2007/12/10

「GUNSLINGER GIRL」という誘惑

「GUNSLINGER GIRL」(作者:相田 裕 メディアワークス月刊誌「電撃大王」連載中 単行本は現在9巻目まで発売)を単行本で読んだ。一気に読んだが、一気に読ませるものが何であるのかが気になった。これといった納得するだけの回答を持っているわけではないが、現時点での感想をメモとして残す。
舞台は現代(もしくは近未来)のヨーロッパ。イタリアの公益法人「社会福祉公社」は、政府の汚い仕事を代わりに行っている。その中でも作戦2課では現在表向きは障害を抱えた子供達を引き取って福祉事業に従事させることで社会参加の機会を与える、という身障者支援事業を推進する組織ということになっているが、実際は集めた子供達を「義体」と呼ばれる強力な身体能力を持つ肉体に改造し、薬物による洗脳を施した上で、政府の非合法活動に従事させている。
(Wikipedia 「GUNSLINGER GIRL 」から引用)
「GUNSLINGER GIRL」は闘う美少女という萌系にも関わらず、そこにとどまってもいない。それゆえに印象的な漫画になりえているとおもうのであるが、だからといって萌から逸脱した要素が何であるかは別に気にする必要もない。萌要素といっても、それらは日々萌市場の中で書き換えられ、もしくは拡張されているから、現時点での逸脱要素は明日には適正となりえるからだ。「GUNSLINGER GIRL」の逸脱要素が何であれ、この漫画が市場に受け入れられ、他の漫画もしくは別メディアに二次創作として展開されている現状を思えば、おそらくそれらは許容範囲内にあるのは間違いない。

「GUNSLINGER GIRL」は映画「ロボコップ」の少女版でもある。しかし「ロボコップ」と同様の問題を提示しているわけではない。ロボコップは人間性とは何かという問いかけがあり、その問いかけに「記憶」が、特に社会とのとしての家族の「記憶」が、重要な要素として映画では前面に出ていた。無論「GUNSLINGER GIRL」にも同様の設定は含まれているが、それは無視できるほど極めて薄い。設定では「条件付け」という薬と催眠術による強い洗脳が彼女たちにさまざまな疑問を持たせないように見受けられるが、いわば彼女たちは、漫画の中である担当官が語ったように「亡霊」に近い。

彼女たちにとって重要なことは、彼女たちひとりひとりに付く専属担当官の対応とその評価である。彼女たちは自分が「義体」であり、特殊な身体を持っていることを承知している。そしてその身体が専属担当官の要望を満足する為にあること、その要望を満足するには強力な戦闘能力にあることを意識し、戦闘能力が損なわれることを恐れる。しかし戦闘の度に彼女たちは傷つき、体を補修する毎に彼女たちの寿命は短くなる。いわば価値の保持は存在自体の危うさの増加に繋がる。

まず彼女たちは男性である担当官に選ばれるところから始まる。そこで彼女たちは担当官の意見を元に改造される。彼女たちは薬物を利用しての強い洗脳を受け、専属担当官にまるでメイドの様につくす。いうなれば「GUNSLINGER GIRL」の世界観の中心にあるのは「市場主義的な資本主義」そのものである。「義体」とは何か。それは価値が失われるまで消費され続ける一個の商品そのものといえる。開発当初の「義体」の寿命が5年くらいの設定は、ひとつの商品の寿命として考えられないこともない。そして消費しつくされるまで。彼女たちの身体が手足眼を含め多くの部分が交換可能なように、一個の機械として維持し管理されるのである。

では何の商品なのだろう。それは彼女の役割が象徴的に示している。それは国家内に向けられた「安全保障(セキュリティ)」と「社会保障(生命)」である。彼女は国家内のセキュリティシステムの一環として存在している。サイボーグ技術と洗脳と言う、おそらくは今後一般的に使われるであろう医療技術を設定の根本におきながら、「GUNSLINGER GIRL」は現在の社会システムにきわめて親和性が高いように思える。セキュリティの為に幾重にも張り巡らされる自由への干渉、それを「GUNSLINGER GIRL」における彼女たちが先端的に表彰しているように思えるからだ。

