伊達公子さんの言葉。彼女は活躍すればするほど彼女の年齢がついて回る。そのことに嫌気もさしていたことだろう。しかしそれにしてもこの言葉には強い自負を感じる。確かに年齢はただの数字かも知れない。例えば50歳と言うことは、その方が誕生してから地球が太陽の周りを50周したことでしかない。しかしその50周の間で、泣き笑い怒り憎しみ誇り妬み恋をし子供をもうけ親しい人の死を何度か遭遇し早ければ亡くなっていく、様々な人の営みがあるのも事実なのだ。無論、そんなことは伊達公子さんもわかっている。その上でこの言葉が言えるところに自負を感じるのだ。
以前に僕は一を聞いて十を知るような、例えば旅行をしたり映画を見るだけでも、他の人とは違う観察力と分析する思考力とそれ以上に感じる心の強さにより、他の人が得られないようなことを得る人がいると考えていた。そしてネット上に書かれるブログなどで、人の旅行記を読んだりして、その内容の凡庸さと陳腐さに内心がっかりもしていた。そんなことしか感じられないとしたら旅行など意味がない、家で写真集でも眺めていてもこと足りる、そんな風に思っていたりもした。
でもある程度の年齢になり、その様な考え方自体とても傲慢であることに気がついた。その様なことに気がつくのにある程度の年齢が必要だったのが、僕の言葉で言えば観察録と思考力と感性が鈍い証拠だろう。当たり前のことだが、「一を聞いて十を知る」の一とか十の項目の断定の仕方には、項目を設ける基準、つまりは価値観が必要になる。また凡庸とか陳腐とかは、確かにあるのだが(例えば人の言葉を自分の考えのように述べるときがそうだ)、それを断定する基準も必要となる。要するに以前の僕は自分の基準に合わない意見を無視していただけのことでしかなかった。
伊達さんにとって、おそらく嫌気がさしたとすれば、自分の活躍に年齢を気にするような社会の価値観そのものだったと思う。さらにいえば、年齢が社会システムにおいて一つの重要な要素であり、そのために社会全体が年齢を意識させるような教育を行っていることへの批判、例えばアンチエイジングと言う言葉が持つ不思議さ、もしくはその言葉に違和感を感じることへの表明、そんな風に思えるとすれば、それは考えすぎだろうか。
話は戻るが、50周の間に得た経験と20周で得た経験との重みの違いはあるのだろうか。亀の甲よりも年の功、というように経験は太陽の周りを何周したかで違ってくるのだろうか。原理的には経験が較べられない以上、違いはわからない、較べること自体意味がない、となるのだろう。ただ会社などの一つの価値観の中だけは経験の違いを明らかにする方向にあるようだ。
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