2008/11/01

JR渋谷ハチ公リーフレット前の露天商

最近の話だ

JR渋谷駅ハチ公口にあるハチ公のリーフレット。それに面して昔から新聞・雑誌を販売する露天商がある。ずいぶん昔から営業していると思う。僕が渋谷に行き始めた頃、つまり学生時代には既に営業していた。その頃はその店だけではなく他に2~3店は営業していた記憶もある。今から数十年も昔の話だ。

渋谷駅から降りる人、もしくは利用する人達でハチ公リーフレット前は本当に多くの人が通り過ぎる。その店は年月と共に周りの景色に溶け込み、新聞・雑誌を買う人以外は、つまりは殆どの人は、その店に見向きもしない。人々は、黙々と、談笑しながら、携帯電話で話ながら、時計を見ながら、待ち合わせのために、バック・買い物袋・手ぶら、そして思い思いの服装で、少しもその店に気づくそぶりも見せずに、実に多くの人がその店の前を同じ速度で一群となって過ぎてゆく。勿論、意識し合わないのは一群の一人一人もお互いに同様だろう。でもその店から見れば、それら多くの人達は一人一人というよりは大きな川の流れのように見える。

店には一人のお婆さんが黙って座りその流れを見ている。時折何か書き物をしている。彼女の後ろには、幾つもの布製の袋がぶら下がっている。その袋の中は、おそらく長年その場所で営んできた何かの集積なのだろう。袋はいつも同じ数が同じようにぶら下がっている。僕はと言えば、カメラを携えハチ公のリーフレットと人の流れを撮ろうとその露天商の横に立っている。僕にとっても露天商は川の岸辺にある小さな岩のような物だ。その小さな岩は流れに影響も景観の美しさも与えはしない。露天商の老婆は、その店と一体化し、隣で立っている僕でさえ意識することもない。

僕がこの露天商の女性を意識したのは、たわいのない彼女の一つの行動からだ。その行動を劇的に描写する力を僕は持たないし、そういう行動でもない。単に彼女は使い捨てカメラを構え目の前を通り過ぎる一群に向けてシャッターを押したということだけだ。でもその動作が速くとても自然だったので、偶然にその行動を見てしまった僕でさえ彼女の行動を把握するのに時間がかかった。カメラは露天商の外からは見えない机の上に常時置いてあるようなそんな印象をもった。それほど何気なく、仕入れ台帳に鉛筆で数字を書き込むような、ありふれた毎日の仕事の様に、するりとカメラを取り出しファインダーを少し覗きシャッターを押して、こちらからは見えない露天商の棚に置いたのだった。

無論、何故彼女が使い捨てカメラで目の前の人通りを写真におさめたのかは知らない。でも一連の慣れた動作から、その場で何らかのタイミングで何回も撮影している様に思えた。そこから幾つもの物語を造る誘惑にかられる。物語は彼女の撮影を行う理由への興味が発端となる。でも理由(意味)を考えることはそれこそ無意味だろう。実際に彼女から聞けばよいのだ。彼女の行動に興味を持った僕は直接に理由を聞きたいという衝動に駆られた。でも客観的に見れば、カメラを持った見も知らずの男性からいきなり「写真を撮っていたのを見かけました。何故写真を撮っているのですか?」などと聞かれれば誰だって警戒する。僕は彼女への聞き方についてあれこれと考えた。で、しばらく彼女の様子を見ることにした。彼女が再度カメラで写真を撮ったとき、僕が彼女の写真のファインダーの中に入り彼女に対し微笑む、もしくは僕も彼女に向けてカメラレンズを向ける。今から思えば途方もない愚策だが、その時は真面目にそれが一番良いと感じたのだった。

