2005/07/08

再び「宇宙戦争」の感想、それは一つの妄想

af_blogのfuRuさんの「宇宙戦争」感想記事を読んだ。「宇宙戦争」の映画だけでなく、最近の映画全般にわたる、とても良い記事だと思う。僕とは見方が違うが、それでも納得できる部分も多く、読んでいてとても面白い。なによりfuRuさんの感性に触れることがとても楽しい。

再度「宇宙戦争」感想記事を書くのは、fuRuさんの記事に触発されたというわけではなく、前回記事において書くことを躊躇した内容を、僕の思考の中に留めおくよりはメモとして残しておいたほうが良いと考えたからだ。

ティム・ロビンスは好きと言うより、巧い役者という方が僕にとっては適切だと思う。「ショーシャンクの空に」「ミスティック・リバー」、双方での彼の演技力は素晴らしかった。ただ、やはり僕にとっては「ショーシャンクの空に」のアンディ役が印象に強く残っているせいか、その後の彼が演じる役は巧いとは思うが、多少の違和感を持ってしまうのも事実ではある。再度の「宇宙戦争」記事はティム・ロビンスがメインというわけではないが、彼が演じる役オギルビーとトム・クルーズ演じるレイとの関係について書きたいと思った。
前回も書いたことだが、「宇宙戦争」は主人公であるレイの視点から描かれている。それはかなり意識的なカメラに立ち位置からでもわかる。この映画では、レイが見ることしか見えず、レイが知ることしか観客は知ることが出来ない。それは、同じスピルバーグ監督作品である「プライベート・ライアン」が連合国側という一つの共同体からの視線とは異なり、主はあくまで個人の目線だと思う。「プライベート・ライアン」では、一つの共同体から外れる者たち、つまり枢軸国側兵士の痛みは殆ど観客に伝わらないが、冒頭のノルマンディ上陸での激しい戦闘シーンでもわかるように、連合国側兵士の痛み・人間性は明確に伝わってくる。

「宇宙戦争」の場合、視線はレイという個人の視線であるため、幾つかうがった見方も可能となる。その最たるものは、たぶん、宇宙戦争自体がレイの妄想ではなかったのか、ということだ。レイは生活が荒れ、離婚によるストレスと、子供を愛せない自分を責めている。その結果、精神的に追い詰められ、宇宙戦争という妄想が登場し息子と娘を連れまわす、そんな見方だ。それであれば、「宇宙戦争」において説明不能な様々な出来事も、レイの意識における何かの象徴性ということで説明がつくだろう。

勿論、上記の見方を僕は選択しない。でも似たような見方として、映画の中で一つだけそれらしき場面があると思っている。それがティム・ロビンス演じるオギルビーとレイとの関係である。僕は、この映画をレイの視点で描かれているといったが、実際は数箇所においてレイの視線から外れるときがある。その一つが、レイが娘を守るためにオギルビーを殺害するシーンなのである。このシーンはレイがオギルビーがいる部屋に入りドアを閉めて、しばらくして殺したと観客に思わせる状況で部屋から出てくる。その間の目線は、誰でもなく、ただ娘を映しているだけとなっている。映画全体から言えば、とても奇妙なシーンでもある。

はたしてオギルビーなる男性は存在したのだろうか。これがこの記事の主旨でもある。率直に言えば、僕はオギルビーなる男性は実際には存在せず、彼はレイの幻想だという見方をしている。何故そもそもオギルビーは、逃げ行く大勢の中からレイ親子を見つけ助けようとしたのか、レイ親子を助けるだけではオギルビーが目論む反撃への戦力としては弱いとしか言いようがない。それでいて、反撃を目論むオギルビーはレイを囮にし、その隙に敵を叩くことを考えている。それは自己保身を考えてというのもあるが、オギルビーが娘に近づいたり、レイに娘のことは面倒見ると告げたりと、実はオギルビーの意図は娘をレイから奪うことにある様にもとれる。少なくともレイはそのように見ている。

何故オギルビーはレイの娘を奪おうと目論むのか。オギルビーは宇宙人によって妻と子供を殺された男である。それは離婚によって妻と子供から去られたレイの境遇を暗喩しているようでもある。レイはオギルビーが登場する場面では、娘を守る父親の対場となっているが、元々は子供と一緒にいるのが面倒と考える男だった。オギルビーは亡くした自分の子供の替わりにレイの娘に近づいたのかもしれないが、想像するに、妻と子供を愛する良き父であり良き夫だったことだろう。ただ、宇宙人が地球人の血を吸う現場を見ることで、オギルビーの行動は一変する。幻想の増援部隊を導くために、地下に穴を掘り始める。それは恐怖から自己の生存だけを願うエゴイスティックな姿でもある。見方を変えれば、それはレイの以前の姿でもある。

つまり僕の言いたいことはこういうことだ。レイはオギルビーの宇宙戦争前の父親像を願い、宇宙戦争前の自分の姿を錯乱したオギルビーの姿に見た。だから、レイはオギルビーを倒さなければならなかった。倒したのは以前のレイの姿である。そして残るのは、宇宙戦争前のオギルビーの良き父親像であるのだ。これらはレイの精神の中で行われたと考えたほうが良いと僕は思う。第一、地下を掘る音がうるさいだけで人を殺す動機になるだろうか、気絶させ手足口を不自由にするだけで事足りると僕は思う。

レイがオギルビーを殺す場面がないのは、実際に殺す相手が実在しないからだと僕は思う。だからそれ以降は、オギルビーの存在そのものがなかったかのように描かれ、観客から彼は忘れ去られる。
僕にとってこの映画は、何故レイ個人の視点だけで描かれなくてはならなかったのか、の問いで記憶に残る映画になったと思う。ただ評価については、前回の記事から変わることはない。

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