日本広告機構の支援キャンペーンの中に学校給食支援がある。その広告は昨年から今年の6月までの一年間行われている。僕はそのキャンペーンがあること自体知らなかった。知ったのはつい最近のことだ。電車そのキャンペーン広告を見たのだ。その広告写真にはラオスの小学生達が写っていた。その写真は後ろに女の子二人と男の子二人がそれぞれ組になって並び、前には女の子が一人立っている。カメラは彼らの前方斜め前から見下ろすような位置にあって、子供たちは丁度見上げるようにしてカメラに向かって微笑んでいる。それは大人の視線から子供たちを見下ろすのと同じような印象を与えていた。子供たちが大人達を見上げて微笑んでいる。彼らは学校給食と思われるカップに入った飲み物を手にしている。僕はキャンペーンの内容というよりも、その写真自体に釘付けになった。広告だから写真に何らかの意図的な編集が施されているのは間違いない。しかし彼らの瞳の美しさは写真の編集だけでは得られない実際の輝きと深さがあった。
その時、僕は畠山美由紀さんの「我が美しき故郷」を聞き故郷について考えていた。彼女の出身は東日本大震災で被災した気仙沼で、彼女は崩壊した故郷を思いを詩と曲にしていた。彼女は詩の中で故郷の情景に祖母の足音を書いていた。僕も父が入院中に母の青森の実家に預けられたとき祖母に面倒を見てもらったことがある。とても厳しい人で僕はしょっちゅう怒られていた。僕は怒られるのが嫌で祖母から逃げ回っていた。背後から祖母の怒声を聞いた。僕にとって祖母とはそんなイメージの中になる。その祖母は僕が小学生の時に胃がんでなくなった。母と一緒に急いで実家に行ったとき、しーんと静まりかえった実家が祖母の不在を現していた。
僕はその母の実家を故郷と実感している。それはそこで幼い頃に暮らしたと言うこと以上に祖母との思い出がそこにあるからだと思う。故郷とは祖父母が住み、そこで父母が育ち、そして僕が幼い頃に過ごした場所を言うのだろう。だとすれば故郷の崩壊は自分自身の根っこの部分の崩壊をも意味することになるのかもしれない。畠山美由紀さんの詩はそんな思いとそれでも再生する意志を感じさせてくれた。
祖父母が自分の実際の故郷を示すのであれば、僕がラオスの小学生の写真で感じたのは、子供たちの瞳にある原点としての故郷のイメージだった。果たして僕が僕となったのはいつのことだろう。少なくとも小学生の頃は僕はまだ僕ではなかった。その頃の僕はまだ他の誰かだったようにさえ思える。ラオスの小学生の瞳には「私」となる以前の何かがあった。きっと僕も小学生の頃はあの様な瞳を持っていた。僕はあの瞳からやってきたのだ。そんな思いが写真を観て沸き上がっていたのだった。
人は「どこから来たのか」そして「どこにいくのか」という本質的な問題を考え続けるのだという。でも僕がラオスの小学生の瞳を見て思ったのは、彼らは、つまりは「私」となる以前の「私」はそのことを知っているということだった。年齢を重ねる毎に人は「私」となっていく。しかし逆に年齢を重ねるたびに忘れていくものもきっと多い。子供たちの瞳は、それは人種性別を超えて、もしくは生命そのものの垣根を越えて、同じように美しく見えるのは、きっと僕らがそこから来たという原点そのもののように思う。それはある意味具体的というよりも普遍的な故郷のイメージのように思える。
故郷は祖父母の足音、そして子供たちの笑い声。この二つが揃っていなければならないのだろう。
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