「ネットの世界をぐるぐる回って、いろんな事を読んで、そして、ああ、しんどいなあ……と思って外に出て、近所の酒場でビールを飲んだり、行きつけのそば屋のおばさんと世間話をしたり、そういう事でかなりほっとする。現実は小さい。狭くて小さい現実にほっとする。」
(田口ランディ「情報資本主義について」から引用)
▼正直言ってしまえば、ライブドア堀江社長には全く個人的興味が持てない。勝手にやればと突き放して見てしまう。でもランディさんにとっては少し違うのかもしれない。恐らくランディさんは僕より多くの人間に興味を持ってしまうのだろう。興味の対象として堀江社長という人間を捉(とら)えた時、一抹の不安を覚えたのではないだろうか。僕が人間に興味を覚える時、知らないうちに、まず範囲を限定してしてしまう。そしてその範囲に堀江社長は入らない。
▼僕はなぜ堀江社長に興味が持ないのだろう。実はこの視点でランディさんの記事を読んだ。ランディさんが見ているものは、堀江社長という人間をフィルターにして、そこから眺めている人達かもしれない。つまり、ランディさんの言うところの情報資本主義に適用した人間たちを見ているような気がする。多分僕はそういう人達に興味が持てないのかもしれない。
▼堀江社長が言う言葉は、現在明らかな最新技術動向を基に語っている。でもただそれだけの様な気がする。彼の話の中にはビジョンがないと僕は思う。企業ビジョンは確かにあるだろう。でもそこに人々の「暮らし」とか「人間の営み」とかがどう変わるべきかの視点がないように思うのだ。だから、彼の言葉に僕はリアリティを感じられない。
▼ネット家電が社会を変えるかどうかは僕にはわからない。でも過去に起こり、今後も起こるだろう技術革新により人間の社会は変わっていくものだと思う。今からたった100年前と現代ではまるで違うはずだ。それがこれから100年(もしくは10年)経ったとして、今と同じとは思えない。
▼物事が何が変わったか、もしくは何が変わるかの視点で捉えると、変化は時として辛い。でも100年の間でも変わらないものが、僕はあるような気がしている。それが何なのか、正直言えば答えられない。でも古典落語に笑い泣き、明治の小説にリアリティを感じる事があるのだから、それは確かにあるような気がする。
▼それは、朝に親から起こされ暖かいみそ汁の一杯から、どこそこの漬け物が美味しいとの話から、「ちゃんとかんで食べなさい」との親の小言から、眠たい目をこすりながら通勤通学する事から、等々あげればきりがないほどの、人が生活する営みの中で些細な出来事の数々の集積になるのかもしれない。それを何と言うのだろうか。「暮らし」とでも言うのかもしれない。
▼いくらネット家電が出現したとしても、それが社会の監視とか統制に使われない限り、洗濯板での洗い物が電気洗濯機に変わった程度の違いだろう。勿論それだって社会を変える力を持っていた。あくまで想像だけど、フェミニズムの拡大にこれら電気家電が果たした役割は大きかったに違いないと密かに思っている。だからといって「暮らし」の本質が変わったとも思えない。
▼確かに現代は置き換え可能で合意不能な複雑な社会になっている。それにますます個人が扱う情報は巨大化するのは間違いない。また社会は思う以上に脆弱かもしれない、ころっと変わる可能性もある。でもそれは1人の人が強引に変える事が出来るとも思えない。なんというか僕にとって社会が変わるのはそう言う力ではない様に思えるのだ。
▼技術者もしくは学者は、新しい技術が開発すると社会が変わると言う。でもそれによって「人の営み」の何が変わるかの視点で語る人を僕は知らない。技術は一体何のためにあるのだろう。ふとそんな事を考える。ランディさんは作家だから、社会を背景にして、人の営みがどう変わったのかを物語で伝える事が出来る。逆に僕はそこに期待してしまう。
▼堀江社長のインタビュー記事?面白くなさそうだから僕は読みません(笑
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