彼女たちの強い関心は自分たちの担当官に大して向けられる。親子ほどの年齢差がある担当官は何故か全員男性でもある。父親に対する愛憎が彼女たちの欲望のすべてでもある。それはエディプスコンプレックスの裏返しともいえないことはない。ただし担当官は、彼女たちの自分たちへの思いを知ってはいるが、それが「条件付け」の結果であることも認識している。唯一、「義体」セカンドタイプの少女が、自らの感情が「条件付け」から来ていないことを意識し、担当官に愛を告げる。その顛末は現段階では明らかにされてはいないが、上記の流れから考えれば、その愛は悲劇的な結末を迎えるに違いない。

僕はここまで表層的な物語のあらすじを書いている。実を言えばそれ以上の感想は持ってはいない。漫画は漫画であり、それ以上もそれ以下ではない。たたこの漫画の面白さがどこにあるのか、なぜこの漫画に共感を感じるのか、それが僕が男性として持っている欲望からきているのか、この少女たちの姿に現代における自分を重ねてみているのか、どちらかわからない。ただしばらくは注視したい漫画であることには変りはない。

2007/12/08

ダイアン・アーバス さまざまな神話

裕福な家にひとりの女の子が産まれた。両親は厳格だったが忙しく、彼女の養育に関わる時間が持てなかった。だから彼女は使用人によって育てられた。ある時期まで彼女にとって世界は完全であった。欲しいと思うものは特になかったし、何かが足りないと感じることもなかった。

彼女は大人になり写真家になった。そして同じく写真家の男性と結婚し、二人の子どもを授かった。そこでも彼女の世界は完全であり続けた。完全な世界、それは逆に言えば壁に閉じられた世界でもあった。壁の中で、何かに守られながら彼女はその世界を全てであると感じていたし、何から守られているのか、という問いが脳裏に浮かぶこともなかった。異質なものへの興味は元々持っていた。しかし異質なものは壁の外にあり、それらが存在することは感じていたが、見ることも聞くこともなかった。

夫妻の仕事はファッション業界の写真撮影だった。ファッション写真、それは演出と構図を重要視する。それはイメージの強調であり、人が共有する美に基づいての作画でもある。ここで学んだことは、彼女の写真の礎となったのは間違いない。ある意味、造られた美は、裏面に元々備わっている美が刻印されている。造られた美を追求することは、そうではない美を追求することに繋がると思えるのだ。何故なら、造られた美には写真に本来写し出される決定的な何かの厚みが薄くファッション写真を撮るごとに、写真家はその足りなさを意識することになるように思えるのである。

彼女がその世界から離れ、異質なものに向かうきっかけとはいったい何だったのだろう。様々な要因のなかで、ひとつあげるとすれば、それは写真家として彼女の独立があげられる。彼女の写真の先生は言った。「今までカメラを向けたことがないものを撮りなさい」
カメラを向けたことがないもの、しかしそれは有意識に在ったものでもある。意識にないものはカメラを向けることさえ適わない。壁の外には何が在るのか、尽きせぬ興味、行ったこともなく見たことがないものは彼女には沢山あったのだ。そしてそこにこそ決定的に足りない何かがある可能性があった。

だからといって、彼女が写真家として独立しても、幼い頃に構築した世界(フレーム)から抜け出たというわけではない。彼女を守る壁、それは多少小さくなり「盾」と呼ばれるようになったが、いまでは首にぶらさげたカメラであった。彼女は街で見かける興味深い人たちを多く撮った。小人と巨人、双子と三つ子、サーカス小屋の芸人、諍う夫婦、泣き続ける赤ん坊、女装癖のある男性、多くのヌーディストたち、おもちゃの手榴弾を手にし興奮気味の子ども・・・・・・

彼女が撮った者たち、確かに彼らは今までに彼女がカメラを向けたことがない者たちであった。でも決して撮られない人たちもそこにはいた。例えば経済的に貧しい者たちとその生活、人種的マイノリティの人たち。その視点で見ると、彼女の多くは白人たちであったのは事実だ。ただ多くの写真で共通することは、彼女がカメラを向けた人たちの多くは産まれたときから苦悩を、それが彼女の世界からの視線であったのは事実だと思うが、背負わされていたということ。

