レイモンド・カーヴァーを語るときどうしてもはずせない話題が3つあると思う。一つ目は編集者ゴードン・リッシュとの関係、二つ目は後に結婚するテス・ギャラガーとの生活、三つ目は短編小説という小説のジャンルについてだ。特に一つ目のリッシュとの関係は、レイモンド・カーヴァーの作家としての自立性が問題となる話なので、特に人によっては重要かもしれない。
でも僕にとっては、これら三つの話題はそれほど重要ではない。ただ、一つ目の話題について少しだけ触れたいと思う。この話題は1998年にニューヨークタイムズの日曜付録版「サンデーマガジン」に掲載されたD.T.マックスの記事「誰がレイモンド・カーヴァーの小説を書いたのか」が出発点となっている。日本語訳は村上春樹氏が行い、書籍「月曜日は最悪だと言うけれど」に掲載されている。
村上春樹氏もこの記事紹介の前置きに書いているが、アメリカでの作家と編集者の関係は日本とはまるで違うらしい。作家は出版会社を固定し、かつ担当となる編集者も固定らしく、作家と編集者の結びつきはかなり強い。編集者が、作家が提出した文章を訂正するのは、珍しいことではない環境がそこにはある。ただ、マックスの記事によれば、レイモンド・カーヴァーの場合、リッシュの訂正と書き換えはその程度を越えているらしく、共著と言ってもいいほどだったらしいのだ。
今回、このブログで書く予定の短編集、「愛について語るときに我々の語ること」についても、その例外ではない。逆に、カーヴァーの「訂正しないで欲しい」懇願にも係わらず、リッシュは自分の考えを押し通し、かなりの訂正と書き込みをこの短編集に対しおこなったとのことだ。
ただ、個人的な印象では、本短編集の標題にもなっている小説「愛について語るときに我々の語ること」について言えば、リッシュの訂正は少なかったのではないかと思う。
勿論、訂正の書き込みがある生原稿を見たわけではないので、確証は全くない。ただ本短編集の後書きにおいて、村上春樹氏がこの小説について述べている、「本短編集に載せるよりは「大聖堂」の短編集に載せる方が文体として似合っている」という一言が、その印象を持った唯一の根拠でしかない。短編集「大聖堂」では、殆ど編集者の訂正はされなかったからだ。
僕は以前のブログで書いたように、作家の自立性にはそれほど価値をおいていない。それ以前に作家の経歴および人物についても知りたいとは思わない。勿論、それらを知ることで、作品解釈において深みを増す場合も多いかもしれない。その場合は大いに知るべき話だと思う。でも今回の様に、カーヴァーの一つの作品に対する感想を書く場合、僕は特に必要生を感じない。
多分、作家の自立性が問題になる歴史的背景として、著作権の確立があると思う。著作権誕生以前にはその様な考え方自体なかったのではないだろうか。
勿論、作家が経済的自立により、創作活動が活発におこなわれる事は望ましいことだと思う。それは読み手である僕らにとっても嬉しいことだ。だから、作家の自立性は、その点においてのみ確定すべき事で、作品が優秀であれば、制作過程がどのような状況であっても気にしない。
例えて言えば、映画制作の様なものだ。映画は大勢が関与して制作される。監督一人だけの力、プロデューサー一人の力、もしくは俳優だけの力では、良い映画を制作することが出来ないのは自明だと思う。
大勢が関与して制作される映画であっても、良い映画は良い。なぜ、小説において一人の作家での創作にこだわる必要があるのだろう。それはある意味、芸術活動に対する神話に我々が縛られているからではないのだろうか。
また僕は本筋から話題を離れさせようとしている。これは悪い癖だ。
レイモンド・カーヴァーについて的を絞り、作家としてどうみるかと問われれば、答えは一つしかない。村上春樹氏も言っているように、「カーヴァーは圧倒的に優れた作家」なのだ。それはD.T.マックスの記事が正しかろうが誤っていようが作家としての評価には関係ない。特に、編集者の訂正が殆どなかった後期の作品群にいけばいくほど、優れた作品を創出している事実があるのだ。
何回かに分けて、レイモンド・カーヴァーの小説「愛について語るときに我々の語ること」の感想をブログに書きたいと思う。どちらかと言えば長文が多い僕のブログの中で、この感想はひときわ長くなりそうな気がしている。誰が読むのだろう。書く前からそんな心配をしている。
この小説を感想文に選んだ理由は、凄く単純な話だ。読んでよくわからなかったからだ。でもなぜか跡が残る小説だった。そこらへんの理由を僕は知りたいと思った。
小説には面白いかつまらないの2つしかないので、評論とか感想とかで、あれこれと理屈を付けることが無意味だと思っている方が本当に多い。その気持ちは僕にも本当によくわかるし、その考えに同意する。
逆説的に言えば、同意するからこそ、僕は小説の感想を書く。優れた小説を読むのは、一種の快楽に近い陶酔感を読後に味わう事が出来る。僕はその快楽を、さらに得たいと思う。感想を書くのはひとえに快楽への追求に他ならない。
当然に、僕のこの快楽は、ブログの僕の感想を読んでも得られないかもしれないので、一人勝手な行為かもしれない。でもこの快楽はマスターベーションではないと思う。
なぜなら感想とは、関係すべき対象がいるし、僕は対象とすべき相手に強引な手法を使うつもりはない。出来れば繊細なタッチで相手が喜ぶように感想を書いていければと思う。
そのための感想の原則は守るつもりだ。僕にとっての感想の原則とは、決して批判しないこと。つまらない小説は批判する以前に読むことはない。それは快楽以前の話であることも間違いない。
では始めさせていただきます。
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