ブログは広い意味で日記の一形態でもあると思うので、書かれていることはあくまで個人的なことが多いと思う。個人的な事項でなくてもその内容は多くは主観的なことだろう。最近僕は「公私」の切り分けについて考える時、この主観的ということについて思いが行くことが多い。ながく僕に染みついた一つの考え、それは主観的なものは「私」に属し、客観的なことは「公」に属する。意見とは主観的なものでなく、そこに公の視点がはいってこそ人が聞くべき「意見」となる。だからこそ、僕は人前で自分の意見を飲み込む。まずは吐き出す自分の考えがこの場にふさわしいか否かを考えるのだ。
でも最近少し考えが変わってきた。先だってこのブログで書いた記事「他者が僕に」はそういう気持ちで書いた。あの記事はあくまで僕の事だけど、恐らく他の人にもあることだろうと思ったのだ。ただそれでも主観が強すぎたかもしれない。別の言い方をすれば、「意見」とは主観の中に他の人を想定すること成り立つと僕は思っている。他の人だったらどう考えるのだろう、という他者の視点を主観に挿入することだと思う。
「公私」の切り分けは時代性がそこには存在する。きわめて恣意的なものだとさえ思う。ある時代では単なる愚痴と受け取られていた言葉が、ある時代では意見として多くの人の心を掴む。例えば、介護についてがそうだった。石綿についても永く個人の問題として受け取られていたことだろう。
イラク人質事件では「自己責任」という言葉が飛び交った。その他にも「自助努力」という言葉もでた。文字通り「公私のけじめ」もあった様に思う。それらの言葉は一連のあれらの出来事が「私」の要素が大きいとのおおかたの考えからきたのだろう。その反面、現在では少子化による国民の「性」に関すること、漢字の読み書きの程度のことが、「公」として話がされているのだ。勿論国家が国民の「性」への関与は今に始まったことではない。ただ、いずれにせよそれらの話は「有効性」「無効性」もしくは「効率」の面からなされることが多い様に思える。
北朝鮮拉致の話の中で、ある社会学者は国際政治の有効カードの話をだした。確かに国際政治とはそういったものかもしれない。でもそれらの背景にも同様に「有効性」の観点からの視点が強いのではないだろうか。「有効性」の視点からの考えは選民への考えにつながる、と僕は思う。役に立つ立たないの基準で落ちるもの達の声を誰がどのようにして聞き遂げるのであろう。介護が必要な方は無効なのだろうか。そんなことはないと多くの人は語るだろう。そのような方々に向けて様々な法律を整備しているではないかと答える方もいることだろう。でも僕の言いたいことはそういうことではない。それは僕自身の心の中にもあることを認める部分、有効性無効性の社会に暮らすものの奥底にある、それらの方々に向ける目にある僅かでもある侮蔑の目線のことなのだ。
アマルティア・センは公共的価値を「基本的な潜在能力」と考えている。「潜在能力」として例示するのは、『適切な栄養を得ていること、避けられる病気にかかっていないこと、早死にしないこと、文字が読めること、自尊心を持ちうること、友人をもてなすこと、会いたいと思う人に会えること、コミュニティの生活で一定の役割を果たすこと』(公共性 齋藤純一著 から引用)と言っている。
そしてそれらの潜在能力が脅かされるとき、もしくはできないとき、潜在能力の「略奪」として把握すべきだとセンは述べている。
それらが「略奪」されたとき、された側が声を上げる場所としての公共領域の必要性を僕は感じる。それらの領域は共同体ではなく、まさしく差異が共存する領域でなくてはならない。また、そこからの声が政治に結びつかなくてはならないと思う。
実はネットを使い始めた頃、僕は属性をできうる限り排除できるネット空間に公共領域の立ち上がりを期待した。ここには発信者の属性が見えず、それ故にその構築が可能だろうと思ったのだった。でもそれには自分も含め、ネットという環境以前に必要とする何かが未成熟な状態だった様に思える。
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