「私」から書き出してみる。このブログ記事では「私」と書き出すことは一度もなかった。でも今回の記事は「私」と自分を表現することの方がふさわしい。私の勝手なイメージでは「僕」は「私」より自己中心性が増しているようだ。それはそれで悪くはないのだが、「私は」で始まる自分の文章が「僕は」で始まる文章と何が違うのか、実のところ興味はある。
私は以前に「ほんとうの自分」という事を考えたことがないと記事に書いたことがある。でもその時は「ほんとう」ということに対し、今でもそうなのだが、どちらかというと否定的な気分がまわりに漂っているのを感じ、その上でそれほど考えずに書いていたように思う。実際は私は「ほんとうの自分」というものを常に求めているような気がする。本質的に自己意識が自己価値を求め、自己価値は他者もしくは社会の承認によって得られるのであれば、社会の矛盾を感じる時代性の中で「ほんとう」などないと考える自分がいるのも間違いないが、それでもなお、私の根っこの部分では「ほんとう」を求めているようだ。
私にとっての「ほんとう」は、自己欲求を満足することが即ち他者と社会から承認を受ける事と同義の状態において、絶対的な「ほんとう」ではない。まして、他者も私と同様に自己欲求と承認を求めているのであれば、他者との関係性の中において別の「ほんとう」があるとも思う。他者との関係の中で、もしくはある程度社会との関わりの中で、契機となって私の中で意識される「ほんとう」は、私の「良心」とも言うべきものとして、逆に私の行動を要請することになる。それに準ずることが、私にとっての「ほんとうの自分」に近い様にも思える。だから結局のところ、私の「ほんとう」とは、道徳的な側面は全く持たないとも言える。
私は今までの人生の中で、多くの誤りをしてきた。私にとって「ほんとう」とは、自分が誤りを行う可能性の中で、繰り返し自分に問うことで見つけていくものかもしれない。
時として私は自己欲求を強く推し進め、自己および他者との関係を崩してしまうことも多い。その衝動は時として抑えがたく、私のうちに大きなうねりとなって私を飲み込む。それは時代性をもつ社会の中で常識と呼ばれる道徳性にそぐわない行動ではあるが、私にとってはある意味、誤りといえども「ほんとう」を求める行動によってともいえる。ただ、それは他者との関係性が契機で意識される「ほんとう」とは違うとは思う。
私にとっての「ほんとう」は、社会的な地位もしくは金銭を得ることで自足することではない。他者がそれによって「ほんとう」を得ることにたいし、私は言及する事は一切ないが、それは私の「ほんとう」ではないのは確かなことだ。「ほんとうの仕事」など「ほんとう」を接頭語にする何かは、私にとって、私の「良心」に適ってこそ「ほんとう」と言い得る何かではないかと思う。ただ、「良心」に適うことは私にとって、実際上難しい事ではある。
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