「八月十五日の神話」(ちくま新書 佐藤卓己著)はメディア論を中心にし、八月十五日が「終戦記念日」として日本人に受け入れられてきた理由を実証的に解明している。佐藤氏は学究者としての立ち位置を崩すことなく、あくまで実証的な態度で書いている。少なくとも僕にとっては良書だと思う。この問題を扱った他の書籍を読んでいないので較べることができないが、この書籍を出すのに日本は戦後60年の時間を必要としたのではないかという思いを持つ。
実証的な態度で書かれていると僕は言ったが、佐藤氏の背景に「敗戦後論」(加藤典洋著)の影響があるように思える。それは本書中に「八月十五日の神話」が重要な箇所で引用され、その考えが了解されているから感じるのであるが、だとすれば研究する佐藤氏の意識の中に加藤氏のいうところの「ねじれ」があったとしても不思議でない。多くの批判と論争を呼んだ「敗戦後論」について、僕としては加藤氏の意見に全てではないが納得することが多かった。だからこそ僕が佐藤氏のこの書籍に違和感を覚える事が少なかったのかもしれない。
八月十五日が終戦記念日となった理由の一つとして佐藤氏は以下のように書いている。
『進歩派の「八・十五革命」は保守派の「八・十五神話」と背中合わせにもたれあう心地よい終戦史観を生み出した。』
(「八月十五日の神話」 佐藤卓己著 P256から引用)
進歩派の革命とは丸山真男の「八月十五日革命論」のことであり、保守派の方は九月二日の敗戦を象徴する降伏文書調印を忘れ、敗戦を終戦に変える意味である。さらに佐藤氏は、「八・十五革命」は戦前から戦後への連続性を見えなくする効果があるとも言っている。具体的には、敗戦によって破綻したメディア企業はほとんどなく続いているのである。この点が佐藤氏がさらに追求したい核みたいなものだと僕は思う。ただ、この書籍ではこれ以上は続かない。
「八月十五日の神話」の感想とは、具体的な本書の内容を書き表すことではないと僕は思っている。何故僕が今この本を読むのかという問いかけ、それは時代の雰囲気が僕に要請しているかだとは思うが、その問いかけに対して僕がどのように答えるかだと思うのだ。そして読んだ後に何が自分に残ったのかという事。その二つの質問に答えることが、この書籍の感想に値するのではないかと思う。でもそれにはしばらくの時間が必要なのは間違いない。
歴史は政治でもある。以下に本書に現れた主な日にちを記した。どの日を選択するかは、その人の考え方によって変わることだろう。佐藤氏は、沖縄の「慰霊の日」と「平和の日」から以下のように言っている。
『お盆の「八月十五日の心理」を尊重しつつ、それと同時に夏休み明けの教室で「九月二日の論理」を学ぶべきだろう』(同書 P258から引用)
1945年6月23日 沖縄 守備軍組織的戦闘終結「沖縄慰霊の日」
7月2日 沖縄戦米国側終結宣言
8月6日 広島原爆
8月9日 長崎原爆
8月14日 ポツダム宣言受諾
8月15日 玉音放送 1963年閣議で実質「終戦記念日」と法的に定める。
8月16日 日本軍への戦闘停止命令
9月2日 ミズーリ艦上での降伏調印 米国等の対日戦勝記念日
9月3日 旧ソビエト北方諸島ほぼ占領 ロシア・中国の対日戦勝記念日
9月5日 旧ソビエト歯舞群島占領完了
9月7日 沖縄 残存日本軍降伏調印 「沖縄 市民平和の日」
1951年9月8日 サンフランシスコ講和条約調印
1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約発効 日本占領終了
1972年5月15日 米軍沖縄占領終了
ちなみに僕は、8月15日のラジオ放送において、玉音放送(4分37秒)の他に放送委員の解説と再朗読、さらに内閣の国民に対する告論、ポツダム宣言受諾までの経緯と各文書の内容などを放送し、総放送時間は37分30秒に及ぶ時間であったことを知らなかった。終戦詔書の漢文混じりの難解な文体を、即時理解できる能力があったのかと単純に思っていただけだった。その意味では僕は全くこの件に関して無知であったと思う。
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