僕がブログを始めた当初、「ブログって何?」という素朴な疑問に答えてくれたブログがいくつかあります。その中に「図書館員の愛弟子」とそこから経由してしった「夏のひこうき雲」(左近さん)があります。左近さんからはいつも教えて貰うばかりで、ブックマーク「浮雲」はいつも参照させてもらっています。
今回「夏のひこうき雲」で拙文「吉野弘の詩「夕焼け」を誤読する」の感想( [Web][レビュー] 「夕焼け」再読)をいただきました。それは、僕が左近さん記事に以下のコメントを書いたのがきっかけです。
『詩人が途中で下車するのは、詩作として意図的な技法だとは思うのですが、それらの一連的な作詩技法に、悪く言えばプロパガンダの技法を感じたのです』
詩の感想は共通事項が少なく個別事項の割合が高くなると思いますが、その上で、僕の上記のコメントに誠意を持って答えてくれた左近さんに感謝しています。そこで僕自身としては、自己の個別事項を正当化する方向で展開するのでなく、逆にきっかけとなったコメントから遡る事で、出来れば左近さん感想との共通事項に辿り着き、そこから個別事項になった理由を洗い出す仕方が、左近さんの誠意に答える事だと思い今回の記事となりました。
しかしこれはやってみると意外に難しいのです。プロパガンダと感じるまでの流れは、所々飛躍があるようにも思えますが、しかし実際それらは飛躍ではなく、その中にはそこに至る自分なりの根拠があるはずで、自分がそれを忘れているのか、もしくは流れる意識の中で動いてしまい、少しズレが発生しているようです。つまり、この手法を用いて考えると言うことは、一旦何処かで停止してから辿る必要があると言うことになります。こういう思考法でもそれなりに訓練が必要なんだと思った次第です。考えてみれば、僕は毎回流れに任せて進むだけで、振り返ることはやってこなかったなぁ、という反省をしました。
プロパガンダと感じたものは一体なんだったのか、そのときに浮かんだのは一枚の絵です。その絵には下方に文字が書かれています。「やさしい心に責められながら」とか「受難者」というような言葉です。
絵といっても具体的にどこかに存在する絵ではありません。僕がこの詩を読んで一枚の絵を自分の意識の中で造り上げた絵です。その絵が僕にとってこの詩をプロパガンダと思わせたのだと思います。絵だけではそうは考えなかったと思うのですが、絵に書かれた文字によってそのように感じたのです。つまり、絵だけでも十分に理解できるというのに、これでもかと繰り返す文字のせいで。
その文字のせいで、僕はその絵が「絵画」ではないと思いました。それは一種のキャンペーン用ポスターでした。
ここで、どんな絵だったのかを語るのは意味がないと思います。ただ少女の気持ちが抽象的な姿で迫る絵です。なぜ僕はその絵に文字を浮かび上がらせたのか。さらに文字を浮かび上がらせることにより、なぜ僕はその絵を「絵画」でなくキャンペーン用ポスターとみたのでしょうか。
ここで、「夏のひこうき雲」の中で、左近さんが提示されている良い例があるので、それを使って考えてみたいと思います。
それはアフリカの飢饉が危機的な状況を強く訴えた「すぐ近くの背後に止まっているハゲタカにじっと見つめられている、飢えて死にそうな黒人の少女」の写真です。僕もこの写真の印象は左近さんの考えに同感します。
この写真のように事実をありのまま写すフォトジャーナリズムの仕方を仮に(A)とします。(A)に描かれている世界はひとつの事実を切り取ったものです。写真の構図に写真家の意図はあるのかもしれませんが、ただ写真家が自ら創り上げた世界を切り取った風景でないと僕は思います。
次に、その写真家が少女を雇い、かつハゲタカの剥製を横に配置して撮ったとします。目的は(A)と同様にアフリカの飢饉を訴えることです。それを(B)とします。その世界は(A)と違い、写真家が自ら造り上げた世界となります。でも見え方は(A)と同じです。
今度は、さまざまな画像をコラージュし、写真のいろいろな技法を駆使し、アフリカの飢饉を訴える一枚の写真を造ったとします。それにより芸術的な品質まで高めた作品です。それを(C)とします。さらにその(C)の作品に文字を挿入したものを(C')とします。
僕にとって「夕焼け」という詩は、上記の例えでは(C')に位置します。たぶん左近さんは上記例では(A)に近いものと見られているように思えます。
僕が掲げた問題点、なぜ文字を浮かび上がらせたのか、文字を浮かび上がらせることによってなぜプロパガンダと思ったのかは未だ不明です。上記の例で言えば、なぜ僕はこの詩を(C)と見て、さらに(C')としたのかということです。何故(C')がプロパガンダかという話もありますが。
「夕焼け」を一枚の絵に見立て、そこに文字を浮かび上がらせたのは、勿論ぼくの個別事項です。左近さんはその様に「夕焼け」を読んではいません。