彼女は言った。「彼らは産まれながらの貴族なのです」と。彼女は興味を持つ人たちを写真に撮るときは時間をかけた。彼らの世界に入りこみ、彼らの秘密を聞いた。親密な関係を結び、その上で彼女が望む写真を撮った。彼女の手法は正方形とストロボだった。それにより被写体の陰影をより強調させるのである。それらは恐らくスタジオ撮影からの技法を取り込んだのだろう。ファッション誌におけるモデル撮影と本質的には変化がないと言えば言い過ぎかも知れない。ただ、彼女の「貴族」という言葉から、彼らといかに親密な関係を築いたとしても、所詮は彼女にとって彼らは外部の人であるという事実を拭うことはできない。

彼女は彼女のフレームで重ねた世界をコレクションし続けた。彼女の一連の撮影までの行為は写真家と言うよりも、コレクターと言ったほうが近い。彼女が写し、公開と言う場のために選択した写真群はいわば彼女の世界の確認であるように僕には思える。いわば、自然に備わった美を写すことは一つの矛盾でもある。だからこそ被写体に対し「貴族」と言うフレームワークを与えるしかない。そしてその中で写す行為を自分に対し納得させるのである。それでは彼女は何をコレクションしていたのだろう。それは写真に写る何かである。そしてその何かは彼女にとっては、彼らが生まれながらの境遇を代償にして手に入れていたようにみれたのだ。彼女はそれを発見したのである。「貴族」とはフレームではあるが、別の言い方もできる、それは単なる写真に命を吹き込むもの、「写真性」である。

たとえばこんな逸話が残されている。あるとき彼女は巨人症の男性を彼の家で彼の両親と一緒に写真をとった。彼とその両親の三人が写った写真を彼女は友人に見せ次の様に語る。
あるとき、ダイアンは興奮した声で『ニューヨーカー』のジョン・ミッチェルに電話をかけた。「どの母親も、妊娠しているとき悪夢に悩まされることをご存じ? 生まれてくる赤ちゃんが怪物だったらどうしようという? わたし、エディを見上げているお母さんの顔を見てはっと思ったの。彼女はこう思っていたのよ。『ああ神様、あんまりです!』って」
(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)
彼女が写したかったものは巨人の男性とその比較としての彼の両親の組み合わせではない。彼女が写したかったものは、写真に残され、彼女が後付で気がついたものだ。それは巨人の男性の母親の表情だった。さらに厳密に言えば、母親の表情も明確には彼女の言うようなももではない。でも明らかにそこには母親の残酷なまでの思いが不可視なフィルターとなってその写真にかぶさり、鑑賞する者の気持ちを揺さぶるのだと思う。そういう写真はダイアンが彼らの日常に入り込むことによってでしか得ることができないものであった。そしてその不可視のフィルターの有無が写真にとって不可欠だったのである。

彼女の写真で僕が一番に印象深いのは総合失調症の人びとを撮った一連の写真である。強烈な印象は、彼女の思惑を越えて存在していた。彼らを撮ることで彼女は自分の撮影を見失う。彼女は常々「撮影とは誘惑です」と話していた。その「誘惑」が彼らには通じなかったのだ。彼女にとって彼らは真の意味で異質な者たちだった。秘密の共有も、そこから来る親密な関係も、彼女が望むポーズも、けっして彼らは彼女に与えなかった。ここではカメラは「盾」には成り得なかった。彼女が自殺をした時、これらの写真は焼き付けられることなく、従ってタイトルをつけられないまま残った。

ファインダーから被写体を眺めるとき、カメラアイが身体の一部に拡張されることはない、それは逆に身体がカメラと言う機械の一部に取り込まれる感覚に近い。そのとき自分はもはや人間ではない。写真を撮る一個の機械となり、身体はファインダーとカメラアイとの間に置かれるのである。そしてその場所は彼女にとって安全な場所だった。しかし、その安全な場にいてはカメラを制御することはできない、と彼女は感じ始めていたのかもしれない。一般論でいえば、「写真性」の制御は撮影者にも被写体にも可能ではない。「写真」は撮影者にも被写体にも属してはいないのである。彼女は頻繁にカメラを使いこなせない難しいと友人に語り始めていた、まさにそのとき彼女は制御不能な「写真」を制御しようという、解決不能な問題を抱えたように僕には思えてくる。