僕はハチ公リーフレットの前で、彼女の視界から少し外れた位置に陣取り露天商を注視した。幸い彼女は僕には気が付いていない様子だ。僕と彼女の間はとぎる事がない人の流れが続く。時折、ほんとうに稀に露天商に人が立ち寄り雑誌を求める。その都度彼女は客に会釈をするわけでもなく淡々と仕事をこなしていく。カメラで人を撮るとは想像さえ出来ない。
僕の隣で女性が歓声をあげる。待ち人が少し遅れてやってきたのだ。謝る男性に女性はわざと少しふくれてみせる。先ほどまでの表情とは全く違う。露天商の横では男性が四・五人固まって談笑している。誰かをからかっているらしい。その隣では女性の顔を覗き込むようにして男性が何かを語っている。また、急ぎ歩く女性に勧誘の男性が近づいては断られている。露天商の女性は何も変わらない。

30分くらいがそうやって過ぎた。僕は露天商を見ている。見ながら、何か彼女がカメラで写真を撮ったことは聞くべきでも意味を考えるべきでもないと思えてくる。勝手な物語を造ることさえはばかれる。僕がたった一回見た撮影の仕草で十分なのかも知れない。ただ一つだけ僕は思う。おそらく彼女の家には数千枚の露天商から撮った、いわば定点撮影の写真があることだろう。多くの写真は量では測れない一枚一枚のその写真の集積なのだろう。この一枚、あの一枚、年月日と時間が記録された、この場面、あの場面。写るハチ公リーフレットは同じでも、流れゆく人々は誰一人として同じではない。ただ彼女だけがそこにいて撮したという事実が大事なのだ。

しばらくして僕は首を振りその場を離れた。実はこっそり彼女の写真を撮った。でも掲載は何処にもするつもりはない。

2008/10/28

中内渚 繋がりの絵

会社の同僚に連れられて中内渚の個展に行ってきた。銀座の古いビルの一室、後から別の友人から聞くと築70年だそうだ、八畳間くらいの広さに絵が並べられて掛かっていた。天井には様々な飾り付けが吊り下げられている。中内さんはそれらを指して、メキシコの飾り付風が街で売っていたので買って来たと笑いながら語る。とても笑顔の素敵な女性だ。最初万国旗と思えた飾り付けは、そうではなく骸骨の模様に切り抜いたものだった。中内さんはそれも嬉しそうに話す。「メキシコの飾り付けって骸骨模様が多いんです。」
 
部屋の天井の中心から八方に広がる飾り付けを個展開始前日にほぼ徹夜をして作ったのだそうだ。もう少し飾ってメキシコの雰囲気を出したい、まるで部屋全体が彼女の作品のように、後から思えば彼女が描いたメキシコの市場のように、なって欲しいと思っていたのかも知れない。
 
そう、個展の空間は既に画家のキャンパスとなっていたのだ。僕は彼女の空間に足を踏み入れた。その空間は入るものを拒絶せず暖かく包み込む。強度を持って個性を押しつけるわけではなく、徐々に確実に染みこませる。個展の空間への第一印象はそういう感じだった。

アートとはスタイルだと僕は思う。中内渚のスタイルは古本の頁をキャンバスにしていること。勿論それだけではない。色遣い、線の描き方、絵の構図の取り方、絵の具の種類と色の使い方等々、無限の選択肢の中から画家は瞬時に自分のスタイルに合った仕方を選ぶのだ。当然だが、観客はそれらのスタイルを構成する要素を全て読み取ることは出来ない。それに画家はそんなことを観客に望んでいるわけでもない。画家はただ完成した自分の作品を気に入ってくれることだけを望むのだ。でも僕は、画家の意に反するかもしれないが、少しだけ絵に歩み寄っていこうと思う。

何故古本に絵を描こうと思ったのですか、と僕は聞いてみる。それは彼女にとって今まで何回もされてきた質問なのだろう。画家は凡庸な僕の質問によどみなく答える。
 
「私すごくスランプになった時があって、その時に白い紙に描くことがとても怖くて。白いキャンバスは自由で、私はその自由が怖かったんです。それで古本の余白に描き始めたんです。」
 
その時彼女は一枚の絵を描くために周辺を隠れながら移動していたのだという。一枚の絵に納められた複数の立ち位置。

僕は続けて聞く。それで今では白い紙に描くことはできるのですか。画家はその質問に一瞬戸惑う。僕は補足する。たとえば何も描かれていない白い紙だとしても、自分で文字などを書き加えてフレームを造っても描けるんじゃないかと。
 
