2005/06/07

グレン・グールド、はじめのいっぽ

結局、杉田敦氏の「リヒター、グールド、ベルンハルト」から読み始めた。読み始めると、そこから宛もなく出口を求めて彷徨う蔦のように、関連する書籍へと流れていく。時には一時中断して違う道を歩むときもある。読書の仕方は紛れもなく散歩の仕方に相通じる。
たとえば、今僕の手元にトーマス・ベルンハルトの「破滅者」とグレン・グールド著作集がある。両者とも杉田敦氏の著作で引用していた書籍である。そして僕は「リヒター、グールド、ベルンハルト」に栞をはさんで閉じ、ベルンハルトの「破壊者」を読もうとしているのだ。また元の道に戻れるのであろうか、多少不安になるが、これも性分だから致し方ない。

グールドを起点に脇道として考えたことが二つある。一つはクラシックを演奏すると言うことについて、もう一つはフィリップ・グラスの音楽と言うこと。
クラシックを演奏すると言うこと、については別にクラシックでなくても何でも良い。僕が一脈通じるかなと思ったのは、朗読劇を聞くと言うことであった。高嶋政伸は朗読劇をライフワークにしている。彼のサイトには貴重な朗読劇を幾つか見ることが出来る。僕は彼のサイトで、泉鏡花の「天守物語」とか、チェーホフの「桜の園」とかの朗読劇を見て、その面白さに夢中になったことがある。「天守物語」には泉鏡花という作者がいる。その「天守物語」を書籍で一人で読むのと、朗読劇で聞く違いとは一体何なのだろう。そう言うことを考えたとき、それはクラシックを演奏するのを聞くのと一脈通じると思ったというわけだ。

中学の時、ベートーベンの交響楽第三番が大好きでカセットテープがすり切れるまで聞き続けた。あの時僕はベートーベン交響楽第三番を聞いていたと思ったし、だから指揮者とか楽団の事は一切気にもしなかった。カセットテープがすり切れ、別途ダビングしなくてはいけなくなったとき、僕は少し困った。なぜならその曲はCDでなく、カセットテープで購入したものだったからだ。そこで、CD屋に行き、学生だったのでお金もないことから、一番手頃な価格の第三番を購入したのだった。で、家に帰って聞いてみると、それは以前のとまったく違っていた。勿論曲としては同じなのだが、それを聞く僕としては、新たに買った方は聞くに堪えられないほど違っていた。

同じ楽譜、そこにはベートーベンによる細かな指示が書き込まれていることだろう。だから、誰が演奏しても同じになると中学の頃の僕は単純に思っていた。それに僕は、ベートーベンを聴きたいのであって、某の指揮者による、どこそこの楽団の演奏が聴きたいわけではなかったのだ。それが人によってこうも違ってくるのだろうか、そう思ったのだった。そう考えると、僕は以前に聞いたものは一体何だったのか解らなくなった。それはベートーベンの曲であって、ベートーベンの曲ではないような、そんな感触にさえ囚われたものだった。

それらのことを、再びグールドによって思い出したのだった。グールドは自らのことをこう語る。

『グレン・スタインウェイ、スタインウェイ・グレン、ただバッハのためだけの』

バッハ~演奏者~聴衆、バッハと演奏者の間には楽譜が存在するし、演奏者と聴衆の間には語る者とそれを聞く者の関係がある。グレンはピアノ(スタインウェイ)と一体化する事でバッハとの距離を縮めようとしたのでないだろうか。しかも、コンサートを拒否し、映画を編集するかのように自分の演奏を編集することで、さらにバッハとの距離を縮めようと試みた。

勿論、グレンが求めるバッハは、グレンが信じ確信する「グレンのバッハ」であるのは間違いない。それでも、そのバッハは追い求めるだけの価値があった。そんなふうに思っていたのかも知れない。

まだ、生半可なグレン・グールド感であるので、僕がこんな事を書いてもちゃんちゃら可笑しい事だろう。だから、この辺でひとまず終わる。朗読劇のこととか、演奏することとは、については、もう少し整理してから書きたいと思う。

もう一つのフィリップ・グラスについて考えたのは大したことではない。単に、「リヒター、グールド、ベルンハルト」を読みながらフィリップ・グラスを聞いていただけの繋がりなのだ。

でも、フィリップ・グラスの音楽について、上記に取るに足らないベートーベンの思い出から、なにかを直感的に感じたのだ。それが実は上手く言葉にならないで、内にもやとして漂っている。反復する旋律、高低差の少ないトーン、それは浜辺に寄せては返す波の動きに似ていると言えば似ている。でも簡単にそうは言いたくない気持ちが強い。彼の音楽は、反復の面では同じではあるが、本質的にはまったく違う、そんな気がしている。そのうちに言葉となって出てくるかも知れない。

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