それ以外にも、彼女は生前多くを語った。しかし、それらを時系列的に並べみても彼女の精神活動を顕わにすることはできないと思う。ひとつの言葉は、新たな言葉によって打ち消される。残された一群の写真は彼女がかつてそこにいたことを証明づけるが、果たして彼女を現しているのだろうか。写真群は印象が強ければ強いほど、彼女を実体とは違うあらぬ方向に流そうとしているかのようである。そしてそこから神話が産まれる。神話は自己生産的にあらゆるヴァージョンが誕生する。多くの者は神話を利用し自分の欲望を満足させる。どれもが正しく、そしてどれもが正しくはない。

スーザン・ソンタグは著書「写真論」の中の「写真で見る暗いアメリカ」のなかで彼女の事を多く割いて書いている。しかしソンタグの描き方はホイットマンの流れをくむアメリカ文化史の中に彼女を組み込んでいる。ソンタグにとって彼女の文脈はアメリカの中に位置している。藤田省三は一般論の積み重ねで彼女を描く。藤田の描く彼女は人間の各層の境界線を打ち砕くものとして描かれる。日本で刊行した彼女の作品集には拙くも無個性でそれゆえ愛の福音書のような語り口の彼女が登場する。パトリシア・ボズワースの彼女の伝記はまるで聖書(ボズワース伝)のようでもある。
彼女の自殺の事実が、彼女の作品は誠実なものであって覗き趣味ではなく、 またいたわりのものであって冷たいものではないことを証明するかのように見える
(スーザン・ソンタグ 「写真論」 P46 近藤耕人訳)
写真が覗き趣味であるか、そのような疑問をいまさら呈する者などどこにもいない。覗き趣味といえばその通りだが、これ程までのデジタルカメラ普及を考えれば、時代はその言葉を陳腐化させている。街角では監視カメラが僕らの日常を撮し続け、携帯に装備された小型カメラで人々はところ構わずシャッターをきる。それは写真を撮るという行為では既になくなっている。自動機械としての撮影機、街角の監視カメラとなんら変わりない行為に写真を撮る行為は変化している様に思える。それはダイアンなどの写真家といわゆるアマチュアの間に引かれた一線ではない。むしろそれらの一線があいまいになっていく過程が写真を撮るという行為の変化過程でもあるように僕には思えるのだ。

たとえば、月探査衛星「かぐや」が写した月から観た地球の出と入りは美しく感動を覚えた。「かぐや」の写した映像は、「かぐや」に装備された機械と制御するプログラムによって写されたものである。それと人間が写した写真との違いは何もない。写真が写真足らしめるには、誰が写すというのは関係ないのである。むしろ写真を撮る行為はある意味人間でいることをやめさせる。写真は人間の経験の拡張でもある。既に僕らは、馬の走る姿もミルクの一滴に生じる王冠も経験している。ダイアン・アーバスの写真は相対性を「違和感」を露にすることで我々に新たな視点を(多くの人にとっては不快感と共に)もたらした。でも時代はその概念を既に受け入れ、流れの中で「貴族」たちは消えていった。

彼女の写真は、彼女個人の問題から発しているのだろうか。多くの識者たちはそのように彼女のことを語る。彼女の写真とは彼女自身でもあるかのように。でも それは少し間違っている。彼女が撮った写真に彼女はいない。彼女とは「彼女の見て構造化した世界」であるが、それらは決して写真に内在してはいない。被写体を選んだのは間違いなく彼女ではある。でもそれと写真が写真として成り立たせることは関係性がないと思うのである。彼女が撮った写真は、彼女に関係ない場所で写真として存在している。