それに、写真および絵画に文字を挿入することは大いにあります。その文字は必然的に挿入されていれば、絵にとって必要不可欠な文字となるはずです。僕は「夕焼け」の絵に浮かんだ文字を必然性があるとは思わなかった。そう考えたようです。
僕にとって不必要な文字とはなんだったのか。それは語り部である「僕」が電車を降りた以降の言葉にあると思っているようです。
(C)の様に、造られた世界と思ったのは、満員電車のイメージが、通勤ラッシュ時の山手線にあったのは事実です。その中で、「僕」の立ち位置が実感できませんんでした。すぐ横にいるのでしょうが、「いつものとおり」ということを確認すること自体が不能な混み具合をイメージしたと思います。お互いに押され押し合い、触れ触れ合う電車の閉じられた空間。そこで少女の状態を確認することが僕のイメージの中では難しかったのです。しかも、そこは窓の外を眺めることさえ躊躇われる状況です。僕の中に浮かぶ経験上の満員電車とはそういうものでした。
「風景」という言葉を使ったのは誤りだったと思います。「風景」としたとき、左近さんの言われるとおりに少女の姿は日常に見られます。僕もそう思います。その点において僕と左近さんは同一線上にあります。
詩人が作詩する世界は、彼が思うように造ればよいと思っています。そこには何の制限もないのかもしれません。しかし、そこには何らかの一線があるように僕は考えているようです。この詩の場合、「僕は電車を」降りないでも成り立つことが出来ます。何故「僕は電車を降りた」のかが、僕にとってはとても気になった様です。
この詩はメッセージ性が強いと思います。それはまさしく左近さんが例に挙げた一枚の写真に通じます。だからこそ、左近さんの例は適切でした。しかも、僕はその一枚の写真には耐えられますが、この詩の少女には耐えられなかったようです。うまくいえませんが、それは一枚の写真が現実世界を切り取ったものであるし、この詩も現実世界を切り取ったものであるのですが、本拙文で言えば、(A)でなく(C)の様なものと受け取っている点が事が強いようです。(A)と(C)の違いは、一言で言えばその世界を意図的に造られたか否かだと思っています。
また作詩であれば、僕自身の考えとして、社会性を含むべきではないと考えている点が強いようです。僕はこの詩に社会的なメッセージを受けてしまいました。
本来であれば、日常的な出来事、普段であればそのことに対し疑問を持たずに過ごしてきていることに、振り返って考えてみよう、と言ったメッセージだったのかもしれません。実は左近さんの感想を読んでそう感じました。
それをそれ以上の社会的なメッセージを感じたのは、詩の中で「僕」が電車を降りる前までに十分に少女の気持ちが僕に伝わり、「もうそれ以上やめて」、といった気持ちになったからです。何故、その様な気持ちになったのか。それは、以前の僕の拙文と、それに対する左近さんの記事を見比べるとよくわかります。
僕は以前の記事でこう書いています。
『攻撃に敏感な「少女」と、攻撃をしていることに鈍感な「としより」』
それに対し左近さんの記事ではこう書いています。
『お年寄りのつらさがわかっているからこそ、少女は下唇を噛んで自分を責め続けるわけです』
つまり僕の場合、相手からの攻撃が主であり、左近さんの場合、やさしさゆえに自分で自分を傷つけているという構図です。僕がこの詩を読んで「もうそれ以上やめて」と思う背景には、自分がこの詩により攻撃を受けている気持ちがあるからではないかと思った次第です。
攻撃を受ける自分、誰からでしょうか、それはこの詩とそれを読む自分自身です。それを過剰に思えた自分がそこにはいる。それが一枚の「夕焼け」の絵を僕の内に描かせた。その詩が作者をして造られた世界と感じるのであればあるほど、僕はそう感じてしまう。そこが、僕のこの詩の出発点だったのかも知れません。
その点を考慮して、再度この詩を読み直しました。以前より少し薄まった気もしますが、それでもやはり似たような感想を持ってしまう僕がいます。それについては僕の課題として念頭に置くこととします。
左近さんの感想はとても自然に思えました。ですから逆に僕の感想との落差に、自分の世界観を振り返るきっかけになったと思います。それは、自分の世界観のどこまでが共通事項で、どこからが個別事項かの線引きをすることが、なんとなくですが、見えたようにも思えます。その線は極めて薄い破線ではあるのですが。
ここまで書いて、辿りなおすと言いながら少しも遡っていないことに気がつきます。なんか行ったり来たりの繰り返しですね。えらそうなことを言ってしまい、誠に赤面の至りです。
ただ、ここまで出来ないながらも考えてみて、現時点から振り返ると「プロパガンダ」という過去に書いた表現は過激すぎるかもしれないと思い始めています。
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