2012/05/20

リフレクション 桑原甲子雄さんの写真 マネキン

マネキンの撮影を続けている。何故マネキンなのかを語れば色々とあるが、それは今だから答えられる話でもある。始めた当初は都会のショウウィンドウに飾られた姿がとても哀しく感じられたからだ。それに都会の喧噪のただ中にありながらマネキンの在る場所は一種独特の空気感がそこに漂っている様に思えた。僕はその雰囲気に魅力を感じたし、哀しく感じられたその空気感を撮りたいと思ったのだ。

都会のショウウィンドウに在るマネキンを撮る場合、どうしてもリフレクション効果を考えずにはいられない。多くはガラス越しに撮ることになるのだから、そのガラスに映り込む明かりとか情景とかの配置をどうしても考えてしまうことになる。場合によってはそこに自分も写り込むことになる。それらを排除するかそれとも積極的に写し込むかは何を撮りたいかによって変わってくる。

リフレクションを手法として単純に考えた場合、重要となる要素はガラス面に対するカメラの位置だろう。さらに陽の光。撮す時間帯によっても大きく変わる。時間によっては撮したい角度での撮影は難しくもなる。さらに露出も難しい。それらが上手く出来たとしても写り込ませたい情景がその時点で揃っていなければならない。でも僕にとって一番大事なのはマネキンそのものの表情である。撮りたいと思わせるマネキンは都会には、こんなにもショウウィンドウに溢れているにも関わらず、案外に少ない。

マネキンとは何だろう。マーケティング視点(ビジネス面)を外して考え直してみた時、こんな風に考えられないだろうか。マネキンは人間の姿を模して造られた。それはあたかも神が自分の姿に似せて人間を創ったように。マネキンの視点から見ると神とは人間のことである。そして彼ら・彼女らは一定の法則に則った場所に置かれる。マネキンとは人間の世界の内に在りながら外部に在る人間に似たものなのだ。マネキンを撮るということはあたかも神の視点で撮ると言うことだ。そして外部に在るマネキンを通じて都会の孤独感・閉塞感・疎外感・寂しさ・哀しさが写し出される。

それらの孤独感・閉塞感・疎外感などの感覚は、マネキン自体で現す物質文明もしくは消費文化だけが起因するわけでもない。おそらくそれらは情報の非対称性からやってくる様に思う。声を出す者が、その出した声の通りになるとすれば、その者は閉塞感を感じることは少なかろう。声を出しても届かない状態、そしてそのことに自己責任と安易に単純に押しつける傾向。メディアは繰り返し非対称の意見を繰り返している現状。インターネットはそれらを打破するツールになり得たかと言えば、結局の所、やはり声の大きな者と専門知識をひけらかす者たちの場になってなっている。でもまだこうやってネットを使える者は良いかも知れない。

リフレクションをもう一度考えてみる。マネキンと一緒に写り込まれた映像はなにかというと、主に、カメラの角度にもよるが、マネキンが見ている世界である。そしてマネキンとその世界の間には透明な壁がある。そしてマネキンは狭い空間に閉じ込められている。またガラスに映り込まれている情景はカメラの背後にあり、撮影者は直にそれを見ることはできない。ガラスに写っているのはいわば虚像でもある。マネキンからの視点では世界はただ見るだけであり、撮影者の視点から言えばマネキンが見ている世界を一枚の写真に収めることが出来るがそれが本当の世界かどうかはわからない。リフレクションという手法はある面では情報の対称性を目指していると思うが、しかしそれは完全ではなく新たな疑問を呈する手法でもあるようだ。それでもマネキンを対象物としリフレクションでの撮影が目指す表現とは都会に住む人間の姿であるとは思う。

東京写真美術館で現在開催している写真展「光の造形 操作された写真」で桑原甲子雄さんのマネキンの写真「京橋区銀座」を観た。昭和十一年の東京を撮した写真集(1974年)に載っている写真のようだ。正直に言ってこの写真には驚いた。その写真にはマネキンとガラスに映った銀座の情景が見事に写っていた。マネキンの表情も良かった。僕が撮したいと思っていた写真がそこにはあった。だからこそか僕は桑原さんがこの写真をどの様な気持ちで撮したのかがとてもよく分かるような気がした。

桑原甲子雄さんのこの写真は隅々まで計算されている写真である。偶然が産み出した写真ではこのようには撮せない。トリミング、覆い焼き、焼き込みなどの現像時の手法を駆使しイメージ通りに仕上げたとしか僕には思えない。実際に僕はこの写真を観た翌日にカメラを持って街に行きマネキンをリフレクションを使って試してみた。一日では得ることは無論難しい。僕の写真は散々だった。しかしその試行で考えたのがこのブログ記事となる。

桑原さんの写真からのメッセージは明確である。それはおそらく多くの人がこの写真を観て感じることだろう。それぞれの思いは違っていたとしても言葉として語るとすればこの写真の一つの方向性を指し示すはずだ。

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