2005/05/03

吉野弘の詩「夕焼け」を誤読する

最近日記で楽しく読んでいるのが「Rest in Peace
確か15才の高校一年生の日記だ。(もう16才になったのかな?)
少し前にバイク関連の検索でヒットしたブログで、伸び伸びと、かつ率直に、自分の意見を書いているのが楽しくてつい読んでしまう。

その日記で知ったのだが、最近ブログ記事で話題になっているのが「席を譲らなかった若者」(らくだのひとりごと)らしく、「Rest in Peace」のところでも、記事を読んでのコメントが書かれている。僕は本記事は読んではいないが、「Rest in Peace」のコメントは読んだ。
「なるほど、そうなんだ」と彼のメディア・リテラシーに感心するのみである。そして、それ以上のコメントは僕には持たない。

ただ、読んでいない本記事のタイトルで、吉野弘さんの詩「夕焼け」を思い出した。一部の中学教科書にも載っているので、知っている方も多いと思う。
本記事を読んでいないのだから、詩「夕焼け」を載せる理由において、上記2つのブログは一切関係がない。ただ思い出しただけなのだ。(だからTBはしない)

ネットで検索(吉野弘 夕焼け)すると、3,330件の結果となるので、多くの方がこの詩について感想を述べられているように思う。どんな感想を持たれているのだろうか、少し気になる、後で少し読んでみよう。

僕の場合、この詩は現実を写しているのだろうが、あくまで詩人による作詩だと思う。つまり、この詩で起きていることは、詩人が見た風景だとは思うが、体験もしくは経験を写実したのではないと思うのだ。あくまで詩人の心象であり、造られた世界だと思う。
(現実的には起こりえない風景だと思う)

僕の解釈だが、この詩において少女の姿に「やさしさ」とかを前面にだして、この詩を読むと誤読しそうな気がしている。この詩はそういう詩ではない、「やさしさ」を前面に出して読むと、「やさしくない」ものが出てくるし、そこから安直に偽善だとかに結びついてしまう。そういう対立構造の現出は簡単だと思うが、簡単にわかるものは正しくないのが多い様にも思える。

一体、「少女」とは誰だろう、「若者」とは、「としより」とは。席を立って譲らなければならない相手とは、一体誰のことだろうか。「少女」は何故唇を噛みしめるのだろう。何故「少女」は3度目で席を譲らなかったのだろうか。受難者とは一体なんだろう。
受難とは難を受けるものを言うのであれば、難を与えるものとは誰だろう。「としより」は、常に押し出され「少女」の前に立つ、「としより」は黙っている、そして少女は2回席を譲る。

無言の「としより」の姿に、「少女」は攻撃を受けていたと感じていたといえないだろうか。「としより」は席を譲って欲しくて「少女」の前に来たのではない。押し出されて来たのだ。つまり、「としより」は「少女」に対し、そのような攻撃を与えている意識は毛頭ない。

攻撃に敏感な「少女」と、攻撃をしていることに鈍感な「としより」。誰のせいでもないのに、日常の中で繰り返される残酷さ。勿論、いつも満員の電車とは日本の社会を現している。「少女」とは誰だろう、それは僕らだと思う。「としより」とは誰だろう、それも僕らだと思う。
哲学者の中島義道はこの詩の中に『他人の加害性に関しては恐ろしく敏感な人たち』と『他人を裁き他人に暴力を振るっているという加害者性には恐ろしく鈍感な人たち』が形成する日本の残酷さをみている。

さらに解釈してみたい。
押されて出てくるとは、そこに自分の意志を感じられない。この言い回しに、僕は2つの意味を感じてしまう。一つは、「としより」はマイノリティをイメージしていると思われること。もう一つは、人はいつも押し出されて目の前に現れると言うこと。そして「としより」と書かれていることから、前者の方を意味していると思うのだ。そして、押し出されて目の前に現れるのはいつも「としより」である。