ダイアン・アーバスの伝記を元に作られた映画が今年公開した。惜しくも僕は見る機会を逸してしまった。逸したのは僕の臆病さから来る躊躇なのは知っている。商業的に造りだされるアーバスに画面を通してとはいえ対峙することが僕は怖かった。ただ映画も新たな彼女の神話になることに変わりはない。映画は個人と写真との乖離をなおさら難しくすることだろう。でもそれは写真本来の問題というより、著作権の問題からと言うほうが正しいように思えるのである。

2007/12/07

テレビドラマ「点と線」(ビートたけし出演)をみてだらだらと思うこと

1958年(昭和33年)公開の映画「張込み」について、 監督である野村芳太郎は次のように語る。
「この映画はリアリティが大事です。観客が少しでも嘘っぽく感じられないようにリアリティを求めました」

映画冒頭で、刑事たちが張込み現場に着くまで、列車内の場面が延々と続くのはそうした監督の配慮からきているのだと思う。映画におけるリアリティの追求とはひとつのパラドックスに近いかもしれない。 人工的な所作により作られる「現実」は、当然にそこに製作者の考えが盛り込まれている。つまりは、その時点で「現実」 は外部ではなく内部性からという矛盾を抱えてしまう。

ただし映画「張込み」の場合、原作とほぼ同時代の映画なので、 監督自身は物語の時代設定を意識することはない。野村芳太郎監督が意識するリアリティは、 刑事と言う仕事と生活がべったりと貼り付いた人間の生態にこそあったと思う。

これが2007年公開映画「続 三丁目の夕日」となると、 リアリティはCGで描かれた風景のみとなる。「続 三丁目の夕日」はまるでテーマパークの様に安全で清潔で明るい。 そこには昭和30年代の公害と大気汚染に見舞われた東京の姿はどこにもない。首都高で覆われていない日本橋、完成直後の羽田空港、 そのほか日常を取り巻く数多くの小物が登場し、そこに役者を立たせたとしても昭和30年代初めにはたどり着くことはできない。おそらく、もう我々には昭和30年代さえ描くことは難しい状況になっているのかもしれない。ふと、そんなことを思う。

2007年11月24日・25日の二夜連続で放送したビートたけし主演の「点と線」 を観た。このテレビ版「点と線」では、原作もしくは過去に映画化(昭和33年)されたものと比べ、(1) 現在から過去の出来事を振り返ること、(2)ビートたけし扮する老刑事鳥飼重太郎が事件に対し極めて強い執念を持つこと、(3) 鳥飼と刑事三原紀一が本事件から二度と会わないこと、の3点が際立って違うように思える。無論、ドラマの中で戦争の経験を引きずることが、 鳥飼の事件に対する執着、および犯人である安田辰郎が犯罪行為に至らせたという伏線も違うといえばそうなのではあるが、 ただ戦争の逸話は本ドラマでは、俳優たちの熱意ある演技と裏腹でそれほど重要ではないように思えるのである。

僕にとって本ドラマで重要なせりふ、と言うより印象に残っているせりふは、 鳥飼重太郎の最後に述べる一言、「何故か無性に腹が立つ」である。それらは、鳥飼の人生のなかで常に持ち続けてきた心情であり、 それが本事件でも現れたように思えるのである。仮に、犯人夫婦が自害せずに検挙されていたとしても、鳥飼のこの「何故か無性に腹が立つ」 感情は拭うことができないように僕には思える。

鳥飼はなぜ無性に腹が立つのか、何に対して腹が立つのか、 それらはドラマでは明らかにされることはない。彼の心情の起源が戦争にある様にドラマでは描かれているが、 僕にはそのように見ることはできなかった。腹が立つ対象が社会システム、 もしくは自己願望達成への無力感にあるという安直な考えに僕は即同意はできない。鳥飼重太郎の 「腹が立つ」 感情はそういう部類から起こっているように思えないのである。

たとえば、このドラマが放映されていた最中、新聞では守屋前事務次官による防衛省収賄容疑報道が一面の見出しを踊っている。それらはドラマと同じ状況を彷彿させるが、僕自身が受けるものは無関心と脱力感でしかない。鳥飼の「腹が立つ」感情は終わった結果に対して向けられてはいない。

