2012/05/15

映画「愛を読むひと」

人にとって一番楽しく素晴らしい記憶が思い出したくもない苦しみに繋がるとしたときに、その人はきっと希望を持つことが難しくなるように思う。これは角田光代さんの小説「八日目の蝉」の話だ。「八日目の蝉」では主人公である恵里菜は自分が誘拐された幼い頃の記憶を忘れようとしている。しかしその記憶は彼女にとって今までに最も幸福な時代でもあった。幸福な記憶が同時に忌まわしい記憶である状態。それはこの映画「愛を読むひと」の主人公マイケルの状態に近いと思う。彼はその結果、人を信頼し素直に交わることが出来なくなっている。彼がその状態から脱するのは15歳の頃に心の底から愛した女性ハンナの自殺によってだった。マイケルにとって幸福な記憶はハンナとの逢瀬の記憶であり、逆に忌まわしく恥ずかしい記憶もハンナとの関係の中にあった。ハンナの死で幸福な記憶だけが残ったという単純なわけでは決してない。そうではなくハンナの苦しみをマイケルが理解し受け入れたことが、そしてハンナとの関係を人に伝えることで二人の出来事を認めることが、その状態から脱していくきっかけになったということだと思う。この映画に関して言うとハンナ演じるケイト・ウィンスレットの演技が印象的だし、脚本でもハンナの描き方が丁寧だと思う。確かにハンナはこの映画の要で在るのは間違いない。でも同様に肝心な成人したマイケルの心境がハンナに較べて多少丁寧さに欠けるように思う。この映画は至る所に感想を想起させる要素がある。例えば文盲とかナチス戦犯裁判(まるでアイヒマン裁判のようだ)とか年上との一夏の恋(まるで映画「思い出の夏」だ)だとか・・・、さらに本を読めるようになったハンナが本を足場にして自殺するシーンもそこから何かを語ることは可能だろう。でも僕がこの映画で受けたのはそんなことではなく人が存在する寂しさというものにつきるかも知れない。

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