この詩の設定は「いつも満員の電車の中」となっているが、具体的な登場人物は「若者」と「少女」と「としより」でしかない。
「いつものことだが」が2回繰り返される。それは時間の経過を現していると思う。
そして「いつものことだが」座っているのは「若者」と「少女」であり、「としより」は立っている。「としより」は若者に較べ行動が遅い、いわば身体的能力における弱者ともいえる。つまり、身体的強者だけが弱者に対し、席を譲るか否かの選択が可能だという構造が現れているのかもしれない。そして、強者は誰が弱者なのかわからない。でもそこまで読むのは誤読であるのは間違いない。

誤読ついでに別の解釈をしてみる。
電車とは閉じられた空間でもある。そして詩の中に登場する人たちは一つの共同体を持っている。共同体には共有する文化を持ち、同じ道徳を持っている。「少女」はその中で、「としより」に2回席を譲る。でも「少女」は個人として、その共同体に違和感を憶え始めている。それは、「としより」が前に立つことが攻撃として感じる。しかし「少女」は共同体の中で生きるしかない。だから、共同体からの攻撃を避ける意味で、「少女」は「としより」に席を譲る。でも3回目で抵抗を試みる。

「僕は電車を降りた」、なぜ詩人は途中で降りたのだろう。電車を降りるという事は、その共同体から抜けることを意味しているのでないだろうか。簡単に自分の意志で抜けられるが、それができない人もいる。例えば「少女」のように。
日本国民として同一化作用がそこにないだろうか。嫌でも同じ共同体として、時には席を譲り、同じ方向に向かって進む、というような感じ。それを「やさしさ」という情動的な言葉で覆い隠しているようにも思える。

上記の解釈は誤読を承知で書いている。ただ、そう解釈すると、中学の教科書に採択された理由が見えてくる。みんな「やさしく」なりましょう。「おとしより」は大事にしましょう。同じ日本人としてこの国に生きているのだから。国と文化的共同体を同じにして、この詩を教えているのかもしれない。
僕にとっては、子供もおとしよりも大事にしなくてはいけない。それは同じ電車に乗っているからではない。僕がこういう共同体論に組していないからだと思うが、こういう考え方は、得てして共同体から外れる人に対しては辛い仕打ちをする同義付けになるように思える。

実をいえば、僕は途中で詩人が電車を降りることで、この詩が好きではない。詩人はこの少女に対して有責だと思うのだ。だから途中で電車を降りるべきではない。これは僕の倫理観だが、そんな風に思っている。

さらに「席を譲る」ということに考える。
マナーとルールのせめぎ合いで、マナーがルールに変わることは、そこにルール化しないと共有できない状況があると思う。でもそれには限界があるとも思う。
自分より優先するものとは誰のことだろう。それは自分の愛する子供たちのことだろうし、年老いた両親かも知れない。有縁であれば、その線引きは可能かも知れない、では無縁の人たちに対してはどうだろう。そこに共有するものを僕らは持っているのであろうか。
例えて言えば、沈みかかっている船の中で救命ボートに乗せる順番を決めるのに繋がる。電車の中で席を譲る優先度の延長線上に救命ボートに乗る順番があると思うのだ。
さらに、現代では、若者、少女、おとしよりだけでなく、様々な人がそこに登場する。身障者、在日、アイヌ、ジェンダー、ホームレス、病気の人たち、エイズ患者、外国人労働者、難民、亡命者、移民者、等々と永遠に続く。そしてそれらの方々もひとくくりにくくれない。在日の方と言っても、在日韓国人、在日朝鮮人、在日中国人、在日外国人、がいるし、さらに一人ひとりに差異がある。状況も考慮しなくてはならないだろう。その中で自分より優先することの倫理を僕は持っているのだろうか。
そんなことも、この詩を読んで突きつけられる。勿論、それも誤読には違いない。

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「夕焼け」
いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが座った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は座った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は座った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッっと噛んで
身体をこわばらせてー。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行っただろう。
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。

1959年刊詩集『幻・方法』所収
『現代詩文庫 12吉野弘』思潮社より
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