「ああ、それだったらしています。例えばあの絵」といって彼女は一枚の絵を指さす。「自分で文字を加えたんです。」

何も描かれていない白いキャンバスが自由を意味するのかは僕にはわからない。でも彼女はそう感じた。一つ言えるのは、何も描かれていない白いキャンバスは画家のスタイルではなかった、ということだ。画家の独創性はそのスタイルにこそ存在する。そして画家はそこに自由な感性の広がりを感じるのではないだろうか。彼女にとって白いキャンバスはそうではなかった。白いキャンバスから離れることで、彼女は新たな出発をし始めることが出来たのだと僕は思う。

画家は何故古本の頁に絵を書くのか。その問いは果てしなく陳腐だ。しかし誰もがその問いを持つことだろう(多くされる問いかけは陳腐なものが多い)。僕も同じように彼女に質問をした。そしてスランプの話を聞き、わかったような気持ちになる。でも実際は少しもわかってはいないのだ。人間である限り理由を求めるものだ。そして質問を受けた者はそれに応えようとする。つまりは人が納得するような答えを見つけ出し、そして聞く方はそれを聞いて安心をする。何故彼女は古本の頁に絵を描き始めたのか。でもそれはどうでも良いことなのだ。画家は古本の頁に絵を描き始めた。そしてそれが彼女のスタイルの一環になった。それで十分だろう。

それでも僕は少し思うのだ。彼女の絵を見ればわかる。彼女の筆の使い方、色の選び方は、古本の赤茶けた頁に実によく似合う。線の描き方、周辺の絵のモチーフは、少しもその古本から外れてはいない。なおかつ中内さんが選ぶ絵の題材も、完成した絵を眺めれば古本の頁に合っている。今回の個展はメキシコの風景だった。それらは市場であり教会であり、物とか人が溢れ賑やかだった。ある絵では野菜だとか果物が山高く積まれ、その中で男性が一人うつむいていた。天井には球体に円錐のような突起物が幾つも出た飾りとか絵が描かれている旗とかが吊り下げられている。またある絵では、市場の絵と同じように雑貨・おもちゃが山高く積まれ、その中で女性が編み物をしている。古本の頁であることを意識させるのは、印刷された文字、スペイン語で書かれているため僕には何が書いているかはわからないが、何か小説のサブタイトルの様な文字列を見るときだ。それでもその文字列さえ絵全体から見れば違和感は殆どない。絵のために文字があり、文字のために絵が添えられているような、そんな感触を受ける。「絵」と「言葉」、おそらく彼女にとってその二つは何ら隔てる物がないのだろう。

賑やかな題材は、多くの物と人が描かれることでさらに楽しげな雰囲気を醸し出す。しかしどの絵も第一印象として受けるのは賑やかさではない。淡い色彩が多いためか、古本の赤茶けた色のせいか、僕には落ち着いた静けさを感じてしまうのだ。しかし多くの物が描かれているため、絵に近づいて細部を見ると幾つもの面白さに出会える。クマのぬいぐるみ、カエルのおもちゃ、編み物をしている女性の横に顔だけ描かれた男性、しかもその男性には「ANTONIO」と名前が添えられているのだ。そして何枚かの絵には中内さんの文章が綴られている。

例えば、魚市場の絵の右下には次の文章が載っている。
『"魚の卵"のことを、キャビアというらしい。だから、ししゃもの卵もキャビア。実際、ここで買った、まさに見た目キャビアも、ししゃもの卵。(ちゃんと黒く色づけされている。)これをお土産にすることになった。でもなんて言って渡したらいいんだろう。"これ、お土産のキャビア"?それとも、"これ、お土産のししゃものキャビア(卵)"どちらの方が親切?』
 
また、雑貨・おもちゃを売っている店を描いた絵には、『通りがかる人が「このタイプの、別の色のあるかしら?」って聞いてきたけど、私店員じゃありません』。教会の絵には中内さん本人が登場している。添えられている言葉は、『パイプオルガンの結婚行進曲を聴きながら』。そして教会の外では花嫁の姿がラフに描かれ、花嫁と見られないと心配したのか「花嫁」と矢印で示されている。

