2005/07/15

他者が僕に

他者が僕に不愉快にさせる言葉を発したとする。その際僕は相手にその言葉を発した理由を聞くことだろう。でも相手から納得のいく言葉が得られないとき、もしくは無言で黙られたとき、僕は苛立ちを感じることだろう。それは僕にとっては理不尽だと、相手を罵るかもしれない。その際、僕は何に苛立ちを感じたのだろうか。それは自分の意識の中に他者が了解されずに存在することだと思う。了解を受けていない相手が、それでも僕の承認を求めている姿。その姿は「問題はお前にある」と雄弁に語っているかのように僕は受けとる。でも僕は相手を認めたいのだ、しかし了解への糸口を拒否し、それでもなお、承認して欲しいと言っているこの相手は、僕に一つの難問を提示しているかもしれない。それを解かないと先には行けないというような、そんな問題の一つとして。

相手を不愉快にさせたのは、相手にとっては僕であるはずだ。如何にして僕は相手を不愉快にさせたのか、それを聞き、僕は一体何をしようとするのだろう。関係のない相手であれば、もしかすると無視するかもしれない。例えば、街中で知らずのうちに鞄を前を歩く人にぶつけてしまった時のように、振り返る相手の痛がる顔を見ても自分に関係するとは少しも思えないだろう。少し歩いて、あの相手の痛みは僕が与えたものだと気がついても、もうそれは遅い。その際相手が罵る言葉も僕宛には聞こえない。街中の喧騒の一こまとして瞬時に忘れ去られる出来事になることだろう。でもこの相手は無視できる相手ではないのだ。

相手から、僕が不愉快にさせた理由を何故聞きたいのかと問われたとき、この状態が僕にとって理不尽なことであり、それを知ることで僕は貴方を承認したいからと答えるだろう。でもそれはタテマエでしかない。恐らくホンネの部分では、僕は相手に自分の正しさを承認させようと目論んでいるのだ。たぶんその時の僕の行動はこうだ、まず不愉快にさせたことを神妙にして聞く、その次に不愉快にさせたことに対し謝るが意図的でないことを告げる、そのうえで、僕の行為が相手に不愉快にさせるに至ったことを相手の問題として切り出すのである。考えてみれば嫌らしい行為かもしれない。でもそれを行うことで、僕は僕自身のことを守るしかない。

相手は僕の行為を見越している。そう考えるしかない。見越した上で、僕が自分を守る過程の中で、実は相手に謝りながらも相手のことを傷つけることも見逃さないのだろう。仮に意識せずに相手に不愉快にさせた僕の行為が、自分の信念に基づくものであったとしたら、相手の言い分に簡単なことでは納得はしないと思うのだ。それは単純な出来事から無限に続く疑心暗鬼への一歩へと踏み出すことでもあるのかもしれない。そのうちに、お互いの言葉は、どうしてこうなってしまったのだろう、という溜息にも似た呟きになっていくことだろう。その時は、その呟きさえ相手に気づかれないようにと、臆病になっている自分を想像できる。

僕はいったい何を守ろうとしているのだろう。人が生きるということは信念を持つことだと僕は思っている。人は信念の為に死ぬことも出来るかもしれない。その信念は自分の体験とか経験により確信をもって自己の中にあるものなのだ。でもひとたび考えれば、現実の喪失に対しても見失わないほど強い信念を僕は持っているのだろうか。特定の相手を大事に思う気持ち、それも一つの重たい信念と言えるのではないだろうか。それであれば、僕が守っている信念とは、実際はそういうものでなく、単なる生理的な自己保身に近い感情に近いのかもしれない。もし双方とも同じ信念であれば、僕の中で衝突したとき、どちらかが残るかは冷静になればわかるはずだろう。

自分を殺してでも相手を気遣うことが僕に出来るのだろうか。僕の信念は個別のものだ。それゆえ相手の信念も個別のものだと信じ対応しているところがある。でも信念が個別だけだとすれば、「ほんとう」ということ自体無意味となる。仮に相手が「ほんとう」の何かを持って、僕に対応しているのであれば、そしてその「ほんとう」を崩したくないとするのであれば、僕はただ自分の信念を含め自省しなくてはならない。確信をもった信念も一瞬に崩れ去るときがある。僕はもしかすると、そういう崩れを体験しなくてはならない状況に来ているのかもしれない。そんなことをだらだらと考えてみる。

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