鳥飼の人生の流れの中で現れ培われていったその感情は、やはり流れの中にこそあるのである。つまりは社会システムの一断面、自己願望未達という、流れを切り取ったところに見出されるようなものではないように僕には思える。さらにいえば、流れを切り取ったとき、それは既に同じものではなくなってしまっている。問題は常に未解決のまま残され、「腹が立つ」気持ちから受け入れられる。「腹が立つ」と言い、その出口を三原に向けた鳥飼は、その誤りを知り帰京する三原を探し夜の街を走り回る。でも結局三原とは会えず、それが最後の出会いとなるのである。

話は変わるが、上記にあげたドラマ設定上の三つの変更点は、 ひとつのシーンに収斂する。それは鳥飼重太郎の死に様である。

確かにアリバイ設定上、昭和30年代の時代背景は無視できない。 現代においては同様のアリバイ工作はできようもないからだ。でもだとしても、それが現代から振り返る筋書きとする理由にはならない。 僕にとって、このドラマは鳥飼の死を描きたかったのでないかと思えて致し方ないのである。「何故か無性に腹が立つ」鳥飼の死を、珍しく雪が降った寒い朝に庭で一人うつぶせになり死んでいった姿として描くこと、それがこのドラマで一番描きたかったことではないだろうか。それは「何故か無性に腹が立つ」人の死に様としてふさわしい。

このドラマでは5人の死が描かれている。情死偽装された男女の死、 ある意味情死ともいえる犯人夫妻の死、そして鳥飼の死である。それぞれの死は、「点と線」に絡まる事件の中で一つの過程として現れる。 情死偽装された男女の死は鳥飼にとっては発端ではなく、流れる問題の新たな発見である。犯人夫妻の死は問題の解決ではなく、 新たな問題を鳥飼に怒りを持って強引に認識させる結果となる。

そしてその問題は解決されることはない。鳥飼の死に様が、 一種殺人現場に近いように描かれているのは必然なのかもしれない。逆説的に言えば、解決不能な問題を認識しないものこそが、 新しい出来事を受け入れることも見つけることもなく、それだからこそある意味安らかに死んでいくことができる、 そういう風に鳥飼の死に様は語っているかのように僕には思えたのだ。

映画を含め最近昭和30年代が多く描かれている。現在から昭和30年代を眺めると 「戦後はもう終わった」と言われた同時代の宣言が滑稽のように思えてくる。

映画「続 三丁目の夕日」もテレビドラマ「点と線」も、時代設定を昭和30年におきながら現代のリアリティをもって描かれている。それは時代劇となんら変わることはない。昭和30年代に我々が失ってしまった何かがあるかどうかは僕にはわからない。でもそれを描くために、たとえば「続 三丁目の夕日」の中で使われたせりふ「お金より大事なもの」というステレオタイプのイメージを出すために、途方もない制作費と、消費活動を利用した宣伝効果を利用しているのも事実なのである。

2007/11/21

松本清張の「張込み」を読む

松本清張の「張込み」は次のような物語を持っている。 これらは1957年の映画であろうと、2002年のテレビドラマであろうと変わることがない。

(1)刑事が殺人犯を探索するため、 過去に容疑者と関係があった女の家を張り込む
(2)女は既に歳が離れた吝嗇な男の後妻となり、彼の継子を育てている
(3)女は生気が感じられず、判を押したような日常を送っている
(4)容疑者が女の元にやってくるが刑事はそれを最初見逃す
(5)容疑者と一緒にいる女は生気があふれ活き活きとしている
(6)刑事は男を捕まえ、女に家に戻るように言う
(7)女は家に戻り、以前と同じような生活を送る

「張込む」刑事は女の私生活の一部を覗き続ける、そして女は最後に「家に戻るよう」 に刑事から伝えられるまでそのことを気づかない。「張込み」とは一種の監視装置でもある。 監視される側は監視されていることに気がつかない、