中内さんがスケッチをする時、何冊もの古本をジャンルは選ばすに持って行くそうだ。頁は本から切り離さずに開け、まるで本を読むように、そこにスケッチをするのだと聞いた。傍から見ると、彼女が絵を描いていると気が付く人は少ないかも知れない。おそらく彼女はペンで絵を描き後から色を付けていくのだろう。

スケッチをする時間、対象となる場所、例えば市場・商店・広場・教会などは時間の経過と共にその様相は変化をしていく。画家はそれらの変化を、自分が感じるがままに、なるべく絵に取り込もうとする。時間の経過を、人の動きを、絵に現すのは難しい。難しいながらも画家は、それでも彼女自信が感じる時間の流れそのものを絵に捉えようとする。だから絵の中に、自分に起きた変化とか心境も含めて描くのだろう。彼女の絵に登場する幾つもの顔だけの人物、そして前述の添えられた幾つかの言葉はそれらの現れだと僕は思う。そこから現れるのは、ある瞬間を捉え静止した市場の姿ではない、画家が過ごした市場での時間そのものなのだ。

スケッチをしながら、その場の雰囲気を味わい、そしてその中に心身を投じる。彼女が描く何人もの人は、描かれる側はわからなくても、彼女にとって親しみある人になっているに違いない。創作は単独の活動であるのは変わりはないにしろ、スケッチをする間、彼女は多くの人の繋がりを感じていたと僕は思う。
 
個展のオープニングパーティは同窓会の様相を呈したそうだ。その時は借りている部屋では収まりきれず、階段まで、果てはビルの入り口まで人で溢れる。多少の混乱状態に中内さんは内心ハラハラする。でも「個展に来て」というと集まってくれるのが嬉しい、とも彼女は語る。和気藹々とした楽しさの中心に彼女の絵がある。おそらくそれが彼女にとっては嬉しいのだろう。スケッチをすることで感じる人との繋がり、個展での人の繋がり、そのどれもが画家に新たな創作の力を与える。

しかし不思議な気持ちがする。単独で格闘しながら創作活動をする画家は、絵を描きながら少しも観客の事は考えてはいない。あくまでも自分と向き合い自分の形式にこだわるのだ。それでいながら完成された絵は人の繋がりを求める。孤高の絵など世界に存在しない、と僕は思う。絵は描かれたとたんに観る人を求めるものだ。それがたとえ画家が唯一の観客だとしても。

世界には様々なアートが存在し、且つ創られている。いかなるアートであっても、それは観る者の活動を一旦停止させ、そのアートを媒介にして活動を再開させる力を持っている。「活動」とか「停止」「再開」をどのように受け取っていただいても構わない。僕が言いたいことはこれらの言葉に収斂するわけではない。ただこれらの言葉しか僕は持たない。

中内渚のスケッチは確かに僕の活動を停止させた。しかしその力は強引でもなく、僕の感性に混乱を与え立ち止まらせたと言うわけでもない。どちらかと言えば、僕が自ら停止したと言ったほうが適切かもしれない。でも逆に言えば、おそらくそれが中内渚の絵の力なのだろう。そして僕は彼女の絵を媒介にしてこの文章を書いた。拙さは僕の能力によるところが大きいが、時間を見つけ少しずつ書いた。いわば活動の再開は緩やかであり、自分に圧迫を感じるほどの性急さは微塵もなかった。そしてそれも彼女の絵の力なのかもしれない。

中内渚の絵はスタイルとして発展途上であると僕は思う。完成したアートという言葉自体語彙矛盾に満ちているなかで、発展途上は彼女の可能性が未知であることを示している。彼女の内に秘め、自身にとっても捉えがたい熱情が、さらに表現として彼女のスタイルに現れることを僕は望んでいるのだ。それは彼女の絵を知り、その出会いが幸運であると認めている一人のファンの思いでもある。

