ロンドンで同時多発テロが発生し様々なメディアで報道されている。それらは僕に「同時多発テロ」というキーワードで9.11を思い起こさせる。
9.11の事件が起きたあの日あの時間僕は、会社ではなく自宅にいてテレビでの生中継を食い入るように眺めていた。メディアから垂れ流しに放映していた映像は、アナウンサーの絶叫とともに、僕の中で一つの記憶となった。それはメディアが造る一つの社会として共有する記憶に変質する。ただし僕は何故自宅にいたのか、その理由を今でも僕は覚えている。それはあまりにも個人的なことであり、ここで話すことを控えるが、9.11の記憶は僕にとっては、その理由とリンクして意識の中で一つの場を作り出した。それは個別な記憶であり、その記憶が強い事により、メディアが報道し形成する記憶が、個別の記憶を完全に塗り替えることもないと思う。
9.11の映像は、ピンポイントで見ればビルが崩壊し逃げまどう映像であるが、時系列には、同北棟激突、国防総省激突、ペンシルベニア州墜落の事件を知る必要があるし、また米国と中東との歴史を体系的に理解することでさらに奥深く知ることができるだろう。メディアが垂れ流しに放映した映像ではそこまではわからない。それはメディアで繰り返せば繰り返すほど、造られた一つの記憶として社会において一つのイメージを形成する。
ロンドンでの事件が今後どのような姿で、社会の記憶として形成していくのだろう。個別の記憶は必ず変質していく、それは実体験としての記憶だとしても、写真その他の記録された媒体にむかい、整合性をとるように記憶のシステムは動くかのようだ。
「八月十五日の神話」(佐藤卓己、ちくま新書)を読んだ。8月15日とは一般に終戦記念日と呼ばれている日のことである。この書籍の感想は別途自分の中で落ち着いたときに書こうと思う。確か「極東ブログ」の記事「終戦記念日という神話」にもその辺のところが書かれている。いみじくも佐藤さんの書籍と「極東ブログ」の記事タイトルは、ほぼ同じである。でもその立ち位置は若干の違いがある。佐藤さんの場合、メディア論として8月15日が如何にして終戦記念日になっていったのかが語られる。「極東ブログ」の場合、根底には敗戦国になり、現在ではそれを忘れている日本への独特の情感が流れているように感じられる。それはたぶん、現在多くの日本人が、勿論僕も含めて、失った感覚のようにも思える。だから僕はそれを具体的に書くことが難しい。極東ブログさんの書き方は実証的ではあるが、根底には文学があるように僕には思える。そのように書くことで、何かを文体のなかから読み手に感じさせる。その意味では、「極東ブログ」の記事の方に僕の魂は揺れ動かされる。
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