それは事象発覚した後に別の姿で起動し、監視される側に突然に立ち現れる。「張込み」 の設定が、通常は複数人体制で行われることが、油木という男性刑事一人での「張込み」は必然と考えられる。それは一種の「私小説」 の姿を呈している。小説「張込み」の読者は、自らが油木という刑事と同一化し、女を監視するのである。

監視される側は監視を意識していない以上、その姿を露にする。この場合、 女は生気のない顔で日常を過ごし、容疑者の男が現れ精彩を放つ。その変貌の落差は刑事の目、つまりは読者の目からは、 女の謎の一部を垣間見たと感じられたことだろう。この落差を描くことが小説「張込み」の主眼でもあると思うのだ。

松本清張「張込み」の構造を支える柱として「欲望」 を挙げることができるのは間違いない。「欲望」はそれを限定する場である「家」を離れて立ち上がる。しかし社会構造は、その「家」 のネットワークで成り立ってもいる。つまり「欲望」を限定する「場」としての「家」があるから、 社会秩序が保たれているともいえるのかもしれない。その社会秩序は男性社会が構築してもいる、よって刑事は女が生気のない人生を生きることを承知で家に戻ることを勧めるのである。

「欲望」の追求は叶えられることはない。女の「欲望」は男の逮捕で幕が下りる。 それは一種の「欲望」への否定の姿でもある。そして「欲望」が暴走しないために監視装置が設けられる。

1957年製作の映画「張込み」 では、 タイトル画面の時、刑事が張込む「眼」を正面で捉えた画像が映し出される。それはあたかも観客を監視する「眼」でもあるかのようだ。 ゆえに映画では、女の欲望が結果的に成就されないことで、その行為が許されないことを観客に意識させる。

逆に2002年のテレビドラマは、たけしの存在自体が逆説的に「欲望」 の発露の存在として描かれる。彼は女の家に投函された封書を勝手に開封し中を確認する。また彼の家が崩壊寸前にもかかわらず、 省みることもなく仕事へと出かける。さらに彼の妻は不倫をしている可能性もある。そのたけしが演じる刑事が、監視する女に対し、 やはり最後は家に戻るように伝えるが、既に 「家」には「欲望」を限定する「場」にはなりえていない。それは彼の家庭の姿が証明している。 だからこそより大きな代償、たけし演じる刑事の死が必要となるのである。そしてその結果、やはり「欲望」は拒否される。それは女の「欲望」
と共に刑事の家庭に対しても同様となる。

人の「死」を持っても抑えるべき人の「欲望」の発露、果たして人の「欲望」 とはかようなものなのだろうか。逆に「欲望」の限定を求めることが、 現代における人の生のゆがみとなって現れるという可能性も否定できないのではないだろうか。


確かに消極的な自由が一般的な状況の中で、 無限定な「欲望」の存在は悪とされる。ただ瑣末な個人の「欲望」は、より大きな力を持つ「欲望」とその発露の際の暴力の前で利用され無化されている現実もあるように思えるのである。

松本清張原作の「張込み」は一言で言えば傑作に値する小説ではない。 でもこの小説が各種メディアの中で時折利用され、もしくは映像化される理由は、何かしら社会の意志を感じるのは僕だけではあるまい。

2007/10/01

Twitterを無意味と語る無意味な記事を思う

ITproにおける二つのTwitterに関する記事(『「爆発的広がりを見せるソーシャル・
メディア:中身の無いコミュニケーションがなぜ若者に広がっているのか?」小林雅一
』、『最新IT動向を読む 第4回 Twitter、リアルタイム日記、プロフ爆発的に広がる“無意味メディア” 』)を読んで、思うことがある。

それはTwitterの利用者をひと括りに扱い、その傾向を分析するかのような手法である。Twitterとはどんなサービスなのかをこの場で問うことはしない。それをソーシャル・
メディアとすることもマイクロブログと扱うことも一向に構わない。ただ一ついえるのは、それらのサービスを利用する人は、学生でもあり社会人でもあり学者でもあり、もしくは主婦でもあるということだ。彼らは、日中会社で働くであろうし、学校で授業を受けているだろうし、日々の家事と育児に追われているかもしれない。また彼らはテレビを見て、小説とか漫画を読み、新聞も読んでいることだろう。 無論ネットで色々な情報を調べたり、時には買い物をしたり、また興味があることはブログなどを通じて発信するかもしれない。