中内渚の公式サイト:Nagisa's Sketches & Drawings
中内渚のブログ:国際派アーティストのアイデア帳

2008/10/07

眼底出血が起きてから約3ヶ月が経った

右目に眼底出血が起きてから約3ヶ月が経った。出血は右目の視界の半分を曇らせ、かつ見る物を歪ませた。眼科医で診察を受け、出血の原因は眼からのものではないと言われた。眼の曇りから網膜剥離を想定していたので、医者のその言葉は意外だった。多くは高血圧もしくは糖尿病が原因なのだそうだ。そういえば昨年の定期健診で血圧が高いと言われたことを思い出す。実は最近まで血圧が低い方だと思い込んでいた。かつて血圧が低く保険に入るのに苦労した。血が薄いと言われ赤十字の採血を拒まれたこともある。だから、血圧が高いと言われたとき、自分への思いと医者からの言葉とが一致せず多少混乱したのも事実だ。糖尿病を現す数値は今まで出たことがない、そうであればこの眼底出血は高血圧が原因の一つであるのは間違いない。昨年の定期健診で血圧が高いと言われてから、それまでに時折訪れる身体の不調が高血圧の症状と繋がり、多少ながら自覚していたせいか眼科医が言う原因の幾つかの中で、僕は漠然とそう信じた。

眼からの情報量は約80%だと聞く。右目の下半分の視界が損なわれている僕は、つまりは約20%の情報量が失われていることになる。でも実感としてはそういうものではない。私の見える世界は以前とほぼ変わらぬ世界である。ただ全く同じというわけではないし、右目だけで見れば、曇りと歪みとで近くの人の顔さえ判別不能な状態である。左目からの映像と合わせることで、脳内で補正をかけて以前と変わらぬ像を描いているのだろう。しかし静止視力は以前と比べ著しく落ちた。強いてカメラレンズに例えれば、僕が見る世界は絞りを開放した世界に近い。大げさに言えば、焦点が定まったものは確かに見えるか、その他はぼけて見える、そういう感じである。だからか、この眼で見る世界は以前と比べとても美しい。

僕の眼が眼底出血という「病気」に罹ったと言えるのは、眼底出血前の状態、つまりは欠損前の状況を把握・記憶しているからだ。さらに眼科医から見せられた激しい出血の跡を示す眼底写真。だから僕は医者から処方された薬を毎日飲み、してはいけないと注意されたことを守る。しかし僕はこの眼の状態をどこかで「病気」であるとは考えてはいない。確かに眼底出血の為に、バイクに乗るのは控えているし、仕事でのPC作業は疲れる、次第に読書時間は減っていったし、なによりもカメラのファインダを左目で見ざるを得ず慣れるのに苦労している。でも僕は現在のこの眼で世界を見、そして感じている、そしてそのこと自体に欠損は少しもない、世界に欠損がないように。性能低下はあるが見えるという機能的な事を言っているわけではない。逆に言おう、今回のことで僕は「見ると言うこと」に以前と比べ少し意識するようになった。

カメラでピントが激しくずれた写真を眺めたとき、僕は人間の眼では捉えられない世界が確かにあると思ったことがある。ピントが合っていない写真、ぶれて対象が何重にもながれている写真、歪んで写っているものが判別不能な写真、それらは僕らの世界に確かに存在する「もの」の姿を現していた。その時、僕にとってカメラは人間の眼では見ることができない「もの」の姿を写す道具だった。人間が見える世界は、人間にとっていわば都合のよい世界なのだ。カメラで捉える失敗とされた無数の写真のように、光を捉える時間と静止しない視点、さらに光の波長を読み取る幅により、そこに在る「もの」の姿は人間の現実を簡単に超えてしまう。

左目による脳内の補正は、僕の過去の経験を根拠にしているのだろう。こうあるべきだ、という世界。それとも僕の脳は人間にとって在るべき世界を知っているのだろうか。そしてその世界を僕の右目は拒否しようとしている。時折感じる右目の違和感は、まるで失敗とされた写真と同様に、右目からの世界も受け入れるべきだと僕に訴えているかのようだ。

