とも近眼で強度の乱視でもある。その僕の目からはお月様は何重にも重なって見える。3つか4つのお月様が重なり、一つの大きな月となって見えることもある。また幾つもの月からの明かりは思いのほか強い。

この右目のせいで僕は幾つもの機械が右目専用であることを知った。例えばカメラは右目用に作られていると思う。右目でファインダーを覗き左目で対象物を見る。だから最初カメラのファインダーを左目で覗くことに慣れるのに少々時間がかかった。でも良いこともある。僕の目から見る世界はとても美しいのだ。

この目のおかげで以前より周りが美しいと感じることが多くなったように思うが、これは歳のせいもあるかもしれない。

ただ美しさというのは一つの価値観でもある様に思う。そして僕らはそれを幼い頃からの訓育で獲得してきた。だから時代というか社会と共に美しさの基準が変わるのもあることだろう。

ただ、この夜空に浮かぶ月の美しさを感じる心は、この惑星に生きる人間への神様から与えられた贈り物のように僕には思える。地球上で、どこかの地域で、この月を汚いと思う人たちはいるのだろうか。などとそんなことを考える。おそらくそういう人たちは、僕と同じ価値観を共有することは難しいことだろう。

無論、この価値観を押し広げ一歩間違えれば、とんでもない価値観が表れることかもしれない。それに月を汚いと感じる人の心も、もしそういう感覚を持っている人がいたとしても、それはそれで人間の感覚であることには間違いはない。

公園にヒマラヤスギが林立する場所がある。そこでヒマラヤスギの枝の隙間から月を眺める。

近くには硬式野球場がありライトが付いている。その明かりに照らされ、周辺はコントラストが強く明暗がくっきりと分かれる。何人もの人がジョギングで走り抜けてゆく。そしてその頭上には、濃い群青色をさらに深みを増した夜空に月が浮かぶ。

しばらく走る人と同じ方向に歩く。少し歩くとそこには公園の中央階段があって、何人もの人が会談に座り話をしている。そこには野球場のライトから離れ、夜の丁度良い暗さとなって落ち着きがでている。人はそう言う場所で何を話すのだろう。もしくは恋人同士、言葉少なげに夜のこの雰囲気を楽しんでいるのかもしれない。

時計を見ると7時を少し回っているようだ。公園の間を抜ける都道の上にかかる橋を渡る。何枚か写真を撮る。手ぶれを防ぐために橋の欄干にカメラを置いて固定してシャッターを押す。ありふれた風景の一枚が僕は好きだ。何事もないどこにでもある日常の一枚。それはたぶん他の人から見るとつまらぬ写真だろう。でもそれを撮した人にとってはどれもが大袈裟に言えば特別なものだと思う。

そう言えば秋の月が何故良いのか、テレビで検証していた番組を見た。夏の月は高度が高く見るためには上を見上げなくてはならない。冬の月は低すぎて樹木とか建物に隠れる。春の月はもやではっきりとは見えない。秋の月が高度も適当で空気も澄んでいるために良い月見ができる。とか言っていた。なるほどなと妙に納得した。実際に今夜の月を眺めると、確かに首を上に傾けるまでもなく視界に入っている。

そんな感じで僕は公園をだらだらと歩いた。まだ公園には人が多く、しかし夜の闇のせいか、その多さを感じることも少なかった。そういう夜だからこそ、人は思い思いの自分の姿で、気持ちで、そこにいることができる。それを夜の優しさと思うか怖さと思うかは人それぞれだろう。