当然のことだが、Twitterの利用者と利用していない人と見分けるのは不可能だろう。会社で高度なマーケティング計画を立案している人も、時折Twitterを利用しているかもしれない。もしくはアカデミックな場で、それこそ意味のある(と思える)コミュニケーションをしている方もTwitterを利用しているかもしれない。つまりは、そういう現実が今の時代にはある、と僕には思えるのである。

Twitterでの発言に「内容が無い」と語る人に聞きたい。そもそも人と人のコミュニケーションの場において「内容が有る」言葉がなされる比率はどのくらいであろうか?多くの場合、取り交わされる内容は客観的に見れば無意味と思われないだろうか。さらに言えば、Twitterなどの利用者は自分が発信するものに「内容が無い」のは言われなくてもわかっている。

またソーシャル・メディアの興隆により、従来型のメディア(新聞など)の衰退に危機感を持たれている方にも聞きたい。Twitterを利用している人は新聞を読んでいないと、もしくは信頼していないと、本当に信じているのだろうか?Twitterなどのソーシャル・メディアを使う人はそれらを使わない人となんら変わらない。興味のある事項について、もしくは特定事項の情報が他の人より多く知りえている人は、それらのことについてネットを通じて語るかもしれない。でもその事項以外は無視するというわけでもない。それらはおそらく新聞の記事を概ね信じるだろうし、食事を摂りながら見るテレビのニュース番組でキャスターの言葉に頷くかもしれない。

ネットの興隆による新聞などの衰退は確かに事実だろう。でもそれでも紙媒体のメディアが完全になくなるとも思えない。一言でいえば、状況が変わったのだ、とそれしか言いようがない。従来の価値観というか規範で説明が付かなくなった。たぶん、上記の記事の執筆者もその点は重々承知の上だろう。でもやはり物とかサービスを見るとき、それが特にビジネスの視点が必要なときは、何らかの規範となるような思考に頼ってしまうのだろう。そしてその視点でこれらのサービスをみると、「流行っている理由がわからない」となるのだと思う。

実際にサービス単位で見ると、Twitterは衰退方向だと僕には思える。 しかし似た様なサービスは雨後の筍のように登場し、なくなる方向には無い。その中で現在注目されているのは「Pownce」かもしれないが、サービスを受けるには招待状が必要なので、実態は僕にはわからない。ただ思うに、今後はこのようなサービスが、しばらくはという留保つきではあるが、多くの人に利用されるであろうということだ。まずは「理由がわからない」と思考停止になるのではなく、この状況を了解しその中から新たな視点を築きあげていくほかはあるまいと思うのである。

これらの状況は、おそらく東浩紀に言わせれば、「動物化するポストモダン」時代のサービスとして説明が付くかもしれない。北田暁大は「動物化」という言葉に多少の違和感を感じながらも大筋了解することだろう。 でもだからといって、それらの言説が、今後の展開を示唆するまでに至らないのも事実だと思う。さらに言えば、多くの人はこれらの新旧サービスを、限定されてはいるが、ある程度の情報リテラシーを持って使い分けていくだろうと思う。

ビジネス的に捉えれば、確かにTwitterの利用範囲は狭いとは思うが、窓口の一つであるのは変わりはない。さらにTwitterライクなサービスが、自分が属する業界のビジネスモデルに取り組むために何が必要かの視点で考えたとき、新たなサービスイメージが浮上するかもしれない。

冒頭に述べたように、ここでは「Twitterは何か」等の人文学的視点では語るつもりはまったくない。ましてや、Twitterなどのサービスが流行ることから、社会への不安感とか危機感を増幅する意見を提示するつもりもない。それはTwitter利用者にとっては無縁な話であり、ある意味、マスメディアもしくは一部のブログが語ればよいと思っている。逆に言えば、緊張感の無いコミュニケーション、そこからは争いもない代わりに何も産まれない、だからこそテロリズムとの相性が悪いTwitterライクなメディアがあってもよいのではないかと思っているのである。