2008/04/08

さくら

東京ではソメイヨシノが散り始め、少し遅れて山桜が満開の時期を迎えた。しかし圧倒的な本数の違いか、ソメイヨシノの散りゆく姿は今年のさくらの終わりを感じさせる。先週末、会社知人の姉が亡くなられたと聞いて通夜に行ってきた。茨城と埼玉の県境にある町。利根川の土手には夕日に照らされて菜の花が眩しい黄色を放っていた。そして通夜の場所の傍らにはソメイヨシノが咲いていた。散りゆく桜。桜には死にゆく者をイメージさせる。無論これは造られたイメージだ。それはわかっている。でもこの国の春にはさくらが多すぎ、僕はどうしようもなくそのイメージに囚われる。

さくらは人の手が入らない限り群生することはない。群生しているということは人が植えたと言うことだ。近代では、さくらが植えられた時代は廃墟と都市開発に重なるという。植民地政策の一つとしてさくらが植えられ、戦争による廃墟の跡にはソメイヨシノが植えられた。さくらの樹の下には死体が埋まっているという梶井基次郎のイメージはあながち間違っているわけではない、と思う。

日本人が桜が好きなのは、歴史的・社会的に構築され捏造されたものに過ぎない。凡庸な意見だが、別に異論はない。でもそこからは次の何かが生まれるとも思えない。ソメイヨシノは植えられ、植えられた人の意志とは次元を異にし、春になれば花を咲かす。そこにあるのは生命の営みであり、人間がソメイヨシノに抱く様々な了見とは無縁の開花でもある。しかしその桜を植え続けているのは人間なのだ。

昨年参照した佐藤俊樹氏『桜が創った「日本」-ソメイヨシノ 起源への旅』によれば、ソメイヨシノを多く植えた理由の一つとして「経済性」があげられると言う。価格が安く、供給元に需要に応えるだけの生産能力があったから、役所にとっては計画が立てやすかったと言うのだ。そしてもう一つ、ソメイヨシノが桜のイメージを誇張した姿だったこともあげている。いわばさくらの理想型、理念化されたさくらの姿は思想的に政治に利用しやすかった。

理念化した桜であるソメイヨシノへの反発も当然にわき上がる。しかし強い反発は植える熱意と大して代わりはしない。桜を元に近代日本の姿を暴いた所で花見の客が興ざめをするわけでもない。人々は日々報じる桜前線に色めき立ち、満開の桜の下で狂騒を繰り広げる。
さくらは一つの様式を我々に示すが、さくらの経験は個々の文脈によって違う。毎春に同じように咲く花は、我々の人生において一つたりとも同じものはない。愛すべき人を失った者が観るさくらは悲しくはかないことだろう。新たな道を歩む人が観るさくらは青空の下で意気揚々と咲いていることだろう。個々の経験は記憶となってさくらに結びつき、やがてさくらは忘れ得ぬ花となる。

一つの様式、一つの理念で語られるさくらは既に過去のものとなっている。それは良いことだろう。その代わり、さくらは個々の思い出作りという活動に動員され消費されることになる。いわば現代のさくらは自由市場に放り込まれた一つの商品でもある。特別ではあるが、単なる日本に在る多くの樹木の一つとしての存在。それもまた良いことなのかもしれない。

2008/02/27

「タスポ」その導入経緯 メモ

今年から開始する「taspo(タスポ)」について書きたいと思う。きっかけはnikkeiBPの記事「たばこカード「タスポ」、その導入経緯に怒れ!」(政治アナリスト 花岡 信昭氏 2008年2月14日)だった。花岡氏の記事は概ね正しい。ただ一つ意図的かもしれないが書いていないこともある。
「それにしても、2700万人がかかわる個人カードの導入、たばこ小売販売店への行政指導が、業界と財務省の意向 だけで決まってしまうのは、いかにも無神経すぎる。国会で大問題になったという話も聞かない。たばこ購入カー ドを強制され、たばこを買うことだけの番号が勝手に付けられる。国民としては怒りの声を上げていいはずだ。これは昨今の嫌煙ブームとは別次元の話である。」
カード導入の契機になったのは、花岡氏の記事にもあるように「2005年2月に発効した「たばこ規制枠組み条約」で未成年の自販機でのたばこ購入を防ぐ義務が締結国に課せられたことによる」。日本は本条約に2004年3月9日に96カ国目に署名した。その後衆参両議院で全会一致で承認をされ、同年6月8日に条約の受諾書を国連事務総長に寄託した。19カ国目だったという。条約は同年11月29日に批准国が40カ国になったので、90日後の2005年2月27日に発効となった。

本条約は1999年に起草されたが、起草段階からアメリカと日本など反対により採択が危ぶまれた経緯があった。ちなみにアメリカは署名はしているが現在でも批准はしていない。日本が急転し採択と署名を行ったとき、時の財務大臣 谷垣禎一は「国民の命には代えられない」と語ったという。

「タスポ」導入経緯は財務省審議会である「たばこ事業等分科会」(2005年3月29日)の議事録を読めばある程度会議での空気感を読み取ることが出来る。そこでは条約を批准するにあたり、自動販売機を全て撤去するか、もしくはICカード販売機を設置するかの瀬戸際の中で、業者と財務省がICカード販売機実現への舵取りをしている様が現れている。日本たばこ産業からの出席者はICカード販売機を「成人識別機能付自販機」と呼び、鹿児島種子島での導入検証において未成年のたばこ購入に関して効果があったかのように語る。

「タスポ」導入検討は、たばこ業界で1999年から開始している。これは条約の起草が開始した年でもある。たばこ業界単独での導入検討を開始する事は考えようもなく、ここでも財務省との緊密な連携が想定される。つまりは、条約起草時に反対していた日本の立場は、財務省にとっては自動販売機の撤去をすることなく、条約を批准する仕方を模索するための準備期間であったと思えないこともない。

花岡氏の記事では、国民の議論なしでの導入経緯に問題があるとしているが、仮に議論があったとして、その方向は喫煙率が約30%のこの国では概ね流れは定まる。たばこ事業等分科会では警察が自販機の撤去を将来求める発言もしている。また、2005年3月29日の第九回分科会の後に、「子どもに無煙環境を」推進協議会会長の名前で、ICカード自販機の導入中止、全自販機の撤去、たばこ税率の引き上げ等を求める要望が谷垣禎一財務大臣宛に提出されている。その時点での方向は、自動販売機の段階的撤去の流れが確かにあったのである。

また、国民の議論なしと花岡氏は語るが、それを言えば、条約への署名と、その後の衆参両議院での全会一致による承認をどのように捉えるのであろうか。この問題は常に言われている代表制の矛盾でもあるが、いまここで語ることでもない。結局たばこ業界は、たばこの需要が減っていくことが世の流れとしても、急激な変化を求めなかった。そこが税収の立場から同じように考えていた財務省と利害が一致した、というわけだ。そこで準備を怠らなかった両者が全自動販売機撤去の危機を「タスポ」で乗り切ろうとし、ひとまずは乗り切った、ということだろう。

確かに「タスポ」は不完全で中途半端でしかもコストがかかる。たばこに関する規制(アーキテクチャ)としては寿命が短そうなのは誰でもわかる。ただ「タスポ」により得られるデータは、今後のたばこ税引き上げによるたばこの需要と税収予測、さらには個人まで追いかけることにより、様々な疫学上のデータ取得にもなり得て、今後の施策への貴重な根拠となることだろう。そして両者にとってはそれだけでも「タスポ」の役割は十分に満足するように思える。

僕は「タスポ」の導入経緯で怒りを覚えることはない。これは様々な環境管理のなかの一つでしかない。

(参考)
「たばこカード「タスポ」、その導入経緯に怒れ!」
「たばこ規制枠組み条約」(外務省)
「たばこ事業等分科会」(2005年3月29日)議事録
Wikipedia「たばこ規制枠組み条約」
「子どもに無煙環境を」推進協議会
「導入中止の進言要請書」